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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

パリから日本へ――師走のパリ旅行記(9)

2020年03月05日 | 旅行
 フランスから帰国して二ヶ月以上が過ぎた。ストライキはどうなっただろう。2月末のともこさんのメールでは「宣言は出されていないけれど、ほぼ終息」ということだった。ともこさんは展覧会の会期中、ずっと往復3時間かけて歩いていた人だ。そういえば冬のパリを、人々は黙々と歩いていた。
 私もまた、日本では考えられないくらいよく歩き回った。モンパルナスという場所はかなりのところまで徒歩で行けるところではあったが、それでも行動半径は限られている。しかも職員の不足か、凱旋門は入場できず、ルーヴル美術館やクリュニー美術館はあちこち立ち入り禁止のロープが張られ、オルセー美術館ではまだ閉館時間に間があるのに、突然閉館を告げられ追い出された。
 
 
 ノートル=ダム大聖堂の痛々しい姿

 しかも、昨年4月、ノートル=ダム大聖堂が火災に遭った。焼失したのは19世紀に再建されたという尖塔だけですんだが、今もすべて立ち入り禁止だった。別に信者でもなく、特に感慨はない。むしろ、昨秋全焼した沖縄の首里城にしてもそうだが、そもそも権力の象徴であったものが、なぜあれほど庶民の心のシンボルのように言われるのだろうと思っていた。それでも、やはり建築的にはぜひ見ておきたいところだったし、シテ島はパリ発祥の地であり、ノートル=ダム大聖堂はその中心である。私は中心を喪失したパリを見ていたことになる。
 さらに12月という時期。連日冷たい雨で、朝9時でもまだ薄暗い。クリスマス月で、大通りのイルミネーションこそ華やかだったが、「花の都パリ」など思い浮かばない。ということは、私はずいぶん欠陥だらけのパリを見ていたのかもしれない。もっともっとすばらしいはずのパリを見るべきだったのだろうか。しかしステレオタイプのきれいなものばかり揃えて、本当のパリを見たといえるだろうか。世界のどこだってそんな旅で満足したくはない。
「キリスト降誕祭が・・・一年のうちで一番暗い日、氷雨の降り続く、暗雲に閉ざされた日であることも容易に納得ができた。如何にもそれは「ケルト的」な《冬至の祭》の記憶を呼び覚まさずにはおかない儀礼であり、一年のうちで太陽の力が最も衰えた時に、奇跡として新しい生命が生れるのである。」(渡辺守章『パリ感覚』岩波書店)
1985年に書かれた同書によれば、1960年代以前には、「万霊節」つまり「死者の日」(11月1日の「万聖節」の翌日)以降のパリは、「人の心というか体もろともに、室内に閉じこもることになるのだ。・・・そして、この「死者の日」以来、パリはひたすら死の徴のもとに灰色になっていく。」(同)
 もしかしたら、この「暗さ」「闇」こそが、文化を胚胎してきたのではなかったか。イルミネーションも、「パリ大洗滌」による白い壁面による明るさも、ほんの半世紀ほど前からのことなのだ。あっという間に、人々は静かに閉じこもる時間を放棄してしまったのだろうか。

ところで他に見たものをいくつか覚え書きとして記しておきたい。「アンヴァリット」はルイ14世の造った堂々たる黄金のドームに、「廃兵院」という聞き慣れない名称、そこにナポレオンの墓があるという、よくわからない観光名所だが、行ってみると立派な軍事博物館があった。13世紀から第二次世界大戦までの戦争の歴史と資料が展示紹介されているのだが、実に多くの対外戦争があったことがよくわかる。戦争の歴史もまた、パリに闇をもたらす大きな要因であっただろう。ヨーロッパから見れば、日本の江戸時代のように中央集権で250年も平和が続くなど思いもよらないのだから。しかもフランスはこの2世紀だけで、普仏戦争、第一次、第二次世界大戦と、大きな対外戦争を3つもしていて、その度に甚大な被害を蒙っている。ド・ゴール率いるレジスタンス運動に広いスペースが割かれている施設であるが、私にはとりわけ第一次世界大戦で西欧の没落を見た衝撃の大きさが伝わってきた。これだけの膨大な戦争史を一箇所で展示する施設など日本にはない。私が訪れた日も、小学生や高校生らしい団体がレクチャーを受けながら見ている姿が、何組も見られた。







 また、カタコンブも興味深い施設だった。カタコンブというと、古代の地下墓所のことだが、パリのそれは18世紀に、共同墓地から人骨を移してきた場所である。現在のポンピドゥー・センター近くにあったサン・ジノサン共同墓地(「罪なき幼子たち」の意)が、腐敗した遺体の残留物による有毒ガスで都市の汚染を招き、18世紀に、かつて地下採石場だった巨大な地下空間に骨を移した。延々と運び込んだことだろう。その後さらに別の墓地からも運び込まれてその数600万体。ところどころに墓地名や搬入の日付のプレートがついている。
近年数時間待ちという人気スポットになっているというが、これもストの影響だろうか、ほとんど待たずにすんなりと入れた。130段の石段を下り、さらに地下へ約20メートル、「Arréte!Cést ici lémpire de la More!」(止まれ!ここは死の帝国だ) 静かだ。地下水だろうか、水の流れる音だけが響く。全長1,7㎞の壁面にびっしりと人骨が埋め込まれているのだ。その几帳面さと言ったら・・・。昨夏ローマの骸骨寺で、人骨で荘厳された聖堂を見たが、それを遙かに超える数である。いずれにしてもこうした骸骨との向き合い方は日本人の理解を超える。壁面に隙間なく、大きさを揃え、時に頭蓋骨をアクセントのように配した、壁面装飾と言ってよい。サン・ジノサン墓地とは、「死の舞踏」の絵図が最初に描かれたところだという。死者との共生ということでは、なおその命脈をとどめているということだろうか。


聖ヒエロニムス


ラ・ベル・フェロニエール


聖アンナと聖母子




グロテスク

 最後にもうひとつ、この旅のメインイベントとなった「レオナルド・ダ・ヴィンチ」展である。ルーヴル美術館で開催中の展覧会を、さちえさんの、パリ在住の友人、じゅんこさんが予約しておいて下さったのだ。出発前の慌ただしさでそれほどの展覧会と思っていなかった私は、パリに着いてから空前絶後とも言われている事を知り、幸運に大喜びしたのだった。何しろ私のパリ展出品作は「ダ・ヴィンチの卵 あるいはものが見る夢」というシリーズのボックスアートで、あちこちにダ・ヴィンチへのオマージュがこめられているのだから。時間まで指定しての予約システムだから、ゆっくりと見ることが出来た。油彩画の、透明色の重なり、光の効果、筋肉の表現、極めてデリケートな表情のとらえ方、何をとっても完璧だ。完璧主義故の寡作が惜しまれる。私は手稿類も大好きだ。とにかく何にでも興味を持ちとことん科学的に追求する。それが芸術表現としても優れているのだ。ダ・ヴィンチについてはいずれもっと書きたいが、あまりにも偉大すぎるとしか、今は言えないでいる。

そうこうしているうちに、日本は新型コロナのニュース一色になってしまった。急転の二ヶ月だった。今なら海外渡航には、二の足を踏んでいただろう。いや相手国から入国拒否されるかも知れない。外出もイベントも自粛、公的施設は軒並み閉鎖する中、小中高校の休校が決定的に国民を閉塞感に陥れた。その底流には長期政権による奢りから、公平で冷静な判断力を失ってしまった安倍政権、いや安倍首相個人に対する不信感と嫌悪感が渦巻いている。まもなく東日本大震災と原発事故から丸9年を迎えるが、追悼のセレモニーも自粛されるという。東京オリンピック誘致に向けて「アンダーコントロール」と言い放った人が、オリンピック開催も危ぶまれる中、なお国をリードしようとしていることのおぞましさ。国民の不満の矛先はどこへ向かうのだろう。新型コロナよりも恐ろしい事態にならないことを祈るばかりだ。今はとにかく、静かに閉じこもることを能動的に受け入れるよい機会にしたいものである。(終わり)


小さな美術館より・その7――師走のパリ旅行記(8)

2020年02月26日 | 旅行
ジャコメッティは一体何を掴もうとしていたのだろう。絶えず逃げ去る物とは何だったのだろうか。
 アンドレ・パリノとの対話の中でジャコメッティは「(人はコップを模写するとき)あたかもそれが消失し・・・再び現れ・・・消失し・・・再び現れるかのように見る。・・・(したがって人は)ヴィジョンの残滓を模写」しているに過ぎないのだと語っている。見ることと作ることとの断続的な“間”―そこに入り込むヴィジョンも含めて「私に見えるとおりに」ということなのだろうか。そして「レアリテというものはいくら幕をめくってもたえず幕の後ろに隠れているようなものだ」というとき、リアリティの存在自体を疑わせる。それでは彼は何を模写しているのか。なぜ模写をし続けるのか。
「模写についてのノート」では、子供の頃からの、自分を捉えた様々な作品を模写していたことを振り返り、それらの作品が時を超え、模写した時間と重なり合い、「全てが同時的だ、あたかも空間が時間にとってかわったように」と記す。
これと同じ言葉が書かれているのが「夢、スフィンクス楼、Tの死」だ。本書で最も奇怪ともいうべき文章でもある。夢を契機に次々と記憶が蘇ったり、現実の禍々しい出来事を思い出したりする。そして隣室の管理人Tの死に際して「同時に生きてもおり、死んでもいる或るものとして」それを見、生者と死者が渾沌とする体験をする。さらに物が限りない不動性の中で重さを持たず、虚空の深淵に切り離され宙ぶらりんになっているという不気味な体験をする。それら現実の出来事や夢や幻覚が同一平面上にあるとするのだ。「全ての出来事が私の周囲に同時に存在しているという感情をもった。時間は水平の円環になった。時間は同時に空間だった。」
しかし率直な感動が同時的に想起される前者の体験と、不気味な幻覚を交えた体験とが同じことばで語られることにはいささか奇異な感を抱く。それがジャコメッティにとっての「見える」こと、つまり「ヴィジョン」としか言い表しようのない、翻訳不可能な語彙によってつながるのかもしれない。周知のように「ヴィジョン」とは日本語で「見る、視界」や「想像力」「幻想、幻覚」など様々な意味を持つ。つまり現前の物を見ることと、幻を見ることを別のことと考える日本語使用者に対して、「ヴィジョン」という言葉を使う人々にとっては、「幻」も「確かに見える」ものとして使い分ける必要がないのではないか。心を捉えた物を描くことも、幻覚を描くことも「私に見えるとおりに」描くことなのではないだろうか。
不動のまま虚空に浮かび、それぞれが深淵によって隔てられ、何の関係も持たない物と物―1950年前後の「広場」などの群像にはこうしたヴィジョンが取り込まれていると、私は思う。
ほとんどオブセッションのように作品を作り続けるという行為、同一の反復行為が沸点に達し、現実の座標を引き裂き、別の次元が開かれたかのように、現実があるとき突然目の前で深い断裂となって、見え方が全く変わったのではないか。しかしここには積み重なった時間の記憶がある。新たな現実にリアリティを与えるのも過去の記憶によってであるはずだ。それがどんなに未知の物であっても。
 絵画や彫刻は時間を表わすことが出来ない。観念としての空間を否定するジャコメッティにとって、空間とは時間の積層によって初めて実感されるものだったのかもしれない。そしてデッサンに引かれた無数の線は、時間と共にある心の動き、目の動き、手の動きであり、彫刻のごつごつとした表面もまた同様ではなかっただろうか。(この項終わり)

小さな美術館より・その6――師走のパリ旅行記(7)

2020年02月23日 | 旅行
ちょっと寄り道をして『ジャコメッティ|エクリ』(矢内原伊作、宇佐見英治、吉田加南子共訳、みすず書房、1994年)を読んでみた。私はシュルレアリスムの作家たちに好きな人がたくさんいる。だからなぜシュルレアリスムと決別したのか知りたかったからだ。
ところが寄り道どころではない、どっぷりと道草にはまってしまったのである。公表するためのまとまった文章だけでなく、散文、メモ、書簡等が入り交じった本書は、「既刊の文章」と「手帖と紙葉」の二部構成に対談を加えたもので、それぞれの部でおそらくは年代順になっていると思われるのだが、どのページを開いても、どこから読んでも、作品同様、自らの言葉で何かをつかみ、表現しようとするジャコメッティそのものなのだ。とりとめなく記憶を辿るように、時系列などあってないようなもので、もどかしくもありながら何度でも立ち帰りたく、離れがたく思わせるのだった。
 シュルレアリスムとの関わりについても度々書かれている。ニューヨークの個展のため、ピエール・マティスに宛てた手紙には⦅物言わぬ動くオブジェ⦆などの、自身のスケッチによる作品リストもある。その中の多くがジャコメッティ美術館のこの度の企画展に展示されていた。そこにはなかったが、やはりリストに載っていた作品を12月12日にポンピドゥー・センターで見た。初めて見る作品に注目して撮影しておいたものである。1933年に作られた⦅ある廊下のためのテーブル⦆である。



たぶん晩年の、アンドレ・パリノとの対話の中で、次のように語っている。
「(ブールデルに学んでいた)ほぼ1925年に私は自分が見ているとおりに絵画や彫刻を作ることは不可能であり、現実を拋棄しなければならないことを理解しはじめた。私はやむをえず心に残った現実の追憶像を別な形で表わそうと試みた。そこで私は―真実とは無関係に―記憶で作った。」
「ところがオブジェは彫刻ではない。もうどんな進歩もなかった。」
「私はまたモデルを使い、すぐさま習作をやってそれから彫刻を作ろうと思った。それが1935年のことだった。」
これで十分だと思った。この本を読んでいればジャコメッティがひとつの潮流に乗って制作する人ではないのが明らかだからだ。
 ジャコメッティが日々モデルと向き合いながら、常に未知のものに出会うと同様に、本書を開き、読み返す度にこれまで見えていなかったことが、ふいに開かれてゆく。しかし求道者のような姿に感銘し、少し感傷的になりかけると楔を打ち込むような断章が現れる。
「空間は存在しない。創り出す必要がある。だが空間は存在しない。」
「空間を現実に存在するものとして作られる彫刻は、すべてインチキだ。空間の錯覚があるのみ。」
幾つかのテーマが複雑に絡み合い、円環のように巡っていて、何かが開かれたと思うとまた振り出しに戻っているのだ。絡んだ糸を少しでも解きほぐせたらと思うのだが、はたしてどこを端緒とすればよいのだろう。もちろん何十年も制作と思索とを往還し、自らと対話し続けた人をこの一冊で理解しようなどと大それた事を考えているわけではない。
まずは最も有名な、そして私たちを戸惑わせ続ける一文を引こう。
「一つの顔を私に見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが私には到底不可能だということを私は知っています。にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです。」(1959年)
対話の中でジャコメッティは「人間は現実には人々を等身大では見ていない」と語っている。対話者の助けを借りればこういうことになる。1m離れた人の頭を片目を閉じてスケールで計ってみよう。おそらく10cmくらいのはずだ。遠ざかるほどに人体は小さくなる。近づくと細部ばかりで全体像が見えない。それでは我々はなぜ人を等身大で見るのか。それは客観的なある大きさを持っていることを知っているからだ。
立体についても、我々は頭を作る前にそれが丸いことを知っている。彫刻家はギリシャ以来の西洋の既成概念のもとに、見てはいない空間内のヴォリュームを作り出しているのだ。しかし見たままを作るとしたら頭蓋の奥行きをどうやって知ることが出来るのだろうか。
ジャコメッティの、凸凹のない、平板な像は、ある大きさを持った像にしようとしたら細長くなるばかりだった。こうした尺度こそがプリミティヴの像との近似だった。したがってピカソが西洋的な視点から、異質な価値観として触発されたのとは全く別の次元なのである。
 こうしてみるとむしろ非常に単純に思われるかも知れない。しかしジャコメッティがこれに気づいたのはシュルレアリスムグループから離れて、再びモデルに向き合い苦闘して10年以上経てからのことだ。「ある時不意に、深さを見た」と彼は言う。それまでは写真のリアリズムで、あるいはルネッサンス以来の遠近法で世界を見ていたのだ、と。
 2017年のジャコメッティ展で爪楊枝のような小さな像を見たことを思い出す。モデルを離れて想像で作ろうとしたものだ。私は目を閉じて、一つの像を思い浮かべてみる。まぶたの裏の像は何と小さいことだろう。そしてどんどん小さくなって消え去らんばかりだ。無を作らざるを得ないという恐怖すら覚える。
 それではジャコメッティは既成概念や西洋的な芸術理念から解放されて生(き)のままで見ることや、究極のリアリズムを目指していたということなのだろうか。そうではないだろう。「私に見えるとおりに」とはあくまでも「「私に」見えるとおりに」なのだ。知覚とはそれぞれの人間に固有の物なのだから。その上でそれが決して完成する物ではないことを自覚しているのだ。なぜならば、絶えず未知の物に出会うこと、絶えず逃げ去る物を掴み、手に入れようとすることとは、絶え間なく更新され続けなければならないからだ。(続く)



小さな美術館より・その5――師走のパリ旅行記(6)

2020年02月07日 | 旅行
企画展示している最初の部屋の一面には、作り付けの書棚があり、ジャコメッティの画集や展覧会図録や、いろいろな作家の画集等が並んでいる。ここだけでも十分に時間を過ごせそうだ。高い天井いっぱいの本棚の前に、いくつかのオブジェが置かれている。それほど大きくないオブジェが、重量感のある書籍や棚に負けずにそれぞれ存在感を放っている。
ジャコメッティは1929年から33年の間に数え切れないほどの「性的暴力、汚辱、レイプ、殺人」の作品を作っていたという。それは一見、有機的な昆虫や植物のような形態に暗示的に表現されている。



《喉を切られた女》は1933年の作品である。カマキリと葉っぱがねじくれて絡み合ったような奇妙な形の中に苦悶と倒錯を見てしまう。



《Cage(檻)》は1930~31年の作品で、木製である。木枠の中に人体や刃物が押し込められている。同様の構成のスケッチもあり、枠は拷問される体を一定の位置に押し込めておくための家具なのである。



《男と女》は1928~29年の作品。ブロンズのシャープな像は、後の人体像を連想させもするが、背徳的な意味が込められている。ポンピドゥーセンター所蔵品。
1931年、ブルトンの雑誌「革命に奉仕するシュルレアリスム」に、ジャコメッティは「物言わぬ動くオブジェ」としてこうした作品を集めたテキストを発表している。抽象的な形態を取りながらも身体との関わりを暗示する、不安定で不穏な作品は、肉体的、精神的な暴力を思わせる。
ルイス・ブニュエル監督の映画「アンダルシアの犬」(1928年)の冒頭、女性の眼球をカミソリで切るシーンがある。目をそむけたくなる痛々しい場面だ。次の部屋には、それに触発されて作られた作品が並ぶ。



《Caught Hand》は1932年の作品で、回転する機械に手が挟まれちぎれそうな不安を駆り立てるが、かろうじて機械に触れずにいる。



1933年の《目に突きつけられた切っ先》も同様に、棒の先端は目を突きそうになりながらも寸前でとどまっている。(棒の先端にあるのは頭蓋骨で、その下にはあばら骨もある。)今にも傷つきそうな、残酷で、神経をきりきりさせるシーンを思わせるものだ。見るもののフラストレーションは否応なしに高められていく。
館内には、オブジェやドローイング、消失してしまった作品の写真など40点あまりが並ぶ。ほとんどが初公開だという。これまでこのような切り口で展示する試みがなかったのだろうか。封印されていた理由があったのだろうか、と素朴な疑問を覚える。
2017年の回顧展図録の年譜によれば、ジャコメッティは1929年、パリで《見つめる頭部》等を出品し、アンドレ・マッソンやジャン・コクトーと知り合ったという。さらにエルンストやミロなど多くの知遇を得、バタイユが「ドキュマン」に寄稿、翌年にはマン・レイやブニュエル、トリスタン・ツァラと親交を結び、《吊り下げられた球》を見たブルトンとダリに誘われてシュルレアリスム活動に参加したという。以降、ブラックユーモア的なオブジェや、エロティックで暴力的なオブジェをシュルレアリスム・グループの一員として発表していた。しかし1933年、父の死去に伴いしばらくスイスにとどまっている間に、シュルレアリスムへの関心を失っていったという。この時期に作られたのが過渡期の作品としてよく取り上げられる《見えないオブジェ(空虚を抱く手)》である。翌年パリに戻るも、ブルトンに写実への回帰を糾弾され、シュルレアリスムと決別したとされている。
ブルトンが意見を異にする人たちを次々に除名していったことはよく知られているが、ジャコメッティ自身にもシュルレアリスムへの懐疑があったのは間違いない。その後再びモデルに向かう作品に戻っている。ジャコメッティにとって、内面を表出する作品と、モデルに向き合う作品との根本的な違いとは何だったのだろうか。シュルレアリスムを経由しているからこそ、回帰の意味は大きいと思う。(霜田)

小さな美術館より・その4――師走のパリ旅行記(5)

2020年02月01日 | 旅行
 モローは「見えないもの、感じるものだけを信じる」と言ったが、ジャコメッティは「見えるものを、見えるままに」像を造り、描こうとした。それなのに、なぜあんなにごつごつとした、長く引き延ばされた影のような像なのだろう。ほとんど顔を塗りつぶさなければならなかったのだろう。ジャコメッティは、自らの知覚がとらえたままに現実を表現することの困難さに挑戦し続けたのだ。対象と制作者との距離が単なる空間ではなく、生き生きとした交感の場であること、しかしそれを作品の中にとどめることの不可能性を、これほどに自覚していた人はいない。
 2017年、国立新美術館で大規模なジャコメッティ展を見た。マーグ財団美術館コレクションを中心にした展覧会では、削ぎ落とされた存在の“芯”だけが立ち上がるような彫刻をたくさん見ることができた。謎は謎のままに、けれども途方に暮れさせるのではなく、周囲の空間まで取り込んだ彫像は、モデルと作家との沈黙の対話を思わせるような、静謐で崇高なまでの時間をもたらしてくれた。
 そのジャコメッティ美術館がモンパルナス界隈にあるという。モンパルナス墓地を訪れ、その近くにあるはずの美術館を見つけるのは意外に手間取った。道に迷うというのではないのだが、案内があるわけでもなく、パリの街並みらしく他の建物とすっきりと並んでいて全く目立たないのだ。目の前でようやく小さな看板に気づいた。白い外壁と青い扉の、モダンな外観である。でもあまりにもひっそりしていて、ドアを開けていいものかどうか迷っていたら、中にいた人が開けてくれた。フロアは狭いが、白で統一され、凝った工夫がなされた階段でいくつもの部屋に区分され、全体がとても洗練されている。しかしエントランスの右側だけは半世紀以上前のままだ。ジャコメッティのアトリエになっているのだ。



硝子に覆われて中に入ることは出来ないが、漆喰壁には様々なデッサンが奔放な筆致で直書きされており、造りかけの人体がいくつも並び、イーゼルやら画材があり、そして犬の彫刻の石膏像が置いてある。あの、人間みたいに悲しそうな、山の稜線みたいな背中をした犬。2017年の展覧会の図録の表紙になっていた犬の像である。その時、猫の像も展示されていた。その二つの強烈なインパクト故に、私は動物像もたくさん造っているのだと思っていた。けれども犬も猫もこの一つずつだけ、他に動物は馬が二つあるだけで、ブロンズになったのは犬と猫のひとつずつなのだという。それほどに人間に集中していたのだ。アトリエ内の椅子に、作家が坐っている姿が容易に想像できる。
 ところで、ジャコメッティ美術館については、たまたまガイドブックを見て出かけ、無事に見ることが出来たのだが、いろいろ後で知ったことをここで記しておこう。まずこの美術館は2018年にできたこと。まだ開館間もなかったのだ。そしてどうやら予約が必要だったらしいこと。たまたま空いていたからだろうか、すんなりと見せてもらえたことは何とも幸運だったのだ。さらにこの場所はジャコメッティが住み、制作していた場所ではない。同じ界隈の、装飾家の家だったという。1913年に建てられたアール・ヌーヴォーからアール・デコへの過渡期の建物を大規模に改装し、アトリエはロベール・ドワノーらの写真を元に忠実に再現したという。

 
 
 

 

 さて、一階突き当たりには二つの、細い人体像(上二つの写真)がある。石膏像である。数日前に観たケ・ブランリーの部族美術(下の写真)を思い出す。ジャコメッティがそれらに注目していたのは1920年代、まだ作風を模索中の頃で、記号的・象徴的表現や、幾何学的な形体としてその影響を見ることが出来る。しかし様々な変遷を経て、なお一貫して存在の原点のような像へのオマージュはあったのではないだろうか。
 ジャコメッティらしい像を眺めながら階段を上って行って、ここではっと息を呑んでしまった。全く異質の作品が並んでいるのだ。この美術館では、折々意欲的な企画展示をしているらしい。そして今展ではシュルレアリスムの作家たちと交流していた1929年から1934年までの作品を展示していたのだ。年譜としてシュルレアリスムを通過していたことは知っていたが、作品を見るのは初めてだ。2017年の大規模展でも、それ以前の部族美術やキュビスムの影響を受けた作品はあっても、シュルレアリスムの作品はすっぽり抜けていた。慌てて受付で受け取ったパンフレットを見る。今展のタイトルは「GIACOMETTI/SADE」、そして副題は「欲望の残酷なオブジェ」(英文より筆者訳)である。

 
 
 パンフレットの表紙はマン・レイの写真で、女性が持っているのがジャコメッティの「不快なオブジェ」である。パンフレットによると、1933年、彼はアンドレ・ブルトンに宛てて「昨日、サドを読みました。とても引きつけられました」(筆者訳)という手紙を送ったという。しかしそれ以前から、ジャコメッティはエロティックで暴力的な作品を手がけており、サドの書物はきっかけというよりも、当時の作品に合致し、あるいはさらに鼓舞されたのだろう。次は、今展の作品の数々を紹介したい。(霜田)