ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「門」あるいは「とびら」 ―コイズミアヤさんの「箱」(1)―

2015年04月30日 | 游文舎企画
游文舎七周年記念企画のコイズミアヤ展「充満と空虚」では、9つの白い箱形の作品が並んだ。すべて揃えたのは2005年の初展示以来とのこと。10年ぶりの再展示にあたり、コイズミさんはそれぞれのイメージからのドローイングを添えた。言葉と立体とを往還しつつ構築していくようなコイズミさんの造形世界に、さらに平面作品が加わり、ギャラリーは重層的な思考空間へと変貌した。

初めて実物を見たときのことを思い出す。不思議な体験だった。それまで写真でしか見たことがなく、螺旋階段は天空へ向かうようだし、大気の塊が家を蔽っていくようで、大きな楼閣のような作品をイメージしていたが、実は40㎝四方、高さ35㎝ほどの箱の内部だったのである。具象的な椅子や階段や家を実際の比例を無視して配し、さらに抽象的な形も組み合わせることによって錯覚させられていたのだった。それらは周到な設計図によって作られているのだが、そうした作為を感じさせない、静穏で、既視感を伴う、白日夢のような世界でもあった。
 箱の四辺それぞれの中央に、下方から、あるいは上方から切り込みのような細い長方形の開口部がある。門を思わせる。箱の中に入り込み、夢想を妨げることのない入り口としての門。さらにはそこを通り抜け、次の箱へと誘う門。もちろんあくまでも視覚と意識だけをくぐらせるものではあるけれど。それぞれタイトルを付された9つの箱の中央は「聖なる山」。マンダラのように配された箱を逍遙していくと、いつしか内部と外部(見る人)は一体となり、原初的で普遍的な祈りや瞑想の空間にいるような感覚を覚える。
1996年の初個展からの制作ファイルを見る。展示の度に、テキストも添えられている。コイズミさんにとって、作品とテキストは不即不離なのだ。
「私は世界を箱にしまい込もうとしている。・・・箱に直接手を触れて開いてもらうことによって、具体的で個人的な出会いの場と時間を共有することができるように。そして箱は普段は閉じられていることによって、世界はいつも内側に在ることを表していた。」(初個展の時のテキストより)
このとき「小さな門(とびら)」という作品も出品されている。テキストを読むうち、「門」「開いて」「時間」「閉じられ」等、「もんがまえ」の文字が多いことに気がついた。さらに読み進むと「門」「開」「閉」「間」「閃」「関」「闇」「聞」・・・と、「もんがまえ」の文字だけが、文脈や言葉から独立し、意味から離れて紙面から浮き上がり、箱形の立体物のように立ち上がって来るのだった。




「異境の中の故郷」上映会(2)

2015年04月29日 | 游文舎企画

左から大川景子、リービ英雄、温又柔の3氏

「異境の中の故郷」上映後、リービさん、温さん、大川さんの三氏による鼎談が行われた。鼎談は映画に関わる部分だけではなく、リービさんが幼少期を台湾で過ごしたことの持つ意味について深く掘り下げられていった。
 まずリービさんは、同じように少年期を満州で過ごした作家・安部公房の体験と自らの体験をだぶらせて語った。リービさんは満州で安部公房が住んでいた家を探す旅にも出かけている。発見したのはいいが、中国人が桜の木やモミジの木を、食べられないからと全部切り倒し、野菜畑にしてあったことにショックを受けたという。
満州もまた気候風土はまったく違うが、台湾と同じように大日本帝国が造った国で、そこには同じような日本人街があった。リービさんは「安部公房はおそらく『砂の女』を書くにしても、日本人の子供として非日常的な満州の風景の中にいたことが大きなインスピレーションになっている」と話した。
 そのような視点が二〇世紀の帝国文学に表現されることはなかったが、「安部公房の初期の作品にはそれがかなり鮮明に出ている」とリービさんは話し、そうした視点が自分自身のインスピレーションにつながっていることを強調した。
 リービさんは六歳から十歳までを台湾台中市の日本人街「模範郷」で過ごした。「その時の記憶を歴史と一緒に掘り出そうという文学を自分は書いている」と、リービさんは安部公房の仕事と自らの仕事を重ねてみせた。

大川さんが映画の意図について語る。「飛行場で会ってからカメラは移動し続けていく。リービさんの書斎にたどり着いて初めてカメラは止まる。リービさんがたどり着いたその場所まで、幼少期の記憶を再構築していく移動のプロセスを大事にしながら作った」と。
 リービさんは映画について「あんな終わり方をすると思わなかった」と語り、リービさんは自分の書斎を「日本語を書く部屋」と名付けているが、「全部最終的に、体験を日本語で書くのだということが表されて、感傷的な映画とは次元の違う映画になった」と、大川作品を評価した。
 温さんも「ただ単に過去の場所を探しているだけではない。作家・リービ英雄は日本語で再構築するだろう」という「始まりの予感を抱かせる」終わり方だと、大川作品を高く評価した。温さんはまた「自分の言葉を探して、三人とも競い合うように表現を求める旅だった」とも語った。

「異境の中の故郷」上映会(1)

2015年04月24日 | 游文舎企画
 文学と美術のライブラリー「游文舎」では4月19日、柏崎市民プラザを会場に大川景子監督作品「異境の中の故郷」の上映会を開催した。当日は統一地方選挙後半の告示日であったにも拘わらず、100人を超える参加者があった。首都圏からわざわざお出でになった方や、新潟・長岡からの参加者も多かった。
 この映画の説明は下記のとおり。

リービ英雄は日本語を母語とせず育ちながら、現在は日本語で最も豊かな創作活動を続けている日本文学作家である。2013年3月、台湾の東海大学シンポジウムに招聘されたことがきっかけで、リービは52年ぶりにその場所を訪れることを決意する。その旅に詩人の管啓次郎、映像作家の大川景子、作家の温又柔が同行し出来上がったドキュメンタリー作品。

 リービ英雄さんは1956年から1960年まで、6歳から10歳までの幼少期を外交官だった父親の赴任地、台中の模範郷という地区で過ごした。そこで聴いて育った北京語と台湾語、そして母語である英語が今日のバイリンガル作家、リービ英雄を生んだと言ってもよい。
 リービさんはその頃のことを「天安門」や「星条旗の聞こえない部屋」などの作品に書いているが、台中の外交官住宅は両親の離婚の舞台となった場所でもあり、これまでリービさんはそこを訪れることを意識的に避けてきたのである。
 映画は、台湾生まれで日本語で書く作家の温又柔(おんゆうじゅう)さんの本棚の映像から始まる。そこで温さんがリービさんの作品のこと、そして故郷としての台中に対するリービさんの複雑な思いについて語る。
 一行は台北松山空港に降り立ち、台北から新幹線に乗車して台中に向かうが、リービさんの車中での「こんなに早いとちょっと暴力的ですね。時間に対して、記憶に対して」という一言が印象に残る。リービさんは3日前、中国河南省で「今の台湾にはもはやないもの」を求めて旅をしてきたばかりなのだ。
 東海大学で講演を行ったあと、幼少期を過ごした台中の街に入り、52年前に住んでいた家を探す。町並みは大きく変貌しているが、道路はそのままだから見当は付く。思い出のどぶ川のあとを見つけて、思い出話をひとつ。汚いどぶ川でアイスクリームを買って食べ、それが原因で猩紅熱にかかり2週間寝込んだ思い出を。
 記憶をたどり、ひとり路地の奥に入っていく。住んでいた家はもうなかった。その喪失感の中でリービさんの感情が激発することになる。カメラは、嗚咽するリービさんの背中をさすって宥める温さんの後ろ姿を捉える。ここがこの映画のクライマックスなのだが、映像はあくまで冷静で淡々としている。
 しかし、リービさんが暮らした家と同じ家が「孫立人将軍記念館」として奇跡的に残されていた。この住宅は戦前、日本人が日本人のために建てたもので、戦後はアメリカ人が住むことになったという複雑な歴史をもつ。塀のある大きな家。塀の上にはガラス瓶の破片が刺さっている。泥棒よけなのだという。リービさんが作品に書いているその塀の上のガラスをカメラはズームする。
 52年ぶりに昔暮らした家と全く同じ間取りの家を訪ね、リービさんは記憶を甦らせていく。「この部屋で聴いた『支那の夜』の歌」、この歌の思い出は「国民の歌」に書かれている。SPレコードで聴いた「支那の夜」を知的障害のある弟が「シナ、シーナ」と繰り返す場面である。ここで映画は渡辺はま子の「支那の夜」を流す。「国民の歌」を読んでいないとちょっと分かりづらいかなと思った。
 シーンは変わって、台湾海峡を望む海辺へ。「そこに大陸がある」と彼方を指さすリービさん。リービさんは大陸から帰ってきたばかりなのだ。そこでリービさんは「この旅はぼく忘れないね」と語る。
 最後に神楽坂の路地の奥にある築50年の木造家屋でのインタビュー。リービさんの自宅である。リービさんは語る。
「あのような家に暮らしたから、想像の日本、歴史に根付いた想像がうまれたのかな」
そして、
「親の離婚に気づいた場所であり、子供として社会なり世界なりに気づいた場所でもあった」
と。
原稿用紙にペンを走らせる作家、リービ英雄の映像で映画は終わる。

「異境の中の故郷」上映会と鼎談のご案内(4)

2015年04月13日 | 游文舎企画

温又柔さん

温さんには、2011年9月から2015年5月まで、白水社のメルマガに連載された「失われた母国語を求めて」というエッセイもあります。実は『来福の家』は残念ながら絶版ということで、入手は難しくなっていますので、こちらをぜひ覗いてみて下さい。
 いつしか母語同然に日本語を話し、日本人同然に生きていた温さんが、自分と日本語との関係を自覚的に問い直した契機や過程が明解に書かれています。そうした中で政治にも目を向けるようになり、個人の歴史や記憶が、普遍的なものとつながり、世界は大きく開かれていきます。
 それにしても台湾語、中国語、日本語を適当に交えて話すという母親が何と生き生きと描かれていることか。その時々の感情を最も表しやすい言語で話す母親のおおらかさ、豊かさ。母語でもない、母国語でもない、温さんにも脈々と受け継がれている母の言語。小説でもエッセイでも、母親の存在感は圧倒的です。
 馬祖――中華民国領なのに福建省に属する、限りなく大陸に近い島――でアジアの学生達のゼミに参加し、温さんは「ふたつに裂けた中国語について私は日本語で考えていた」と書いています。「国って何?」「どうして“私の国”をたった一つに決めなければいけないの?」「My Dear Countries,My Dear Languages」。そして「私のニホンゴには「国語」から零れ落ちるしかなかった私の中国語も織り込まれている」と書き、「これからも私は中華民国のパスポートと私のニホンゴを携えて、旅を続けるつもりだ」と力強く結んでいます。
 温さんの旅は、リービさん同様、空間の移動が、時間や意識の溯行も伴うのです。映画の中の温さんは何ともチャーミングですが、リービさんとの師弟関係が逆転するようなシーンがあります。とても感動的なシーンです。(この項終わり) (霜田文子)