ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

加藤ヒサオ展7月1日から

2017年06月27日 | 游文舎企画

埼玉県在住の加藤ヒサオさんの個展が7月1日から9日まで開催されます。
26日には加藤さんから作品が送られてきました。大きな作品はありませんが、小品を中心に数十点の作品が届いています。
加藤さんは10年前に、ギャラリー「十三代目長兵衛」で個展を開いていて、今回は10年間の総決算という位置づけになるのでしょうか。
10年前より色彩も鮮やかになり、新しい技法も加味されて、充実した個展となりそうです。楽しみにお待ち下さい。


伝統と創造と――人形浄瑠璃「猿八座」高柳公演

2017年06月23日 | 游文舎企画

6月17,18日、人形浄瑠璃「猿八座」高柳公演が行われた。主催は游文舎、ぐるぐるはうす高柳他、市民有志のグループ「柏崎古浄瑠璃を楽しむ会」。西橋八郎兵衛さん率いる猿八座は、佐渡の文弥人形を元に、義太夫以前の古い曲節・一人遣いの人形による古浄瑠璃を復活上演している。太夫をつとめるのは渡部八太夫さん。出演は八郎兵衛さん、堀八島さん他4名。
会場は高柳町岡野町の姫の井酒造「ギャラリー酒の館」。街並みといい、会場といい、これほど古浄瑠璃にふさわしい場所はなかったのではないか。もともと寺社の境内や広場で上演されていた、庶民のための芝居。今回の実行委員長を務めたぐるぐるはうす・今井さんが本業顔負けの大工仕事で見事な芝居小屋に仕上げてくれた。5月にはもうチケットが完売、それでも当日来られる方もいて、開場早々に客席はいっぱいになった。その数2日間合わせて約300名。

演目は両日とも「信太妻」から「葛の葉子別れ」、そして一日目には「狢」、二日目には「小栗判官照手車曳の場」も上演された。
「葛の葉子別れ」は、陰陽師・安倍晴明の母が実は狐だった、という伝説に基づくもの。狐の姿を見られて森に帰った母・葛の葉を探し求める父子との、再会と別れの物語。素朴ながら心情は現代にも通じて、人形のダイナミックにして、細やかな動きが、初めて見る人にも確かに伝わってくる。「狢」は小泉八雲の怪談に作曲・振り付けした全くのオリジナル。古浄瑠璃の新たな可能性を見た。そして「照手車曳の場」。「餓鬼阿弥」となった小栗の車の縁で添い寝する照手の、情感こもった繊細な動きに、人形であることを忘れて見入った。

合間には人形解説、終演後には人形遣い体験もあり、こちらも好評だった。
人の命が軽んじられる世の中にあって、仏教の教えをわかりやすく説いた説経浄瑠璃が、300年を経て現代人の心を捉えたのだった。

形のないものを形にして――北條佐江子展「天詩降る森で」

2017年06月14日 | 游文舎企画

森のコンポジションⅡ

聴星詩/ちょうせいし―孤高の星が降る夜に

風想詩/ふうそうし―雨に負けぬ花

詩(うた)降る夜

「形のないものを形にし、形のあるものを排除する」―北條さんは作品の前で、敬愛するパウル・クレーの言葉を自らに言い聞かせるように語った。会場にはクレーへのオマージュ風の小品が十点と、100号大から130号の大作八点が展示された。多くが今展のための新作だ。
北條さんにとって、「形のないもの」とはいったい何か。それは生命の神秘、原初の大地、漠として広大な宇宙、あるいは童心のままの世界だろうか。
圧巻は正面を飾る「聴星詩/ちょうせいし―孤高の星が降る前に」と題された三連作。中央にF130号のキャンバス作品、左右対称に170×80㎝の板絵が、観音開きの祭壇画のように並ぶ。だが、深いブルーを背景に、星や文字や人らしきものを象徴的に配した画面は、無限の宇宙に心を解き放つ。
中央の作品は濃淡多彩なブルーの空に、一気に描かれたらしい白い大気の塊が浮かぶ。そして降り注ぐ黄金の光が、星たちの瞬きを詩へと変える。板絵の方は、漆喰のように顔料を塗り重ね、磨き、彫り、さらに絵の具を塗り込んでは作られる工芸的、彫刻的な作品だ。色彩や構図の画家と思われがちなクレーが、比類のないテクスチュア・コントローラーでもあったことを思い出させる。いずれもやや沈潜したブルーの背景、向かって右側は、左辺に寄せた岩のようなグレーの三角形が画面を大きく占める。左側の絵は金色の矢が光の輪を突き抜け、画面を対角線に切り、上へと伸びる。強い意志を感じさせる。いずれにもアメリカ・インディアンが岩に刻んだという文字が散りばめられ、未来の解読を待つ。モチーフをできるだけ切り詰め、大胆な構図をとることによって、大きな空間と悠久の時間を獲得することになった。
「風想詩/ふうそうし―雨に負けぬ花」(F100号)もまた、板に描かれた作品だ。暗褐色を主調としているが、赤い地色の頑強なマチエールは光を受けて驚くほどの発色を見せる。ディテールをそぎ落とし、抽象化された花や風景、削って引かれた光のような白い線が、伸びやかで大きな構成的画面と相まって、集団の記憶―大地の記憶を呼び起こす。
展覧会前、北條さんのアトリエを訪ねた。構想を話しながら次々に見せていただいた作品のいくつかは、まさに作家の葛藤のうちにあった。それから一ヶ月半の間に作品は大きく変貌していた。「詩(うた)降る夜」(S100号)もそのひとつである。前述のような、完成度の高い神話的な作品とは異なる。賑やかにおもちゃ箱をひっくり返したような画面。中央上部にある灯は夢の時間のための灯だ。街も木々も星も鳥も動物も子供たちも夜闇に紛れて踊り出す。未だ完成を疑う作家の思いを超えて一人歩きしている画面は、なんとも無心で生き生きとして魅力的だ。「完成しても消す勇気が必要」と言い、「塗ったり描いたり削ったり、これからもやっていきたい」という北條さんが、さらにどんな作品を見せてくれることだろう。(霜田文子)




炸裂する狂気

2017年06月02日 | 展覧会より

 東京ステーションギャラリーで「アドルフ・ヴェルフリ~二萬五千頁の王国」を見ることができた。アドルフ・ヴェルフリはアール・ブリュットの巨匠といわれ、世界的に高い評価を受けている作家であるが、日本ではあまり知られていない。アール・ブリュットの先駆的な展覧会であった、2008年の「アール・ブリュット 交差する魂展」では、何人か海外の作家の作品が展示されていたのだが、そこでも紹介されていない。
 日本におけるアール・ブリュットは、どちらかというと知的障害者の作品が多く紹介され、精神病者の作品はあまり紹介されていない。しかし、ヨーロッパでは精神病者のアーティストも数多く発掘されている。
 ヴェルフリは1864年にスイスのベルン近郊に生まれ、貧しく悲惨な幼少期を経て、性犯罪を含む数々の犯罪を犯し、31歳の時精神分裂病との診断を受け精神病院に収容されている。35歳から絵を描き始め、1930年に亡くなるまでに、25,000頁にのぼる作品を残したというから怖ろしい。
 知的障害者にも、何かに取り憑かれたかのように無心に描き続け、膨大な作品を残した人もいるが、ヴェルフリほど途方もない量を描いた人はいないだろう。
 ヴェルフリの作品は1m×70㎝くらいの大きな新聞用紙に描かれたものが多く、一枚見ただけで眩暈がするような緻密な図柄を特徴としているから、よほど集中して描いていったのだと思われる。こうした異様なエネルギーはある種の分裂病者やパラノイア症者に特有のもののように思われる。
 知的障害者のアール・ブリュット作品は、特にダウン症の場合、優しくて穏やかな絵が多く、それが日本のアール・ブリュット愛好者の趣味にも合っているようだ。しかし、精神病者のアール・ブリュット作品は、時には攻撃的で怖ろしい狂気の世界をかいま見せる。そのあたりが日本の場合受け入れにくい特徴をなしていると言えるだろう。
 ヴェルフリの作品は余白を残さず、画面を絵や記号、文字や楽譜で埋め尽くされている。しかも、それらの要素を執拗に反復するという暴力性を持っている。ユーモラスな表現もあるが、その執拗な繰り返し自体が暴力的であり、攻撃的である。中でも70㎝×468㎝という巨大な作品〈アリバイ〉はまさに、〝炸裂する狂気〟の表現となっている。
 ヴェルフリは世界中の地所を買い占めて、世界に君臨する「聖アドルフⅡ世」を自称していたそうで、ある意味でヴェルフリの作品は、その偉大な治世の記録でもあるのだ。こうした途方もない妄想も日本人にはなじめない一因となっているのかも知れない。
 初期の作品は絵や記号で埋め尽くす、強迫的に余白を許さないものであれ、それなりの構図というものを持っている。まるで曼荼羅の世界のようであり、曼荼羅のように整然とした構図を誇示している作品もある。
 しかし、晩年の作品になるに従って、文字や楽譜の要素が支配的となっていき、絵を駆逐していく。絵はコラージュとして貼り込まれたものによって代用される。そうなってくると、ヴェルフリの作品を絵画として楽しむ余地がほとんどなくなっていくので、ドイツ語を解さないと彼の妄想にさえ付き合っていけなくなる。
 会場で作品に書き込まれた文字の朗読が流れていた。同じような言葉を執拗に何度も何度も繰り返す、パラノイアックな言葉の連続に不気味なものを感じてしまった。(柴野)