第二の創世神話の構成物は所詮まがいものや、不完全なもの、できそこないたちだ。「八月」の白痴の娘・トゥーヤ、“でぃ、だぁ”と呼ばれて馬鹿にされる知恵遅れの「ドド」、奇形の「エヂオ」のように。あるいは粗悪品や猥雑な物が溢れた「大鰐通り」のように。大鰐通りでは、時間までもが弛緩している。「大いなる季節の一夜」には“十三番目の偽りの月”という言葉がある。“偽り”とは“欠陥のある”“発育不全”といった意味らしい。怪しい、異端の神話が生まれる空隙だ。
さらに時間が歪み、解体していくのは第二短編集の表題作「砂時計サナトリウム」である。ユーゼフはサナトリウムにいる父を訪ねる。このサナトリウムでは、死んだはずの父が、時間を後退させることによってまだ死に行き着いていない。登場人物たちは実によく眠る。カフカの「城」を思い出させるが、もっと悪意ある力をもった眠りである。時間の連続性を放棄させ、時間の統制を失わせ、一人一人の時間を噛み合わせなくさせ、ついには分裂崩壊させてしまうのだ。悪夢のような事態に遭遇してサナトリウムを逃げ出し列車に乗り込んだユーゼフは、決して降りることなくあてどのない旅を続ける。
先の「大いなる季節の一夜」では、父がかつて育てていた鳥たちの末裔が大群をなして帰還してくる。しかし張りぼてのような、奇怪で生命のない出来損ないの鳥たちは次々に落下し、無残な姿をさらし、神話は瓦解する。それでも父は挫けることはないだろう。偽りの死を何度も生きた父のことだから。
比喩や擬人化の多い濃密な文章も、単なる修飾というよりも、言葉自体がまるで原始の植物や動物のように、蔓や触手を伸ばし、グロテスクな文様で空間を充填していくようだ。それにしてもシュルツの世界とは一体何なのだろう。衒学趣味?不条理?幻想小説?それともパロディーとしての神話か?確かなことは、切実な内的必然の所産だということだ。
全く作風の異なるシュルツとゴンブローヴィッチであるが、互いに高く評価し合い、深い親交を結んでいたという。ゴンブローヴィッチがアルゼンチン訪問中の1939年、ナチスがポーランドに侵攻し、彼はそのままアルゼンチンに亡命する。シュルツの死をいつ、どのように知ったのだろう。ボルヘスに擬せられることもあるシュルツ。しかしボルヘスを“アルゼンチンの現実に背を向けた成熟した知識人”であると批判したゴンブローヴィッチには、シュルツの、未熟で、毀れそうな内なる声が聞こえていたに違いない。
(霜田文子)
さらに時間が歪み、解体していくのは第二短編集の表題作「砂時計サナトリウム」である。ユーゼフはサナトリウムにいる父を訪ねる。このサナトリウムでは、死んだはずの父が、時間を後退させることによってまだ死に行き着いていない。登場人物たちは実によく眠る。カフカの「城」を思い出させるが、もっと悪意ある力をもった眠りである。時間の連続性を放棄させ、時間の統制を失わせ、一人一人の時間を噛み合わせなくさせ、ついには分裂崩壊させてしまうのだ。悪夢のような事態に遭遇してサナトリウムを逃げ出し列車に乗り込んだユーゼフは、決して降りることなくあてどのない旅を続ける。
先の「大いなる季節の一夜」では、父がかつて育てていた鳥たちの末裔が大群をなして帰還してくる。しかし張りぼてのような、奇怪で生命のない出来損ないの鳥たちは次々に落下し、無残な姿をさらし、神話は瓦解する。それでも父は挫けることはないだろう。偽りの死を何度も生きた父のことだから。
比喩や擬人化の多い濃密な文章も、単なる修飾というよりも、言葉自体がまるで原始の植物や動物のように、蔓や触手を伸ばし、グロテスクな文様で空間を充填していくようだ。それにしてもシュルツの世界とは一体何なのだろう。衒学趣味?不条理?幻想小説?それともパロディーとしての神話か?確かなことは、切実な内的必然の所産だということだ。
全く作風の異なるシュルツとゴンブローヴィッチであるが、互いに高く評価し合い、深い親交を結んでいたという。ゴンブローヴィッチがアルゼンチン訪問中の1939年、ナチスがポーランドに侵攻し、彼はそのままアルゼンチンに亡命する。シュルツの死をいつ、どのように知ったのだろう。ボルヘスに擬せられることもあるシュルツ。しかしボルヘスを“アルゼンチンの現実に背を向けた成熟した知識人”であると批判したゴンブローヴィッチには、シュルツの、未熟で、毀れそうな内なる声が聞こえていたに違いない。
(霜田文子)