ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「私達は自由よ」――岡上淑子のフォト・コラージュ(2)

2015年05月24日 | 展覧会より


岡上淑子作品集『はるかな旅』

5月半ば、出版記念展が開催されている東京・恵比寿のlIBRAIRIE6を訪れた。ギャラリーを主宰されている佐々木聖さんも岡上の作品に〝感応〞した一人といってよいだろう。オリジナルを見て、作品の精度と鮮度にまず驚嘆する。構成だけではない。エルンストのコラージュがそうであるように、60年を経ても、糊の変色も剥がれも見られないのだ。
 この日は巖谷國士氏のトークも行われた。「〈遊ぶ〉シュルレアリスム」展の監修者でもある。巖谷氏はまず、シュルレアリストと、岡上が同じ基盤を持っていること、即ちシュルレアリスムが第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパで生まれたように、17歳で敗戦を迎えた岡上が、同じような体験をしていることを挙げる。大惨禍を前に、西欧近代合理主義への懐疑が、ルネサンス以来の遠近法や解剖学からの解放をもたらしたように、岡上もまた、従来の絵画構成からはほど遠い。さらにもとのイメージは換骨奪胎され、全く新たなイメージを生み出すことや、世界のどことも特定できない風景になっていること、しかもメッセージ性を持たないこと等々、次々にエルンストのコラージュとの共通性を指摘する。また背景を持ち、地平線があることは、チェコを代表する女性画家・トワイヤンが執拗に地平線を描いたことを想起させる、とも。
 そして巖谷氏が最も強調するのが「作る」のではなく「できる」ということ。これはほとんどオートマティスムに近く、エルンストもまた「自分は観客のよう」と言っていた、という。(良い意味で)巧みになろうとすることもなく、いわば原石のままで、それが一貫性をもたらしているのだという。
 それにしても憧れが満載された、日本とは比べものにならない美しいグラフ誌を、惜しげもなく切っていく行為は、私にボフミル・フラバルの『剃髪式』の女主人公・マリシュカを思い出させる。舞台は第一次世界大戦直後の、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊して誕生したばかりのチェコスロバキア。新しい時代の若き母、フラバルの母親をモデルにした一人称小説だ。マリシュカはそこで長いスカートを膝丈まで切り、チェコの象徴とまで言われた長い髪をばっさりと切り(愛犬のしっぽまで切るという大失敗もするのだが)、さっそうと自転車に乗る。岡上はマリシュカほど行動派ではないが、旧来の価値観を断ち切り、少しばかり背徳の匂いをまとい、しかし自然体で潔い姿を重ね合わせてしまうのだ。そして、共につぶやいていたに違いない。「私達は自由よ」、と。 (霜田文子 この項終わり)

今井伸治作品の崇高と美について

2015年05月22日 | 游文舎企画

〈担う〉


〈継ぐ〉

 入場者の一人がギャラリーに入ってきて、今井作品を一目見るなりこう言った。「この人は宗教家?」。
 確かに今井さんの作品には宗教的なアウラが漂っている。特に〈担う〉という作品はキリストが背負った十字架を思わせるし、十字架を担う四肢の跡のように刻まれた4カ所の傷は、まさに聖痕そのものである。
しかし、必ずしも宗教的なテーマを持っているわけではない〈九つの窓〉にも〈継ぐ〉という作品にも、宗教的なものを感じないわけにはいかない。それは作品の巨大さがもたらす質量感によるものであり、素材としての木材に刻まれた年輪がもたらす悠久の感覚によるものでもある。そしてバーナーで漆黒に焼かれた地肌がその質量感と悠久の感覚をさらに強化している。
〈九つの窓〉は1~9の面積比を持つ窓をテーマにした作品なのだろうが、どうしても見るものの眼は虚の空間としての窓よりも、実体としての木材の方に行ってしまう。それほどに素材が持っている質量感と悠久の感覚が圧倒的なのだ。


〈九つの窓〉

 先日、エドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』という18世紀の美学の本を読んだ。それまで混同されていた崇高の観念と美の観念を峻別し、崇高の観念をもたらすものは「個人の維持」に関わる“苦”の感覚であるとし、崇高の構成要素として“恐怖”“闇”“広大さ”“継起と斉一性”などを挙げて論じた名著である。
 今井さんの作品の与える感覚はある種の崇高さであって、だからこそそこに宗教性を感じないですますことは難しい。さらには地肌の漆黒が畏怖の念を呼び起こす。今井さんの作品はバークの言う崇高の要件をほとんど満たしているのである。
(私のブログ玄文社主人の書斎にバークについて書いているので、お読み頂きたい)
〈九つの窓〉はほぼ垂直と水平だけで構成された抽象的な作品である。しかし、木材の自然に由来するなだらかな曲線や悠久の時間によって刻まれ、バーナーで焼かれることによって強調された年輪の模様がその抽象性を打ち破っていく。
 それは27個(真ん中が空洞なので正確には26個)の正立方体で幾何学的に構成された〈CUBE〉という作品でも同様である。そこには自然に由来する美しさがあり、焼成を繰り返して丁寧に仕上げた仕事が、その美しさをさらに際立たせている。


〈CUBE〉

 エドマンド・バーク風に言えば、今井さんの作品には崇高と美の結合が見られるのである。
 ところで今井さんの作品が与える畏怖の感覚を大事にしたいと思う。今日現代アートの作品を見て畏怖の念を覚えることなどほとんどないし、そのような感覚を現代アートの作家達は忘れているとしか思えない。
 畏怖などという感覚が虚構でしかないと言うなら言えばいい。しかし、今井さんの作品に対峙した時、そんなことは二度と言えなくなるに決まっているのである。
(企画委員 柴野)

「私達は自由よ」――岡上淑子のフォト・コラージュ(1)

2015年05月21日 | 展覧会より
岡上淑子(おかのうえとしこ)という作家と作品を知ったのは2013年「〈遊ぶ〉シュルレアリスム」展(東京・損保ジャパン東郷青児美術館)においてであった。1950年代の、わずか6年間の活動期間に制作されたフォト・コラージュ作品である。もっとも創作に対する姿勢などから「作家」とか「活動」といった言葉はふさわしくないかもしれない。全く自発的に作っていたコラージュが瀧口修造の目にとまり2回の個展を開いたが、結婚を機に創作活動から離れたという。
アメリカのグラフ誌などから切り貼りされたそれらは、茫漠とした平原に、どこか欠損した女性や、抜け殻のようなドレスが浮遊していたり、人体の一部や動物や椅子が、比例や遠近を無視して忽然と現れたりする。瀧口の知遇を得て、書斎でエルンストの作品を見せられ決定的な影響を受けたというが、もともと「シュルレアリスム」を知らず、ましてエルンストの作品など未見で始めたものが、驚くほどの類似を見せていたのだ。
展示されていたのは7,8点だけだったが、洗練された構図、手際の良さ、タイトルに見られる鋭敏な言語感覚など、その資質に瞠目せざるを得なかった。しかしわずかな解説からは、懐かしさと共に、今なお新鮮な作品が生み出された背景とはどのようなものだったのか。なぜそこまでシュルレアリスムと通底するのか。今、再び光が当てられているのはなぜなのか。そんな疑問も抱き続けることになった。
そして今春、作品集『はるかな旅』が刊行された。早速入手し、頁を繰る。「郷愁の罠」「刻の干渉」「沈黙の奇蹟」・・・意味深長なタイトル同様、わずかなモチーフの大胆な組み合わせが白昼夢のような光景を生み出す。「記憶への道」は、所々発火したような鉄路に白いドレスの女性が立っている。「孵化」では、田園風景を背に、二つの卵を抱いて斜めに横たわる女性の、頭部は蝶だ。「密猟」では、密林の枯れ木の先に鳥やドレス、そして銃を持った手が覗く。瓦礫や戦場など、背景の多くが戦後間もないことを示しているが、だからこそ華麗なドレスをまとった女性たちが自由にして、どこか不穏な気配を漂わせている。
当時の岡上の「私とコラージュ」という文章が再掲されている。その書きぶりは、自ら切り取った女性たちが、「私達は自由よ」と羽ばたいていくのを、戸惑いつつ他人事のように見送っているようだ。岡上を〝再発見〞した写真史家の金子隆一氏の後書きに注目したい。「(どうやって作るのか聞いたところ)「できるんです」であった。「作る」のではなく「できる」のである。・・・非・構築的な表現は、それ自体として語られるのではなく、それを受容する回路を含めてとらえられなくてはならないはずである。」(霜田文子)

後藤信子さん「舞台で生きた仮面たち」展

2015年05月20日 | 游文舎企画
ギャラリー十三代目長兵衛で後藤信子さんの「舞台で生きた仮面たち」展が始まりました。まずは入り口の床から壁面に向かって、無数の手のオブジェが見る人を誘います。手にびっしりと取り囲まれているのが「家なき子」の人形。そしてたくさんの仮面は、どれひとつとして同じ表情はなく、あるいは一人の人間の様々な表情かも知れないとも思わせるのです。
蔵ギャラリーのがっしりした梁には、表情豊かな七つの顔がのぞきます。ミュージカル「ブルターニュの子守唄」の仮面たちです。圧巻は中二階のチェス駒と灯り、それらを取り囲む能面や冠の展示。りゅーとぴあ能楽堂シェークスピアシリーズの「リア王」「マクベス」のために作られたものです。
舞台美術という制約の中で、後藤さんならではの個性を最大限に発揮し、人間の奥底の心理をちらりと垣間見せる仮面たちをどうぞご高覧下さい。24日(日)午後4時まで。




「ブルターニュの子守唄」の仮面


チェス駒と灯り