ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「語りの場」を開く―記憶が宿り、物語が生れる「場」  ~姜信子氏講演会「語りの場、声の力」~

2019年08月22日 | 游文舎企画
「旅するカタリ」と名付けられた姜信子氏と渡部八太夫氏の二人組。「講演会」と言っても、ありきたりの講演ではない。姜氏の話しかけるような語り口に、八太夫氏の合いの手が入り、時に掛け合いのようになり、八太夫氏の実演もある。そこには遠い記憶を呼び寄せるようにさまざまな声が響き合い、姿の見えない人々がつぶやき、蠢く気配すら感じられた。
                 
〈記憶は「場」に宿る〉
 
「わたしたちはみんなちりぢりばらばら、どうやら記憶喪失」
            
  1959年 新潟港から北朝鮮へ最初の船が出たという
  1961年 在日朝鮮人のある一家が横浜から柏崎へ向かったという

姜氏が家族とともに柏崎に移り住んだのは1歳の時だった。
「柏崎で1年間だけ暮らした父は、同じ在日朝鮮人の友人たちが希望に胸を膨らませて新潟港から北朝鮮へ向かうのを見送って、南北分断の38度線を眺めて、俺が乗る船はこれではないなと、俺のいる場所はどこにもないなあとつぶやいて・・・一人柏崎の海を眺めている、そんな人でした」
             
  それを近代人の孤独と申す

「まさにその通り、植民地の民ほど、あるいは移民、難民ほど近代的な存在はありません」
姜氏は、言葉とは人と人との間に生れるものであり、ちりぢりばらばらの人間は自分自身の言葉を持ち得ない。自分を語り得ない者は記憶すら曖昧だという。
「(私の父も)いくども生き変わろうと試みた人生の物語をついに語ることが出来ませんでした。代わりに誰かが作ってくれた在日のありきたりの人生をまるで自分の記憶のように語る人でした。」
そして言う。記憶は人間にではなく、「場」に宿るものであり、その「場」を開くのは声の力である、と。
   
〈地べたの声をすくい上げる「語り」〉

しかしいつのまにかそうした「場」が失われてきたと言う。
「声を出して、場を分かち合って、記憶を語り継ぐことを封じようとする禍々しい力がこの世にはあるようなのです」
 
  ならばここに声を放ってみようか





ここで長岡瞽女の「信太妻・葛の葉子別れの段」が八太夫氏によって語られた。狐の母が森に帰る場面を瞽女さんたちが唄って人気を博したのは、子別れ・親別れが多かった時代、自分の物語として聞いていたからだと言う。姜氏は親交のあったハンセン病患者で詩人の谺雄二の例を挙げる。ハンセン病の母が子別れの段をよく口ずさんでいたと言う。しかし息子の雄二までもが7歳で罹患した後、決して口にしなくなったというのだ。
 また「ひとひきひいては千僧供養 ふたひきひいては万僧供養」で知られる「小栗判官・車曳きの段」では、地獄から引き上げた小栗を、藤沢から熊野まで、踊り念仏の一遍上人と同じ道筋を、通りすがりの人々が声を合わせながら曳いていく。
これらは次第に宗教から離れ、芸人たちが語るようになった。一番地べたに近い人たちが語り継いできたのだ。旅芸人たちはその場に合わせて物語を伸び縮みさせる。語りの世界には場の数だけ物語があり、それぞれがオリジナルであり、もっとも虐げられた人たちが最終的に神様になる。場の数だけ、神様もあるのだと言う。
語りの場はまた、円環的な時間の概念に支えられてきたとも言う。時間とは直線的に進化するのではなく、巡るものであり、旅芸人たちが毎年同じ道筋を巡ることで、世界は生まれ変わり、神様が降りると考えられてきた。

〈なぜ「声」は殺されたのか〉

それではなぜ、こうした「場」が失われたのか。氏は安寿と厨子王の話について考察する。今、私たちが知っているのは、森鴎外の「山椒大夫」だ。しかし説経では様々な「山椒太夫」がある。
鴎外は、人買いの山椒大夫の長男・太郎を早々に失踪させて、二郎、三郎だけにし、善悪二項の極めて合理的な物語にしている。また、説経節ではいずれも安寿は残酷な拷問を受け、そのために、あるいは生き延びても結局非業の死を遂げる。一方で山椒太夫も凄まじい復讐を受ける。
 しかし鴎外は、弟・厨子王を逃がした後、安寿が入水したことを暗示しているだけだ。さらに後に出世して、生地・丹後の国守となった厨子王は、丹後一国での奴隷売買を禁じ、山椒大夫も改心させる。
 拷問シーンについて、姜氏は次のように推測する。鴎外が生れてから6歳まで暮らした津和野では当時、明治政府が捉えた隠れキリシタンを100人近く預かっていた。そして棄教させ神道に変えようと厳しい拷問が行われ、多数の殉教者を出していた。鴎外は生涯これについて触れることはなかったが、知らなかったはずはない。説経の安寿の拷問と重なったはずだ。だからあえて安寿の死をぼかしたのではないか、と。
 「ひとひきひいては・・・」と、小栗で使われたフレーズが、「山椒太夫」では太夫の首を竹のこぎりで引くのに使われている。民衆は辻で説経語りを聞きながら、権力者の首が落ちるのを見ているのだ。
「最も地べたに近い、卑しまれた、さげすまれた人たちの気配が、森鴎外が消した声と共に消えてしまった。上からの声になってしまった。きわめて近代的な文学としてただひとつの正しいテキストとなってしまった。語りの数だけ、語りの場だけたくさんの声があったはずなのに、近代という時代そのものと結びついた巨大な場となってしまった。」

〈石牟礼道子と「語りの場」の復活〉

「いったん近代文学が成立した中に、語りの場をもう一度持ち込んできた」人として、姜氏がとりあげるのが石牟礼道子である。彼女は『苦海浄土』後書きで「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃(じょろり)のようなものである」と述べている。同時期に書かれた『西南役伝説』で自身を仮託した六道御前に「自分は狐に生まれたかった、葛の葉になりたかった」と言わせている。「人間どもがちりぢりばらばらの近代を超えて、断ち切られたものたちがつながりなおす「もう一つの世」へと向かう手がかりとしてのじょろり」なのだと言う。

   あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもん
   を、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。
   これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい(以下略)
     (第一部第四章「天の魚」より)

胎児性水俣病患者・杢太郎の爺さまの一人語りだ。 しかし実際に爺さまが語っているわけではない。石牟礼道子は「「水俣」という場で患者さんたちと交わり、彼らが宿す言葉を祭文語りのように、瞽女のように引っ張り出す、そういう仕掛けを近代文学の中に持ち込んだ」のである。
 第二部「神々の村」第一章「葦舟」では爺さまが杢太郎に「ふゆじどん」の話をする。「ふゆじどん」とは熊本弁で「ものぐさ太郎」のこと。何にも出来ない人。胎児性水俣病患者を喩えている。それではなぜ「神々の村」なのか。胎児性水俣病患者は「生産性」で計られる社会では最下層、その子供たちがいるところこそ「神の宿るところ」「神々の村」なのだ。ひとりでは何もできないが、助け合えばできる、そういう神々の村が水俣であり、一つの共同体としてさまざまな物語が生れ、爺さまのように語る人がいる。



   すんなら、じょろりば語りましょうかい

   ゆこうかい、のう杢よい ゆこうかい、のう杢よい
   (中略)むかし、むかしなあ、爺やんが家の村に、ふゆじの天下
   さまの、おらいたちゅう。
   (中略)ふたりのふゆじどんたちは、おたがい天の助けになりお
   うて、笠の紐をむすんであげ申し、塩のついたふとかにぎりめし
   を藁づとからおろして食べ合うて、また後さねと前さねと、わか
   れて歩いてゆかいたげな。
   どうじゃ、杢よい。
   にぎりめしのふゆじどんも、ばっちょ笠のふゆじどんも、おまい 
   によう似た、天下さまじゃのう。
   (中略)寝れ、おまいが魂もくたぶれるわいのう。
   爺やんが膝ば、枕にして。ほらよ、爺やんが舟は、ねむり心地の
   よかろうが。
   楽になれ、楽になれ。臍は天さね向けて。
   楽になれ、楽になれ、楽になれ・・・

〈声を文字から解き放つ〉

「なぜ安寿を追いかけたのか」という会場からの質問に、姜氏は「日本には鴎外の安寿ではない、たくさんの安寿が祀られていて、1000年にわたり殺されてはよみがえるを繰り返してきた。3.11以降、鴎外の「山椒大夫」ではない「山椒太夫」を生き直してみたい、安寿を中心にした旅をして、一番虐げられた者がどうやってよみがえったのかを考えながら旅をしてみようと思った」と語った。
また、著書の「語り」のような文体について、「声を文字から解き放ちたい、文字で歌うように書けないかと考えた」と言う。それも「在日三世として、自分が何物なのか考えることを強いられる、そこで民族も国家も超えたいと旅に出るようになった。そんな中で、ロシア極東に移住し、スターリンによって中央アジアに追放されて住み着いている朝鮮人に会い、インタビューでは何も話してくれなかった彼らが、一緒に生活すると、封じられていた記憶を語り出すようになった。」「文字で書くのは記憶とは少し違う。国家という大きなものに呑み込まれない様々な声、それぞれの場で集う、そういう場で開くための言葉」を紡ぐ試みでもあると語った。
 八太夫氏は実演者の立場から「浄瑠璃には節をつけられるが、現代詩にはつけられない。文字で書いたものと音写したものとは違う。姜氏の文章に節がつけられるのは、音が入っているから。」と言い、「石牟礼さんの文章にも節立てできる。文字として書いているのではない、しゃべりながら、歌うように書いていたのではないか」と、興味深い指摘をした。

旅をし、聞き、語るように書き、「語りの場」をよみがえらせようとする姜氏。古典だけでなく、今様の浄瑠璃として、現代文にも挑戦する八太夫氏。それぞれの「声の力」が、埋もれていた声をすくい上げ、場を開き、人々がつながり直し、豊穣な物語が紡がれることを期待したい。  (霜田文子)

極私的ローマ紀行(3)

2019年08月11日 | 旅行
私はこの庭園をほとんど既視感にとらわれながら歩いていた。それは敬愛する写真家、川田喜久治の写真集『聖なる世界』(1971年)や、アルゼンチンの作家、ムヒカ・ライネスの著書『ボマルツォ公の回想』(1962年、邦訳1984年)を見たり読んだりしていたせいでもある。この地を訪れたいと私を触発したのも、これらの本による。それでもそれ以上に懐かしいような、見知った場所のような気分にさせる何かがある。それはライネスが初めてこの地を訪れたとき、かつて訪れたことがあるかのような感覚にとらわれたことにも通じるのではないか。
ボマルツォの庭園は、ヴィチーノ没後約400年間、顧みられることなく荒廃していたが20世紀半ばに再発見され、注目を集めるようになった。それはマニエリスム、バロックの庭園として、あるいはダリが映画撮影に使うなど、シュルレアリスム的な視点からであった。
ルネ・ホッケはまだ廃園状態の頃のボマルツォ庭園について、「他に比べるもののない「聖なる森」だ。そこでは森羅万象が歪曲されて」おり、「ある狂気の観念」「妄執」そしてまた「相反するものの一致、錯綜したもの、というよりは「悪趣味」が、突如として調和する、その効果を前にして感じる「魂の震撼」を表現しようとした」とも言い、「ヨーロッパのマニエリスム的集合所」と述べている。(『迷宮としての世界』1957年、邦訳は種村季弘)また、マンディアルグはやはり1957年『ボマルツォの怪物』の中で、ロートレアモンの「解剖台上のミシンと蝙蝠傘」の一節を引き、「真の狂気の美」と述べ、ジャン・デュビュッフェ等との類似を指摘する。これを邦訳した澁澤龍彦は、自身も「サド侯爵の小説に出てくるような、神をも恐れぬ道楽貴族の秘密の淫蕩の場所ではなかったろうか」と詩人らしい想像をしつつ、奇怪な幻想の支配した「マニエリスム精神の流れの一環」としてとらえている。(『幻想の画廊から』1981年)
いずれにしても、聖なる森と奇怪な庭園の結びつきが解明されたわけではない。狂気か、時代の流れに乗った非調和の美か、単なる悪趣味か、逆にもっと深い意味が込められているのだろうか。


ヴィッラ・デステ(機内の広報誌より)

前述のようにこの庭園は、「妻の死後、リゴーリオに造らせた」と言われている。リゴーリオの庭の代表作の一つが、ティヴォリのヴィッラ・デステである。前項(1)でボマルツォ庭園と関わりがあると述べたのはそのためである。ボマルツォ庭園とは全く規模が異なるヴィッラ・デステは、幾十種もの噴水を配し、技巧を凝らし、イタリア的洗練を極めた庭であると聞いている。ムヒカ・ライネスは、イッポリト・デステがリゴーリオに造らせたヴィッラ・デステと、ボマルツォの庭園とが対極のものであると、ヴィチーノに語らせている。残念ながらハプニングがあって訪れることが出来ず、自分の目で比較することは出来なかったが、設計者云々は別として、私はライネスの想像力を借りて、ボマルツォ庭園を観たいと思うのだ。なんとなれば自然を生かし、大地に根ざしたような石像が主役のこの庭園には、非イタリア人であるライネスに、そして私にも記憶の奥底に響くものがあり、それが既視感を抱かせたものに他ならないと思うからだ。


松の実の広場


神殿

ライネスは資料の空白を類い希な想像力で埋め、16世紀イタリアという、戦争と殺戮が日常であった時代、文化芸術的には古典的な調和が意識的に崩された時代を背景に、壮大なドラマを仕立て上げた。何よりも驚くべき事は、主人公・ヴィチーノを生まれついての奇形としていることだ。名家に生れながら、祖父や父や兄弟に疎まれ、祖母だけが愛情を注いでくれる。彼は祖母から一族の起源や歴史を聞いて育つ。兄の死後オルシーニ家の当主となるが、戦争に巻き込まれ、肉親の暗殺にも手を染める。しかし、度重なる戦乱や肉親の死の中で、自身の生き方を問い、ルネサンス人の生き方をも問う。そして妻・ジュリアの死後、自分の人生を象徴する庭を造ることにする。彼は本質的には知的で厭戦的な紳士である。だからこそ劣等感と孤独のうちに憎悪を募らせていく、屈折し、分裂した美と狂気の人物像が浮かび上がってくる。石像は自身の記憶のモニュメントでもあるのだ。もちろんこれらはあくまでもライネスの想像でしかないが、それでもつい信じたくなるのは、松ぼっくりの広場や神殿へと向かうほどに、並んでいる怪物や地獄の神々が、単なる奇矯や脅かしというよりも、葛藤や死の恐怖からの、解放や再生へと向かわせている気がするからだ。
そして何よりも卓見だと思うのは、彫刻を担ったのが土地の職人たちだということである。背景にはミケランジェロへの崇敬が込められている。ライネスはヴィチーノをミケランジェロの37年後の同じ日・時刻に生れたとする。ミケランジェロはヴィチーノにとって唯一無二の芸術家であり、彼に造ってもらえないのなら、それに対峙しうるのは、価値観の異なる異質の作り手たち―それがギリシアよりもっと古い、エトルリアの伝統を受け継ぎ、さらに想像力を付け加えた幻想的な荒々しい像を彫っていた者たちなのだ。ここはローマ詩人の影響を受けて造られた貴族的で雅な庭ではないのだ。
エトルリアの血を引く土地の職人たちは、肝心の「恐ろしさ」「威厳」など忘れて怪物や神々を仲間のような意識で造り上げたのではないか。そこには汎神論的なおおらかさが感じられるとともに、人間臭さや卑近さがあるのも確かなのだ。川田喜久治の写真は、石のざらざらした質感までも写し込みながら、このあたりを見逃していない。異端の美、グロテスクなものは、俗で、淫らな世界にもつながっているのだ。


豊穣神ケレース

それでも広場に近い三つの像は圧巻だ。巨像―鼻に巻き付けているのはローマ史上最大の敵ハンニバルだと伝えられている―は、善悪を識別する、高潔で誠実な賢い動物とされている。ドラゴンが戦っているのは犬、ライオン、狼でそれぞれ春、夏、冬を表わし、現在、未来、過去の象徴でもある。全てを無にするほどの力ということだろうか。そしてオーガ、これをライネスはヴィチーノの独房のような庵としている。ここで不死の薬を飲み、自らの内面をのぞき込みながら、絶対の孤独を引き受けていく(はずだった)。「全ての思考が飛び去る」とはそれほどの恐怖を与える怪物というだけでなく、自らも無に帰して胎内に潜りこむ場とも考えられるのだ。近くに立つ豊穣神・ケレースを、ライネスはヴィチーノを守り、一族の歴史を伝えた祖母になぞらえている。


バチカン博物館前庭の松の実の彫刻

地獄の神々や怪物たちに囲まれた広場の入り口を、オルシーニ家のトーテムの熊が家紋を持って立っている。そこから広がる静けさ、穏やかさ。神々や怪物たちは来る者を脅かしつつ、一族をしっかりと守ろうとしているのではないか。バチカン博物館に飾られたローマ時代の巨大な松ぼっくりの彫刻は、繁栄の象徴だという。同様に列柱のように並んだ大きな松ぼっくりも一族の繁栄を願ってのことではないだろうか。


薔薇の家紋を持つ熊の像

時がたつほどに苔むし、土に埋もれかけた石像たちは、人と大地が一帯だった頃を思い起こさせる。熊はオルシーニ家のトーテムであり、世界の覇者である伝説の獣であり、一族を神々とつなぐものなのだ。それだけではない。ここに棲まう怪物たちはみな、凶暴さにおいて、あるいは賢さにおいて、それぞれの種族の最たる者たちだ。「聖なる森」とは人間と神々と獣たちが共に棲み、豊穣であると共に畏怖でもあった頃の記憶を呼び起こす森なのだ。(霜田文子 この項終わり)


極私的ローマ紀行(2)

2019年08月09日 | 旅行
 ローマから約100㎞ほど北のヴィテルボ県の小さなコムーネ(イタリアで最も小さな基礎自治体)・ボマルツォ。ここに不可思議な彫刻が点在する公園がある。「ボマルツォの怪物公園」だ。今回の旅の目的地の一つである。ローマからの行き方を心配していたところ、天空の街・チヴィタ、丘の上の街・オルヴィエートとの日帰りパックツァーを見つけた。他二つは特に興味はなかったけれど、列車やバスを乗り継いでいたらボマルツォだけでも丸一日かかる。これを利用することにした。公園自体はそれほど広くはない。思っていたよりもゆっくり見ることが出来た。ただし謎かけのような碑文や石像に嵌まりこんだら、いくら時間があっても足りるわけはないのだが。(絶壁の街・チヴィタは吊り橋からの景色にくらくらして、二度と行きたくない。)
 16世紀半ば、当時の有力貴族オルシーニ家の当主・ピエル・フランチェスコ・オルシーニ(通称ヴィチーノ)は、領地であるボマルツォに「聖なる森」という庭園を造った。イタリアの“ヴィッラ(別荘)文化”が背景にある。郊外の別荘に人を集めもてなすために、噴水や彫刻や花壇のある豪華な庭園を造るのだ。ボマルツォの庭園は、ヴィチーノが最愛の妻を亡くし、その苦痛からの解放のために、ルネサンスを代表する建築家、リゴーリオに造らせた、と伝えられている。それにしても「聖なる森」が、なぜ「怪物公園」なのだろう。まずは庭園を一巡りしてみよう。
 門をくぐるとまず2対のスフインクスが出迎える。ここには「眉をつり上げ、口角を引き締めて歩かなければ、世界の七不思議たる(庭園)に値することは出来ないだろう」という挑発的な碑銘がある。そこから森を彷徨うように、坂道を上り下りし、モニュメントのような石像の前に立ち止まりながら歩いて行く。
 
プロテウス・グラウコス
                   

ヘラクレス・カークス

時計回りにすぐ海神ネプチューンの息子プロテウス・グラウコスが目を剥き、大きな口を開けて待ち構えている。頭上に地球を乗せ、さらにオルシーニ家の城を戴く。そして半ば壊れ、土に埋まりかけた霊廟を過ぎて少し下ったところで目に飛び込んでくるのがヘラクレス・カークスの巨大な石像だ。一人の若い男を逆さに持ち上げ真っ二つに引き裂かんばかりだ。



さらに下ると小さな池があり、甲羅に美少女を戴いた亀、自らも飲み込んでしまいそうに大口を開けたシャチ、ペガサスやニンフの像の一群があり、ヴィーナスや劇場を経て突然傾いた家がある。これはもう、来客を楽しませる酔狂であろうか。当時の流行でもあっただろうか。中に入ると乗り物酔い状態になる。
しかしここで切り替えるように豊穣神ケレース、海神ネプチューンなど、再び神話世界に入るのだが、神殿に向かい、印象的な像が次々に現れてくる。




ドラゴン、右はポセイドン


オーガ

鼻の先に人を巻き込んだ巨象は、さらにその上に大きな方形の塔を乗せている。空想の怪物・ドラゴンは、今まさに犬とライオンと狼の攻撃を受けているところだ。そして最も驚異的な石像、オーガが現れる。「人食い鬼」と言われているとおり、咆哮するような形相で、口はグロッタのごとく、人を呑み込むのに十分だ。「オーガ」とは地獄の王の名前の一つで、最もどう猛なシャチ類である。口には「全ての思考は飛び去る」と彫られている。
上半身は翼を持つ美女、下半身は蛇の体をした女神はエキドナ(ケルベロスの母)、そしてライオン像を経て、広場へと続く。

家紋を持つ熊


ペルセポネー


ケルベロス

二頭の熊がバラの家紋を抱えて門柱のように立っている。熊はオルシーニ家のトーテムだ。広場は細長い通路となっていて、両側に巨大な松ぼっくりが列柱のように並んでいる。さらに坂や石段を昇り、神殿へと続く道を守るのが、冥界の女王・ペルセポネーと、冥界の門の番犬、ケルベロスだ。ケルベロスは全ての方向を向く三つの頭を持ち、二つの口は閉じ、もう一つは今にもかみつかんばかりだ。そして広々と開けた丘の上の神殿にたどり着くのだ。


エキドナとライオン像


眠れる美女

次々に繰り出される異様な大きさの石像や、威嚇する神々、奇妙なポーズの女神たち―狂気と境を接する偏執的な嗜好が見て取れる。ただ、写真を見ても感じられるとおり、神々や怪物たちは恐ろしい形相をすればするほどどこか滑稽だ。スフィンクスはへっぴり腰の四つん這いだし、人食い鬼はアニメのキャラクターのようだし、戦うヘラクレスも表情は乏しく力動感はみられない。ポセイドンはだらしなく横座りし、エキドナは大股開き、「眠れる美女」は無防備に仰向けに眠るしまりのないニンフだ。全体に茫洋として素朴で少しばかり淫らで、だからこそ神話の神々のイメージとの落差がこの庭園の不可解さを増幅させる。