ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

新潟の美術家たち展Ⅵ 4月1日から

2017年03月30日 | 展覧会より


4月1日より、柏崎市立図書館ソフィアセンターで「新潟の美術家たち展」が始まります。参加者は以下の12名。
赤穂恵美子(新潟市・テキスタイルアート)、阿部敏彦(柏崎市・絵画)、金川真美子(長岡市・テキスタイルアート)、カルベアキシロ(新発田市・絵画)、酒井大(魚沼市・写真)、佐藤美紀(新潟市・絵画)、霜田文子(柏崎市・絵画)、高橋洋子(新潟市・造形)、竹石莉奈(新潟市・テキスタイルアート)、長谷部昇(新潟市・絵画)、本間恵子(長岡市・造形)、松本泰典(長岡市・絵画)
柏崎では3回目となりますが、新たなメンバーを加え、春一番の出品にそれぞれ意欲的に取り組んできました。広い会場を生かし、見応えのある作品や個性あふれる作品が今年も並びそうです。ぜひご高覧ください。

なぜナチは生き延びるのか――ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』(2)

2017年03月06日 | 読書ノート
〈僕=ボラーニョ〉は、政治抗争に巻き込まれて収監中にカルロス・ラミレス=ホフマンを知る。ある日、彼は古い飛行機―ドイツの戦闘機メッサーシュミットらしい―で黄昏の空に詩を書く。祖国・チリの虚空に巨大な文字で悪夢を書いたのである。(それは僕たちの悪夢でもあった、とボラーニョは言う。)1973年のことだ。翌年彼は、写真家として、空中詩の詩人として、新政権のもと、首都で発表する。写真展では女性客が嘔吐する。確かな評価を与えられないまま所在不明の後、チリを去る。理解できない詩は不在のうちにカルト性を増幅させ、人物は神話化される。一方で数々の殺人事件との関わりも取りざたされている。「世界に吹き渡る変化の風」は彼を召喚しては、忘れさせる。
 そして1998年、バルセロナで〈僕〉はアジェンデ政権時代の敏腕警察官・ロメロに会い、この地に住むラミレス=ホフマン暗殺の協力を求められる。〈僕〉はバルでラミレス=ホフマンを待つ。彼であることを確認するために。ブルーノ・シュルツ―ゲシュタポに銃殺されたユダヤ系ポーランド人の作家だ―を読みながら。
 老いたラミレス=ホフマンに〈僕〉は、ラテンアメリカ人特有の「哀しげで手の施しようがない近寄りがたさ」を見る。「果てしない哀しみがそこに住み着いている」のだ。暗殺に向かおうとするロメロに〈僕〉は「殺さないでください、あの男はもう誰にも危害を加えられません」と言う。心の中では信じていないにもかかわらず。20分後、ロメロは戻ってくる。
「忌まわしきラミレス=ホフマン」のあらすじである。しかしながらこの章の不気味さは、書かれていない部分にある。どんな詩なのか。どんな写真なのか。さらに本当に人を殺したのか。どれくらいの人を殺したのか。読者にとっても、ラミレス=ホフマンは神秘に包まれたモンスターなのだ。そして本当に1998年に彼は抹殺されたのだろうか。本書が刊行されたのは1996年、ボラーニョは架空の人物たちを近未来まで生き延びさせている。それはボラーニョの没年を越え、2017年の現在を越え、2029年を没年とする者までいる。ナチズムが根絶することなく、潜行しつつ、様々に形を変え、立ち現れてくることを暗示しているようだ。
近年のヨーロッパの極右政権や、トランプ大統領の排外主義にそれを重ねたくもなるだろう。しかしボラーニョの悪夢はもっと深い闇と共にある。トランプにはラミレス=ホフマンのような「哀しみ」はない。アメリカ合衆国の「哀しみ」を共有してなどいない。不満を代弁しているに過ぎない。せいぜいがネオナチのレベルだ。現に多くの知識人が批判している。ボラーニョをして根絶することをためらわせ、共感せしむるものを生み出してしまうモンスターこそが怖ろしい。 (霜田文子)


なぜナチは生き延びるのか――ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』(1)

2017年03月04日 | 読書ノート
南米には好きな作家が多いが、ロベルト・ボラーニョ(1953~2003)は初めて読む。もっともボラーニョだから、ということではなくタイトルに惹かれてのことだ。主として南米の、架空のナチ文学者30人の、事典の体裁をとった小説である。
第二次世界大戦後、アルゼンチンには、ホロコーストの指導的役割を担ったアドルフ・アイヒマンが潜伏していたことはよく知られている。南米には戦後多くのナチ残党が逃亡していたのである。本書にも二人のドイツ系移民が登場するが、そのうちの一人はチリの〈再生コロニー〉の出身だ。実際、ボラーニョの生まれたチリには元ナチス党員のコミューンがあり、ピノチェト政権時、拷問施設として使われたという。
大戦時には連合国側として参戦したとはいうものの、地勢的に見てそれほど重要な位置を占めていなかったこともあろう。しかしそれ以上に、度々の軍事クーデターや独裁政治に見るように、ファシズムに共感する土壌があったのではないか。例えばアルゼンチンのペロンは、ムッソリーニに感化され、ぎりぎりまで親枢軸国だった。
ボラーニョは存在しない書き手の、存在しない著作を次々と挙げていく。さらにはそれを補強するかのように関連する人物や用語解説まで付す。架空の書物の書評や『幻獣辞典』を書いたボルヘスに先例を見ることが出来る。しかし、本書の特異性は、事典の形を取りながら、その文体には統一感がなく、冷淡なまでにあっさりと書いているものもあれば、今にも作者自身が現れそうに親密な書きぶりがあったり、緊張感漲る書きぶりであったりすることだ。そしてついに30人目のラミレス=ホフマンに至って、抑えきれずにボラーニョ自身が語り手となり、格段の紙数を割く。
ところで「ナチ文学」というはっきりとした定義があるわけではない。登場人物にはもちろん、ヒトラーに直接感化されたり、スペインの「青い旅団」に加わってフランコ軍に協力した人もいる。だがそれだけではない。『日記』の中で、すべての罪をユダヤ人と高利貸しに負わせる作家。第四女性帝国を描く、神秘のオーラに包まれた美人作家。ドイツと日本に占領された1948年のアメリカの歴史を記す作家。精神病院に入退院を繰り返しながら、過剰な暴力や犯罪小説を書く作家。前述コロニー出身の若い詩人は、アタカマ砂漠に理想の強制収容所の見取り図を描く。反ユダヤ主義、アーリア主義などの排外的ナショナリズムや、カルト的なもの、神秘主義的なものが個人の底に潜んでいる限り、たいした毒にはならないが、文学には人に影響を与える力がある。マックス・ミルバレー他いくつもの異名を持つ剽窃の作家はいう。
「文学は一種の秘められた暴力で、社会的尊厳を与えてくれるし、いくつかの若く多感な国々では社会的上昇を装う手段のひとつなのだ。」
ここには文学が、カリスマ的な力に変わっていく不気味さがある。そうしてみると、登場人物それぞれのボラーニョの書き方の温度差とは、オーラやカリスマ性の強度に比例しているのではないか、と思えてくるのである。(霜田文子)