ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「いくさあらすな」と深田信四郎先生のこと

2015年08月26日 | 読書ノート


文学と美術のライブラリー「游文舎」では8月22日、このほど『ただたのみますいくさあらすな――深田信四郎先生が語る満州開拓団の悲劇と平和への願い――』(玄文社)を出版した阿部松夫さん(米山台)の講演会を開いた。約80人の参加があった。

深田信四郎先生と阿部さんの著書については玄文社ブログを参照。
玄文社主人の書斎

阿部さんは深田先生の生い立ちについて次のように語った。
 深田先生は明治42年、柏崎市田町の生まれ。父親は大工の棟梁であったという。年代的に大正時代に若者になっているから、大正デモクラシーの申し子であったと阿部さんは言う。新しい物好きで、スキーや山登りが好きだったという。大工の棟梁の子として、その気っ風や義侠心の血を引いていたのではないか。
 南魚沼郡大巻小学校の訓導として勤務していた1940年当時は、満蒙開拓青少年義勇軍創設3年目であり、各学校にも送出協力要請があった。しかし、大巻村からは一般開拓民へも青少年義勇軍へも応募がなかった。深田先生はその時、「オレが率先して……」と妻とともに満州へ渡ることを決意したという。これも先生の義侠心の表れであろう。
 阿部さんは上司としての深田先生の温かく優しい人柄を偲ばせる思い出を語ったが、なんといっても強烈な思い出は4年間続いた卒業式の式辞であったという。そのことを教え子たちも深く胸に刻んでいるようだ。
 深田先生は二龍山開拓団の体験に触れ、信夫人の「なんと言うておがみ申さん十一のおさな仏は飢餓仏ぞも」「餓死したる吾子にそなえる白米のひとにぎりだに落ちてあらぬかも」の歌を引いて、卒業生に呼び掛ける。「若い君たちの使命はこの世から戦争をなくすことだ。平和を築くことだ」と。阿部さんによれば卒業式でそんなことを言う校長はいないという。
 教え子たちはそのことを強く胸に刻んでいるが、「“いくさあらすな”は分かったが、その前後のことは分からなかった」と今では言っているという。それはなぜか? 阿部さんは現在でもそうだが、歴史の授業が大正くらいで時間切れで終わってしまい、教師がきちんと近現代史を教えてこなかったからだという。
それは我々の悔いであり、阿部さんは忸怩たる思いがあるという。それは教職員だけでなく、日本人の責任でもあるとも。



原発事故その後―動き出した科学者たち・生命に何が起きているのか

2015年08月20日 | 游文舎企画


18日、游文舎で、魚類免疫学の専門家である、鈴木譲東大名誉教授の話を聞く会を持った。
鈴木氏は一昨年同大大学院農学生命科学研究科付属水産実験所を退官後、「ため池」という閉じ込められた環境下で生息するコイの生態に着目し、福島原発事故による被爆の影響を調査している。コイの採集地は飯館村などの数カ所、多くが居住制限区域で、中には帰還困難区域もある。そして比較地として栃木県芳賀町を選んだ。採集したコイはその場で採血、解剖され、それぞれの部位が検体となる。さらに池底の泥を採取しセシウム137も測定する。コイは泥ごと餌を食べるからだ。
2013年の結果は驚くべきものだった。脾臓(免疫応答の場)や頭腎(魚類独特の造血部位で腎臓にある)に、病原生物や不要な細胞を処理するマクロファージが集塊状になった、メラノマクロファージ(MMC)が異常に発達していたのだ。さらに、肝臓にまでMMCが認められたのは、初めて見たという。また、白血球数もセシウム濃度に反比例するように減少していた。これらは明らかに栃木県のコイとの違いを示していた。
ところが翌2014年、栃木のコイの脾臓にも変化が見られ、白血球数にも減少が見られるようになったのだ。栃木も非汚染地とは言えないのかも知れない。底泥中のセシウム量は決して多くはない。しかしそれ以外の核種が影響しているかも知れない。
今、鈴木氏のように、生物学者たちがそれぞれの専門分野で原発事故による放射能汚染が何をもたらしたか、検証をしているという。サル、ウシ、イノシシなどのほ乳類や、野鳥、アブラムシやシジミチョウなど、放射能の専門家が想定の範囲内で影響を予測していくのではとうてい及ばないはずの、多様にして複雑な生物の調査を、双方向から研究することで、これまで見えなかったことが見えてくるに違いない。チェルノブイリで人の健康以外の影響調査が始まったのは、事故後10年も経ってからだったというから、日本の科学者が如何に迅速に動き出したかがわかる。
鈴木氏は、これは原発を推進してきた日本の責務であり、国が率先してこうした調査を行うべきだと言う。しかし、環境省の研究会を傍聴して、あまりのお粗末さに失望したとも言う。
この日の報告からは明確な結論はなかった。研究者として当然だろう。何よりも公平、公正が必要だ。だからこそ、比較対照地をより多く求めなければならないと、今後は全国各地に採集に出かけるという。しかしながら、福島のため池の底泥と、コイの筋肉中に蓄積された高濃度セシウムには震撼させられた。(霜田文子)

古書市準備中

2015年08月15日 | 游文舎企画


游文舎では9月12日・13日「大古書市」を開催します。
開催に向け鋭意準備を進めています。すでに4回くらい作業をしていますが、初めてのことなので、なかなか大変です。
個人全集、各種展覧会図録、画集、漫画などマニア向けの本もたくさんあります。是非お出かけ下さい。





関根哲男さん「原生―立つ土」

2015年08月10日 | 展覧会より


水と土の芸術祭で、佐潟エリアに展示されている関根哲男さんの「原生―立つ土」を観た。泥をかけ、土色になった300本のズボンは、それぞれの来歴を消去され、土を詰め込まれて屹立し、上には雑草が生い茂っている。それらは展示と言うよりも、人体の一部を借りて大地そのものが立ち上がった、といったほうがよい。上半身を失った群像は、不気味と言えば不気味なのに、どこか突き抜けたような明晰さで力強く立っている。 
 半獣半人ならぬ、半分植物で半分人間という、より原初的な未分化の姿を想像する。ならばそれらをアニミズムの対象として見ることも許されるだろう。湧水だけで満たされているという佐潟を守るような群像たち。時折水鳥が飛び交う。そこには自然との見事な調和が見られるのだが、会期はあと二ヶ月余り。雑草はさらに生い茂り、根を張り、大地に根ざすことだろう。その時人間の営為を超えた事態がありうるかも知れない。それもまた期待してしまう作品なのである。
 同様の作品が、大地の芸術祭でも展示されている。こちらも是非観たい。(霜田文子)



塚本晋也監督「野火」(4)

2015年08月06日 | 読書ノート
「この垂れ下った神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯と大地の間で、私の体は軋んだ。私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に分かれていたからである。私の身が変わらなければならなかった」
 上の一節で「野の百合」は終わる。右手と左手に分裂した状態では神への帰依はあり得ない。田村一等兵は変わらなければならない。神の代理人へと。
 永松が安田を殺す場面があるが、原作では射殺した後、永松は安田の肉を食うために、手首と足首を打ち落とすことになっている。塚本監督は永松が安田の肉を切り刻み生肉にむしゃぶりつくシーンをつけ加えているが、これもいささか"やりすぎ"と言えないこともない。
 そして田村一等兵が永松を殺す場面へと続くのだが、その時の田村一等兵の決意が、原作では次のように語られている。
「私は怒りを感じた。もし人間がその飢えの果てに、互いに喰い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない。
そしてもし、この時、私が吐き怒ることが出来るとすれば、私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなければならぬ」
 このような神に憑かれた使命感をもって、田村一等兵は永松を処刑しようとするのであり、"神の怒りの代行者"としての決意がその前に語られていなければならない。映画ではそのようなシーンはなく、田村一等兵の神の代理人としての姿を感じとることはできない。
 それにしても映像というのは難しいものだと思う。塚本監督だって、右手を左手が制する場面を『野火』の中で最も重要なところだと分かってはいたのだろう。しかしそれを映像化するのは至難の業であろう。下手をすれば"漫画"になりかねないからである。視覚的イメージの多くを読者に委ねざるを得ない"言葉"の方が、そこでは却って融通が利くのであって、映画ではそうはいかない。だから塚本監督は、『野火』の戦場における神学として重要な部分を表現することを諦めたのだろう。
 しかし、映画はそのような形而上学の表現たり得ないかと言えば、必ずしもそうではない。フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」は、戦場における"恐怖の形而上学"を描き出すことに成功しているではないか。いかに難解と批判されようが、コッポラ監督はやってのけたではないか。
 塚本監督にそこまで要求するのは確かに酷だと思う。戦場における神学抜きでも、映画「野火」は緊張感溢れるいい映画だと思うし、歴代の反戦映画に連なる作品として評価したいと思う。
 でも、本当に生の戦争の真実を知りたいのであれば、私は大岡昇平の大作『レイテ戦記』を読んでほしいと思う。レイテ戦こそ『野火』の背景となった、日本軍の無惨な敗走の舞台だったからである。そこでは無駄な兵力が次々と投入され、総兵力のなんと97%、約8万人の命が失われたのである。
人肉食を強いたのは国家であった。
(この項おわり)