ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く……。(3)

2015年11月26日 | 游文舎企画

 霜田文子の作品はボックス・アート4点。題して《ダヴィンチの卵 あるいはものが見る夢》。ダヴィンチの描いた頭蓋骨の絵を貼り付けた卵の殻が、さまざまなものを呼び寄せてくる。セミの抜け殻であったり、貝殻であったり、動物の骨であったり……。今回骨を集積した大型の作品が際立って美しい。鶏や魚の骨が"美しく"見えてしまうというところに、逆説的な"毒素"があるのかも知れない。


 関根哲男のブルーシートと結束バンド、黒い天然ゴムでつくったオブジェ《原生》12点は6年前の游文舎での個展で初めて発表された作品である。今回游文舎企画委員のリクエストで再度の展示となった。初見の人は度肝を抜かれるだろう。ブルーシートから引きずり出されたゴムははらわたを連想させる。テロルのイメージである。時節柄不謹慎のそしりを免れない作品だが、関根の真骨頂はそこにこそある。確信犯なのだ。


 高橋洋子は銅版画ではなく、立体作品6点を出品した。十字架と脳の形を組み合わせた《Meet evil with evil(毒を以て毒を制す)》と題した作品だ。十字架の神聖なイメージと脳の悪魔的なイメージが、鉛を使った地の上で衝突している。自らの銅版画作品の断片を随所にあしらって、不気味ではありつつも美しく、完成度の高い作品に仕上がっている。誰がなんと言おうが、女性的な作品世界である。


 星野健司はこのところ取り組んでいる《セバスチャン》連作で登場。ステンレスの腕だけのセバスチャン、黒く小さなセバスチャン、等身大のセバスチャンである。マンテーニャなどが描いた《聖セバスチャンの殉教》図で分かるように、男性同性愛の象徴でもあり、星野はそこに聖性とエロティシズムの融合を試みている。等身大のセバスチャンは現在進行形で、この間まで女性だった像が男性像に姿を変えている。これからどうなっていくのだろう……。

狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く……。(2)

2015年11月25日 | 游文舎企画


 猪爪彦一は《虫》と題した作品9点を出品した。1点は画用紙に描かれ、額に収まった、現実に存在していそうな昆虫の作品だが、他の8点は染みたり、黴が生えたりした額の裏紙に描かれている。しかも描かれた昆虫は現実に存在していそうにない形姿をしている。想像上の昆虫なのだ。
 鉛筆画である。猪爪は銅版画でよく昆虫を描いて、暗く凶暴ともいえる世界を垣間見せてくれているが、今回の《虫》は汚れた用紙と相俟って、より凶暴なイメージを膨らませている。昆虫の持つ薄気味悪さを発散する"毒虫"である。


 今井伸治の作品は1点のみ。照明の関係でギャラリーの壁面から奥まったところに展示されているので、見逃さないでほしい。「九ツで形成された一ツの世界シリーズ」の《虚と実と・光と影と》という、木材を組み合わせた比較的小さな作品。LEDが仕込んであって、スイッチで点けたり消したりできる。点けなければ素材としての木材が立体的に見えるが、点けると木材の質感が消えて二次元の作品となる。虚と実、光と影を楽しめる切れ味鋭い作品である。


 柴野毅実は唯一美術作家ではない。インターネット上のブログに連載している「ゴシック論」の中から、ドイツロマン派の作家E・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』という作品を論じた部分を、冊子にまとめて出品した。ホフマンの書いた最もどぎつい作品であり、唯一のゴシック小説である『悪魔の霊酒』における分身のテーマを追究する。ヨーロッパにおける分身のテーマは、その宗教観がもたらした"霊肉二元論"をその起原とするというのが結論だ。



狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く……。(1)

2015年11月25日 | 游文舎企画

作品解説会


 21日から29日まで、文学と美術のライブラリー「游文舎」では、グループ展「毒素の秋」を開催している。21日には7人の作家による作品解説会も行われた。
「游文舎」はこれまで個展主義に徹し、グループ展はほとんど開催してこなかった。個展こそ作家にとって最高の発表の場であるという考えによっている。しかし、1年半くらい前に数人の作家で"毒展"をやろうという話が持ち上がり、約1年の潜伏期間を経て、ようやく"発病"するに至った。
 作家にとって"毒"とは何か、"毒素"とは何かという問題については、それぞれ違った考えもあるだろうが、アメリカの作家ヘンリー・ジェイムズの同名の父ヘンリー・ジェイムズの「狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」という言葉をキーワードとした。
 そのような"騒然たる森"を心中に持っていない者に、表現することは可能なのかという、いささか不遜な問いかけの意思もあった。だから単なる悪ふざけやジョーク、こけおどしは除外されたのである。
 7人の作家はそのような趣旨に見事に応えてくれたと思う。それぞれ内部に秘めた"毒素"を全面展開し、それを"美術"の域にまで高めてみせたのである。ひとつのテーマのもとに一堂に会した作品たちは、それぞれ強烈な個性を発揮しながらも、ある統一感の中に置かれている。
 期せずして新潟県を代表する作家たちが集合することになった。猪爪彦一は油彩と版画の世界で県を代表する第一人者である。今井伸治は9月の個展で木材の作品に"崇高の美学"を実現してみせた。霜田文子はボックス・アートの世界で前人未踏の領域を切り拓きつつある。柴野毅実は略。関根哲男はインスタレーションの世界で比肩できる者がいない作家である。高橋洋子は銅版画の世界で最も活躍華々しい作家である。星野健司は鉄の彫刻で、聖性とエロティシズムの融合を試みる独自の作風で屹立する。


朗読劇「サド侯爵夫人」のご案内

2015年11月25日 | 游文舎企画


11月28日(土)夜、柏崎駅前ブルボン本社ビル10階大ホールで、堀井真吾さん率いる「物語シアター」による朗読劇「サド侯爵夫人」が上演される。
『サド侯爵夫人』は、三島由紀夫の代表作であるばかりでなく、戦後日本の戯曲を代表する傑作でもある。今年は三島由紀夫生誕90年、没後45年にあたり、ドナルド・キーンセンター柏崎では現在、「ドナルド・キーンの選ぶ三島由紀夫お気に入り作品3」展を開催しているが、その三作品の一つとして『サド侯爵夫人』も取り上げられている。三島とは無二の親友であったドナルド・キーン自ら英訳を手がけ、世界に知らしめた。さらにマンディアルグの見事なフランス語訳によって、フランスで上演され、圧倒的な好評を博したという。
堀井真吾さんは、柏崎市出身、青二プロダクションに所属し、声優、ナレーターとして幅広く活躍しているが、自ら「物語シアター」を立ち上げ、豊かな物語世界を想像させる「朗読劇」というジャンルを追求している。
マルキ・ド・サド、本名ドナスィアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(1740~1814)は、後半生のほとんどを獄中や精神病院で過ごし、そこで背徳的な小説を書き続けた。サドの生涯に触発された三島は、本人を登場させることなく、彼を巡る六人の女性のみを登場人物として、それぞれに映じるサド像によって、サド侯爵を浮かび上がらせていく。
特に侯爵夫人・ルネと、ルネの母モントルイユ夫人との台詞の応酬に注目したいが、この二人を演ずるのが吉沢京子さんと森秋子さん。若くして人気女優として活躍し、豊富なキャリアを積んできた吉沢さんと、三島由紀夫自ら主宰した浪漫劇場で、その薫陶を受けた森さんとが、白熱した掛け合いを見せてくれることだろう。そして演出、案内役として舞台を手がける堀井さん自身が、浪漫劇場などで三島と二人三脚で活動した演出家・松浦竹夫を師として、「我が友ヒトラー」や「鹿鳴館」の舞台に立ってきた人でもある。柏崎公演のために脚色し、取り組んできた演目の初演に立ち会う幸運をぜひ味わってみてはいかがだろうか。
28日午後6時開場、6時半開演。チケットは1500円、お求めはブルボン本社、ドナルド・キーンセンター柏崎、文学と美術のライブラリー游文舎にて。

西山・高柳の多彩な宝モノ―柏崎市立博物館「ふるさとの宝モノ」展

2015年11月19日 | 展覧会より


 西山町・高柳町の合併10周年を記念して、柏崎市立博物館で「ふるさとの宝モノ」展が開催されている。これが実にバラエティーに富んでいておもしろい。もともと柏崎は、海と山に囲まれた多様な自然の恵みを誇っていたが、この二つの地域によってそれがさらに増強されたことがよくわかる。
もっとも地方都市の多くと同様、ただ「豊かな自然」と唱えているだけでは、空疎な紋切り型の謳い文句に過ぎない。しかし例えば門出和紙や、奉納幡に使われている弁慶縞のちぢみ等の高柳の特産品、あるいは鰆(さわら)と鱈の漁場が描き分けられた「石地漁場の図」など、時に過酷で厳しい自然と共存する営みや英知を示す民俗資料は、「多様で豊かな自然」を逆照射し、それぞれの特質を明確にしていることを痛感する。
そんな中でひときわ目を引いたのが、照明を絞ったガラスケースの中の、高柳・貞観園所蔵の一山一寧と寂室元光の墨跡である。門外不出かと思っていた二幅を前に、時間が凝縮されたような感覚を味わった。一山一寧(1247~1317)は、中国南宋出身の禅僧で、本作は来朝まもない建長寺時代のもの。端正にして清雅、ひたひたと緊張感が伝わってくる。美作出身で近江永源寺の開山、寂室元光の書は温雅で流麗な名筆だ。
この二点の他、貞観園にはその建造物も含め、柏崎市内の国指定文化財のほとんどが集中している。貞観園・村山家の繁栄ぶりが窺えると共に、村山家当主・哲斎(1821~1899)や分家の致道(1820~1884)らの高雅な美意識がそれらを支えてきたのだろう。致道の極彩色の襖絵には、京都で身につけた確かな技量が十分に見てとれるし、哲齋の「福浦図巻」は、自在な角度で景観を描写し、文人たちとの舟遊びの楽しさを生き生きと伝えている。
高柳町に貞観園と、村山家ゆかりの広済寺という宝庫があれば、片や西山町には椎谷藩・堀家ゆかりの超願寺や、越後二宮といわれる二田物部神社がある。国内最大級のヒスイ勾玉を始め考古資料も豊富だ。
今展開催にあたり、指定文化財の現状確認もなされたという。概ね管理されてはいたものの、集落の過疎化や所有者の高齢化により今後の管理が危ぶまれるものは少なくないという。難題が突きつけられたとはいえ、現状確認と課題があぶり出されたことは大きな意義があったと思う。
本来ならば、現地で、その風土を体感しながら見るべきだとは思うが、なかなか容易ではない。こうして一堂に会する機会があるのはとても喜ばしい。西山・西光寺の木喰作「十二神将像」を初めて見たのは、2009年、東京国立博物館の一木彫の特別展においてであった。その時には、ちょっと緊張したすまし顔に見えたのだが、今展ではのんびりと居心地良さそうに見えるのは、見る側の気持ちのせいとばかりは言えない気がする。23日(月・祝日)まで。ぜひ、足を運んでみてほしい。(霜田文子)