ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

芸術にしか出来ないこととは何か―『地域アート 美学/制度/日本』を読む(2)

2016年08月29日 | 読書ノート
美術史家の加治屋健司が、ちょっと哀しいリポートを紹介している。大地の芸術祭でも主要作家である川俣正が第4回展の後で行った報告だ。

(地域の人がみんな元気になったというので精神科医に出前臨床をしてもらったところ)かなり躁鬱的な人が多いという結果が出ました。そしてアートに対して予想以上に興味がないという結論になってしまいました。

想定されるところではあった。続く論文や対談を読んでいて見えてくるのは、藤田の言う「地域アート」即ち我々がなじんでいるアートプロジェクトとは、どうやら日本独自のものだということである。これらが理論的に依拠しているというニコラ・ブリオーの『関係性の美学』(1998年 邦訳はない)について、美学者の星野太は、保守的な媒体を使う商業主義的な芸術への批判から生まれた、プロセス、プラットフォーム、コラボレーション等を重視する動向だとした上で、日本では理論そのものより「ネットワーク社会のキーワードである『関係性』と結びつけていった」のではないか、と言う。また加治屋も、1950年代からの野外アート展や80年代からのパブリックアート展から受け継がれたものであり、もともと社会的な文脈とは距離を置いていたのだという。それらから浮かび上がるのは、日本のアートプロジェクトの「批評の脆弱さ」である。
 その上で加治屋は、運営よりも作品とキュレーションの議論を深めること、社会批評性の多様さを踏まえた活動であるべきこと等を述べ、継続を重視することによる画一化への警鐘を鳴らす。
 また文化理論の清水知子は、今日のアーティストとは未知の土地で新たな「場」を作るプロデューサーであり、プロセスを共有することの重要性を強調する。そのプロセスを通して他者と出会い直し、認識の地図を描き直すのである。
 以下、個々の論は割愛するが、海外事情に詳しく、論客でもある若手アーティストたちが新たな批評言語を持っていることを感じさせられた。そんな中でも藤田と対談した会田誠を一番すんなりと受け入れられたのは、最年長と言うこともあろうが、唯一物質的媒体で表現し、マーケットにも参入している作家であること、社会への痛烈な批判を体現していることなど、藤田も含めて我々が「アーティスト」として最もイメージしやすいということではないだろうか。そんな会田が爆発的な人気を誇っているのも、人々が、アートに感性や技術(=巧さ)、社会と対峙していることを求めているからだと思う。
 美術館を飛び出すことはますます盛んになるだろう。若い人たちを中心にそうした人たちの発表の場として、地方が名乗りを上げることは決して悪いことではない。競い合い、批評がきちんとなされれば作家も集まってくるだろう。地元もまた、無理のない、本当にやりたいことを主張すべきだ。街おこしが目的ならアートでなくてもよいはずだ。なぜアートなのか、アーティストも主催者も地元もまずそこから共有しなければならないのだろう。(霜田文子)
 

芸術にしか出来ないこととは何か―『地域アート 美学/制度/日本』を読む(1)

2016年08月26日 | 読書ノート
「街おこしアート」といった言葉を聞くと何とも居心地の悪い思いをしてきた。アート―美術や芸術といいたいところだが―とは極めて個人的なものであると同時に、絶えず社会との緊張関係を持っているものではないかと思うからだ。しかし今や公金を投じて、自治体が主催するアートプロジェクトが、全国各地で行われている。地域に活力を、というのがねらいだ。作品の多くは現代アートで、地元の人や若者が参加するインスタレーション的なものが多い。
そもそも文化とは地域振興を目的とするものではないと思っている。伝統文化や芸能、既に価値の定まった美術品などを使って人を呼び込もうというのならわからないでもない。だが現在進行形の創造活動を地域活性化に結びつけること、目的化することにはどうにも違和感を覚えてしまう。といって、限界寸前の集落に若者が集まり、地元のお年寄りが喜々としている光景を見て心が騒がない、と言ったら嘘になる。やっぱりアートの力なのだろうか。ここではアートとは何か、と問うことは無意味なのだろうか。
そんなもやもやとした気持ちに、議論の契機を与えてくれそうなのが藤田直哉著『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)である。著者の定義によれば「地域アート」とは、ある地域名を冠した美術イベントのことである。
まずは巻頭論文「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」が、日本の現代アートの問題を浮き彫りにする。そこでは現代アートが地域活性化や経済効果の手段として消費され、多くの人を巻き込み協働する「関係性」自体の快楽が「美」と認識されているらしいこと、プロセスこそが重要であり、「開かれている」がために鑑賞者には全体像が見えにくく、批評しにくいこと、したがって質を問いにくいこと、公金が使われているがために制約があることなどである。そしてイベントの中心を担っているのが1960年代反骨の象徴であった「前衛」アーティストなのである。かつての批評精神を失い、小さなユートピア作りに回収されていく彼等を、藤田は「前衛のゾンビ」と呼ぶ。
以下、藤田とアーティストやキュレーター等との対話や、研究者による論文併せて8編が加わり、アートプロジェクトを通して現代アート全体の問題点や課題があぶり出されてくる。それぞれの論旨は明快だが、解答が示されているわけではなく、正反対の意見もある。地方のアートプロジェクトが範とした国際的なイベントの参加者とも、藤田は果敢に、真摯に論じ合い、折々立ち止まる。芸術にしか出来ないことは何なのか、芸術の芸術性を保証するものは何か、と。藤田直哉は1983年生まれ。こうした地域イベントに参加し、支えている人たちと同世代であることも興味深い。(続く)

「LPレコードを楽しむ会」のご案内

2016年08月19日 | 游文舎企画
第2回LPレコードを楽しむ会

中村逸郎さんのおすすめ19世紀末ウィーン音楽入門②
(なかむらいつろう:柏崎フィルハーモニー管弦楽団元団長)

Program 
フーゴ・ヴォルフ Hugo wolf《アイヒェンドルフ歌曲集》より


日時:9月3日(土)午後7時~(9時終了予定)会場:游文舎ギャラリー
会費:500円(茶菓付き)


游文舎で、懐かしいLPの名盤を聴きませんか?
皆さんのおすすめもお待ちしております。

様々な表情を見せる「私の海」―「佐藤伸夫小品展」

2016年08月10日 | 游文舎企画

久しぶりに鯨波風景のスケッチを見ていたら、どうしても展示したくなった。8月5日から7日までの、佐藤伸夫さんの作品展である。初日には八百板正己さんのチェンバロコンサートがある。どちらかと言えば抽象画の方が音楽に合わせやすいのではないか、と考えていたし、游文舎では抽象と具象を一緒に並べることはあまりない。でも作品を選んでいたら表現の違いはあっても一貫したものが感じられて、上手くいきそうな気がした。
 エントランスにはカモメの絵。メルヘンのような世界だ。そして入り口すぐにスケッチが三点。それぞれ微妙に異なる線の量、スピード、強さ・・・。緩やかにたわむ線と優しいブルーに光と空気がたっぷり含まれていて、湿度さえ感じられる。20年くらい前の作品だが今なお新鮮だ。
次のコーナーからはここ10年くらいの、抽象的な作品となる。文芸同人誌「北方文学」の表紙やカットに使われたものも多い。「うみのこども」「なんぱせん」などのシリーズから選んだ作品は小品とはいえ、非常に密度が濃い。今展ではその「なんぱせん」シリーズの前に描かれたカットに注目した。(写真左)
たっぷりと水を含んだ柔らかなブルーやドリッピングによる水滴、色紙のコラージュなどの上に思い切りよく引かれた線が効果的だ。この完成度の高い作品をさらに黒く塗りつぶしたのが「なんぱせん」シリーズなのだ。
千変万化する海と同様、佐藤さんの作品も、ひとつの表現に安住することがない。そこには凄みさえ漂うようになった。

そして中央壁面を飾るのが「深海」のシリーズ。アクリル絵の具を主体にさまざまな画材を用いて作られた重厚な画面と深く多彩な青。穏やかで優しい海ばかりではない。時には荒々しくどう猛な相貌も見せる。スケッチが人の表情を写し取っているとしたら、これらの作品は内面をえぐるように描いていると言ってよいだろう。そのどちらもが相まって佐藤さんにとっての「海」なのだ、と改めて思った。

絵画に囲まれてチェンバロコンサート―「八百板正己チェンバロコンサート」と「佐藤伸夫展」

2016年08月02日 | 游文舎企画

8月5日午後6時より「八百板正己チェンバロコンサート」を開催します。(開演時間が変わりました。ご注意ください)今回はチェンバロの歴史を辿り、その不思議を語りながらの演奏とのこと。かつて宮廷で演奏されていた楽器が、今こうして私たちの前で楽しまれるようになったことと関わりがありそうです。おなじみのトークと演奏をお楽しみください。
当日会場を飾る佐藤伸夫さんの作品展は5日から7日10:00から17:00まで展示しています。鑑賞のみの方は入場無料です。爽やかな鯨波風景や、千変万化する海をイメージした抽象的な作品など。吸い込まれるような深いブルーにご注目ください。