ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

多和田葉子『献灯使』を読む(2)

2015年03月17日 | 読書ノート

 「不死の島」では、原発事故後の日本政府が、得体の知れないグループに乗っ取られ、海外への情報が断たれ、さらなる大震災で放射能に汚染された国として海外からの渡航も途絶える。ブラックユーモアに満ち、読後は震撼とさせられる。これを膨らませて長編にするつもりだったという多和田は、その後福島を訪れ、立ち位置が変わり、その結果「献灯使」という、自分でも意外な作品が出来た、と何かで語っていた。
 とはいえ、外枠は大きく変わってはいない。義郎と無名ら、具体的な登場人物が現れ、歪んだ、不自由な日常生活が描かれている。当然、飛躍しすぎている部分もある短編を補って、日常との回路がより開けるものと思っていた。ところが、言葉を尽くせば尽くすほど、全体像や、本質的なものが見えにくくなっていくのだ。若者たちの将来を憂える義郎の不安は、社会問題として共有される気配がない。世界はどうなっているのか。なぜこのようになったのか。これからどうなるのか。まるで独裁者小説のように言葉は制約を受け、日々変わる法律に踊らされ、人々は声を潜める。民営化された政府が公共のビジョンを打ち出すはずがない。人々の関心もどこかずれていて、淡泊で、個人的だ。ある日、義郎は耐えきれずに義憤に駆られる。「思い出せそうで思い出せない昔の大きな過ちが胸を内側からかきむしる。その過ちのせいで自分たちは牢屋に閉じ込められている」―このもどかしさ、風通しの悪さ、行き場のない憤りこそが、災厄後の日本を支配しているのだ。
 ところで、本文中には「置き換えられた言葉」が頻出する。多和田葉子が得意とするところだ。ここでは差別用語や、外来語ばかりか、古くさくなった言葉が次々と置き換えられたり、死語になっていく。ここにこそ、多和田の痛烈な皮肉が籠められている。
(霜田文子)