ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

小さな美術館より・その3――師走のパリ旅行記(4)

2020年01月25日 | 旅行


 多くが成人をモチーフにして、それも複数の人物を劇的に配した作品の中で、幼子を描いた異質な作品があった。画面右下方に、丸々とした赤ん坊がいる。左側の同じ高さに赤い鳥、背景は着色のみでほとんど描かれていない未完の作品である。タイトルは「Moïse exposé」、旧約聖書「出エジプト記」の一場面である。ヘブライ人がエジプト内に増加していることに脅威を感じたファラオが、生れてくるヘブライ人の男児を全て殺すよう命じるが、ヨケベトは我が子モーセを殺すに忍びず、葦舟に乗せてナイル河に流す。
 同じテーマの別作品を図版で見たことがある。フォッグ美術館の「ナイル河に捨てられたモーセ」である。1878年のパリ万博に出品されたもので、縦長の画面下方に黄金色に光り輝く赤子が、葦舟に横たわり、無垢な表情で眠っている。中景には赤いペリカンや白い鳥、花々が細やかに描き込まれている。そして後景には壊れかけたスフィンクスや神殿など、エジプトの古代建築が光に溶け込むように描かれている。背景との対比で、赤子は「新しい法の中の希望」を象徴しているという。
 目の前の作品も、中景は暗色の帯となっていて、画面中央から上方にかけて黄金色が塗られており、ナイル河と古代エジプトの建築を光の対比のうちに描こうとしていたと思われる。赤い鳥はペリカンだろう。自らの胸に穴を開けて自分の血で我が子を養う鳥―母性愛の象徴である。そうなるとフォッグ美術館の作品とほとんど同じ構成になるが、決定的に異なるのがモーセの描き方である。半身を起こし、目を見開いて上方をじっと見ている。三ヶ月の赤ん坊にはあり得ない表現だが、モローはこうして運命の子・モーセが超越的存在であることを示しているのではないだろうか。妖艶で官能的、背徳の匂いをまとったサロメとは対照的な作品だが、運命に立ち向かう毅然とした視線に相通じるものを感じる。フォッグ美術館の完成度の高い美しい作品も好きだが、私はこちらの方により惹かれる。
 
 

 もう一つ異質だったのが「人類の生」という、九連作である。(写真のさらに上に、血を流したキリストが、天使たちによって天上へと連れられていく半円形の図もあるのだが、写真に撮れなかった)。1886年の作品である。上段三点は黄金の時代、中段三点は白銀の時代、下段三点は鉄の時代で、縦に三点ずつ朝、昼、夜となっている。黄金の時代の三点はアダム、白銀の時代の三点はオルフェウス、鉄の時代の三点はカインである。横にも縦にも関連づけながら、神話と聖書を対応させた、複雑で緻密な構成となっている。アダムという純粋な生命の始原から、カインという犯罪者の誕生、そしてカインの「夜」、つまり九番目の図は「死」となる。こうした連作によって、モローは壮大で象徴に溢れた物語を表現しようとしていたのである。だからこそ、中央にはオルフェウスを置かなければならなかった。詩人こそ芸術と思想の母胎なのだから。
 


 部屋の一辺に大きな螺旋階段があり、天井の高い三階のアトリエのアクセントになっていて、階段途上からアトリエを眺め回すことも出来る。そして上りきると何とここにも作品がぎっしりと掛かっている。その中で最も目立つのが縦二メートルを超える大作「ユピテルとセメレ」である。1895年、晩年の最大の完成作である。
 
 

 ユピテルは人間に姿を変えてテュロスの王女セメレのところに通っていたが、それを妬んだユピテルの妻・ヘラがセメレをそそのかし、ユピテルの本当の姿を現すよう懇願させる。セメレは雷神の姿を現したユピテルの稲妻に撃たれて焼け死んでしまう。
 玉座に坐るユピテルは目を見開き、正面を見据えている。ユピテルの膝の上で体を反らせて息絶えるセメレは、苦痛というよりも恍惚とした視線を向けている。二人の足下には有翼の人を始め、多くの神々や女神たちが、哀しみや苦悩の表情を浮かべてうずくまったり、立ち尽くしたりしている。大画面にも拘わらず、まるで細密画を寄せ集めたように隅々まで精緻に筆が入り、暗い中にも効果的に光が取り入れられている。とりわけ青い空と、ユピテルの光背のような赤い雷光が鮮烈だ。そして画面中央をよぎるセメレの白い裸身が異様なほどに際立ち、既に純化して地上の存在ではないと思わせる。
 




 ところで三階のアトリエには大きな家具のような箱形の木箱がある。扉を開くと、なんとパズルのようにぎっしりと小品が掛けられている。さらに窓の下には棚が作り付けられていて、いくつもの引き出しがあって夥しい数のデッサン類を見ることが出来るようになっている。モローは一つの作品に対してたくさんの習作を繰り返していたから、時間をかけて探していれば、館内の完成作と下絵を見比べることもできるだろう。こんなふうに、マニアならずとも何度でも訪れて、時間をかけて見ていたいと思わせる個人美術館など、他に思い浮かべることが出来ない。
 
 年齢を重ねるほどにモローの物語は深化し、神話や聖書に材をとりながらも、独自の解釈を加え、異教や伝説も混淆し、複雑な象徴を駆使しているように思う。同時に「手に触れるもの」「眼に見えるもの」からはいよいよ遠ざかっている。現世的、物質的なものには目もくれない。冒頭の甘美に過ぎる、自己陶酔、時代錯誤という言葉は完全に先入観であると言わなくてはならない。綿密な構成と透徹した視線で画面全体は厳しく整序されている。時代など超越しているのだ。アトリエは今なお、超然たる「モローの時間」を刻み続けている。(霜田)
 


小さな美術館より・その2――師走のパリ旅行記(3)

2020年01月18日 | 旅行
ギュスターブ・モロー(1826~1898)という画家を、私は手放しで好きだとはちょっと言いにくい。たぶんそういう人が多いのではないだろうか。甘美に過ぎる。自己陶酔的だ。時代錯誤ではないか。けれどもどうしても気になる。たぶんそういう人も多いのではないだろうか。時代の流れに一切惑わされず、神秘的で幻想的、ミステリアスで官能的、妖しく隠微で、死の影をまとった孤高の世界を構築した特異な作家だと思う。先駆者もなく、一人超然と神話の世界にいた人だ。「自分は手に触れるものも、眼に見えるものも信じない。見えないもの、ただ感じるものだけを信じる」と言うモローの言葉は、目に見える世界を徹底的に追求した同時代のクールベやマネ、印象派等を強く意識してのことだろう。それではモローにとって「見えないもの」「感じるもの」とは一体何だったのだろうか。
 モローは1852年から居宅兼アトリエにしていた建物を、自身の作品展示場にすることを考えていたという。そして亡くなった後、建物は作品やコレクションと共に国に遺贈され、1903年に「ギュスターブ・モロー美術館」としてオープンした。したがってこの美術館は国立である。そういえば日本には国立の(特定の作家一人の作品に限って収蔵展示する)個人美術館はなかったはずだ。
 パリには個人美術館が実に多い。ピカソ、ブールデル、ロダン、ザッキン、マイヨール、ダリ、ドラクロワ等々、時間が許せば訪れたいが、交通ストさなかでもありとうてい無理だ。(ドラクロワ美術館には行ってみたが冬期休館中だった)。それでもモロー美術館に優先的に出かけたのは、出発前に複数の知人から勧められていたことと、例えばピカソのように様々な作風を変遷した作家を追うのもいいが、モローこそ、一貫した濃密な世界に浸ることで、はじめて見えてくるものがあるのではないかと考えたからだ。
 この日、運良くモンパルナスからサン・ラザール駅までバスで行くことが出来た。そしてモンマルトルに向かって少し上り坂になった頃、モロー美術館を見つけた。そう、「見つけた」である。元々住居であっただけに、外観は通りの建物と全くなじんでいて、気をつけていないと通り過ぎてしまっただろう。しかし中に入ると、思いの外広々としている。



二階は居室や寝室で、壁面にはびっしりと絵が掛けられている。家族の肖像や友人から送られたものなどで、中にはドガや、少し年長なだけだが師と慕っていたシャセリオーの作品もある。
三、四階がアトリエだったところで、そこが主要ギャラリーになっている。三階の、大小の作品がモザイクのように二段にも三段にも掛けられた部屋でしばらく絶句した。神話とキリスト教とエキゾチックな異教が渾然一体となった目眩くようなモローの世界そのもの、繊細で装飾的で過剰なほどの画面の一つ一つが、それぞれの劇のハイライトであるような作品でびっしりと埋め尽くされているのだ。中には描きかけの、まるで夢の中から今イメージが立ち上がったばかりのような絵も多くある。常日頃それらに囲まれながら、なお絵画の奥へと向かっていく作家の思考が張り巡らされているような気がした。
この部屋で否応なく目に飛び込んでくるのが、サロメを描いた2点の作品である。





「踊るサロメ」は別名「刺青のサロメ」とも呼ばれている。
写真がうまく撮れていないのだが、拡大すると色彩が施された画面の上に細やかな線描があることがおわかりいただけるだろう。しかし線描はサロメの体だけではなく、画面左右の建物部分にも施されており刺青ではない。1876年のサロン展に出された「ヘロデ王の前で踊るサロメ」に近似しながらも、光の効果が見られないなど、「サロメ」に先駆する作品とみられており、線描はかなり後になって施されたと考えられている。
 


もう一点は「出現」だ。同じ構図で描かれた水彩画がルーヴル美術館にある。水彩の方は、やはり1876年のサロンに出品したものであり、同時期とみられている。モローは同一テーマを繰り返し描いているが、とりわけこの時期サロメを集中的に描き、それがこの画家の最も充実した時期と重なっている。「踊るサロメ」では、茶褐色の暗い背景の中から玉座に座るヘロデ王や、サロメの足下に腰を下ろすへロディアや従者がわずかに浮かびあがる。不穏な気配を予感するように二人はサロメを凝視している。サロメの若さみなぎる、張り詰めた白い肌だけが、画面の光を全て集めている。その左腕はヘロデの前を横切るように、画面中央に伸びている。恍惚の状態だろうか、瞑想にふけるような表情だが、きりりと結んだ口元と、すっくと立っている肢体には妖艶さと同時に強さ、潔さが感じられる。
「出現」ではさらに、洗礼者ヨハネの首が光の中に浮かび上がっている。血を滴らせた首がサロメを見つめているが、サロメもまた鋭く強い視線でヨハネを見返している。ヨハネの光の影にヘロデはかすみ、従者の表情は変わらず、その首がサロメにしか見えていないことを示唆している。ここにも後から施されたらしい線描がある。
 よく知られているように「サロメ」とは、ユダヤ王ヘロデの妻ヘロディアの連れ子で、ヘロデが兄の妻を娶ったことを非難した洗礼者ヨハネを捉え、処刑するかどうか迷っていたところ、ヨハネを憎むヘロディアが王の誕生日に娘に踊らせ、その褒美にヨハネの首を所望させた、という新約聖書に拠っている。しかし聖書には娘の名前すら明かされておらず、中世以降、芸術家たちがその妖しい魅力に惹かれて名前を与え,主題にしてきたのだという。(1995年国立西洋美術館「ギュスターブ・モロー展」カタログより)その中でも、モローのサロメは独自の境地に達している。特に「出現」は、異様で衝撃的な場面にも拘わらず、それ以上に強い意志をもった一人の女性としてのサロメが際立っている。そして悪女などという卑近なレベルではない、死を呼び込む魔性を備えた超越的な存在にもなっている。
 水彩や油彩を手がけるに当たってモローは、ラフなものから何段階もの習作を経て構図を定め、また細部のデッサンも怠りなく、登場人物の性格から立ち位置まで周到に構想し、それは衣装や装飾品にも及んでいるという。そうなると、先に私が描きかけの絵について「夢の中から今イメージが立ち上がったばかりのような絵」という見方は訂正しなくてはならない。まさに緻密に練り込まれた舞台のクライマックスであり、「見えないもの」を、手触りや香りや温度まで「感じられる」ように組み立てていくのだ。(この項続く)
 


小さな美術館より・その1 ――師走のパリ旅行記(2)

2020年01月11日 | 旅行
「写真家は、世界が自己をこえていること、そこに不気味なものもあることをもっとも明確に見出した最初の人間であるかもしれない」(多木浩二『写真論集成』 岩波現代文庫)

 写真がどんなに現実を正しく切りとって伝えようとしても、そのまま伝わるはずもなく、その情報量は限られている。現代を写し出し伝えるという一方方向では、断片だけが当てもなく集積されるにすぎない。したがって見る側の想像力をどれだけ駆動させられるかは、写真家の力量を測るひとつの物差しかも知れない。しかし情報があふれ、インターネットなどで手軽に世界の今を知ることの出来る時代にあって、いっそう人々は個人の無力や世界との違和を感じ、世界の意味を問うことから遠ざかろうとしているのではないか。そんな困難な時代にあって、写真家と世界との間にある不気味な深淵と、見る側と世界との屈折した関係とを見据えながら、なお黙々と写真を撮り続けている二人の作家の写真に出会ったのは、ヨーロッパ写真美術館においてであった。
 
この美術館に誘って下さったのは、東京から来られたS氏である。氏は5,6年前、1年間モンマルトルに暮らし、パリの日常生活をつぶさに見てこられた。私はその美術館を知らなかったのだけれども、氏のお薦めならばと、期待して出かけた。そして上記のように、期待に違わぬ写真を見ることが出来たのである。
 市庁舎から歩いて15分、マレ地区にあるヨーロッパ写真美術館(MEP)は1996年にオープンした、ヨーロッパ最大級の写真美術館なのだという。ガイドブックにもちゃんと載っている。私の下調べ不足なのだが、それでもよほどの写真好きでなければ、パリに初めて来た人が優先的に訪れる場所ではないだろう。18世紀の貴族の邸宅を改装したという建物は、ちょうどゴシック小説の舞台になりそうな外観だが、内部はモダンに改装され、地下1階から地上3階まである展示室の他、図書館やビデオテーク、会議室などが備わった本格的な施設だ。これを「小さな美術館」と呼ぶのはふさわしくないと思われるかもしれないが、旅から帰ってきて、やはりここは「小さな」に分類したかった。
 この旅で、ルーヴルを初めとして、オルセー、ポンピドゥー、ケ・ブランリーなど、主立った国立美術館に行った。グラン・パレやプチ・パレにも行った。だが一回見たくらいでこれらの館について語ることなどとうてい出来ない。ただただその広さや造りに圧倒され、収集品の、中身よりも数に疲れ果ててしまった。国の威信をかけた巨大な美術館は、日本のナショナル・ミュージアムの比ではない。プチ・パレだってグラン・パレに対するプチということであって、堂々たるものだ。だが写真美術館の、コンセプトの明確な落ち着いた空間はとても心地よく、一巡りするのにちょうどよい。ここでいう大小とは、建物の大小というよりは、威圧感の違いと言ったらよいだろうか。「小さな」には「居心地のよい」「愛すべき」「好ましい」といったニュアンスも多分に含まれる。
 そして2019年12月から2020年2月までの企画展として展示されていたのが、Ursula Schulz-Dornburgと、Tommaso Protti の、ともに白黒の写真だったのである。
 Tommaso Prottiは1986年イタリア生れの若い写真家である。彼のシリーズは「Amazonia: Life and Death in the Brajilian Tropical Forest」と題されているとおり、生態系の危機にあるアマゾンの熱帯雨林を撮り続けている。南米9つの国にまたがるアマゾン熱帯雨林の6割がブラジルに属する。この一帯に3億人、420の民族が住み、ほとんどが自然の恩恵だけで生きている。しかし経済活動や気候変動によって急激に森林破壊が進んでいる。Tommaso Prottiは、Belo Monteダムの影響調査のために初めてアマゾンに行った2014年からブラジルに住み、現地の人たちと共に活動し、生活している。そしていかにこの国の社会、人間、環境の危機が増大しているか、破壊と流血とが重なり合う現実を、写し出そうとしている。



カヤポ族地域のKuben-Kran Ken 村の滝を背に遊ぶカヤポ族の子供たち。カヤポは世界で最も広い森林が守られている地域で、それが南方から進んでいる森林破壊からの重要なバリヤーとなっている。



Belo Monteダムによって枯れた木々。このダムは400㎢の森林を流した。ダム建設当時、環境や市民団体から批判があった。現在、この計画は議論が行き詰まったままになっている。



マラニョ州の森林破壊地域。マラニョは森林火災や違法な伐採などで、破壊が最も深刻な地域である。



最もショッキングな写真だった。取り囲む人たちの表情には恐怖よりも絶望ややるせなさを感じるし、警察にも緊急の動きが感じられない。背後には日常化した暴力があるのだろう。警察犬かもしれないが、死体に近づく黒い犬がハイエナのようで不気味だ。

暗い写真ばかりではない。滝で遊ぶ子供たちの表情は自然だし、家の中に向けられたカメラに向かって、くつろいだ表情を見せる人たちもいる。Tommaso Prottiが土地の人たちとしっかりとした信頼関係を築いてきたことが窺われる。

Ursula Schulz-Dornburgは1938年ドイツ生れ、デュッセルドルフに住んでいる。タイトルの「THE LAND in Between」をそのまま訳せば「間に挟まれた土地」となるが、果してどういう意味だろう。ところどころ地図がある。彼女が撮影のために旅したところだ。アルメニア、マーシュアラブ(イラク)、パルミラ、アララト・・・いくつもの国に囲まれ、国と国の関係の狭間にある土地であったり、古代の文明の発祥地だったり、東西交易の拠点であったり。それらはまた度重なる戦争や紛争の舞台ともなった。複雑に絡み合う歴史や文化と戦略的な力学。それらがいかに、築かれてきた環境を変容させてきたのか、衰退させてきたのかを考えさせる。



アルメニアの、ソビエト時代の朽ちかけたバス停でバスを待つ人。荒野のまっただ中にぽつんと造られたバス停に、いったいどうやって、どれくらい時間を掛けてやってきたのだろう。バスはどこから来て、どこに向かうのだろう。そもそもバスは本当に来るのだろうか。不条理劇のようだ。



「VANISHED LANDSCAPE」の一つとして写されているパルミラはシリア中央部にあり、ローマ帝国に支配されていた当時の都市遺跡が遺っていた。1980年には世界遺産に登録されている。撮影されたのは2005年と2010年。しかし2015年にイスラム過激派によって破壊された。写真家は予言者でもあるのだろうか。



アララト山はトルコにある5137mの成層火山。ノアの箱舟が流れ着いた山とされている。この地にはアルメニア人が多く居住していて、山はアルメニア民族のシンボルとなっていたが、第一次世界大戦中に強制移住でトルコからいなくなった。大虐殺もあったらしい。トルコとロシアにより、アルメニアから引き裂かれた山なのである。



ついに核実験が環境破壊をもたらした。「Opytnoe Pole」とは旧ソ連、現在のカザフスタン・セミパラチンスクの核実験場である。1949年から1989年まで実験が続けられ、1991年閉鎖された。影響はそれまで隠蔽されていたが、カザフスタンの所有となってから公開調査されている。

言うまでもないが、私はフランス語が全くわからず、英文解説もあったものの、作品を見ながら一読で理解するほどの読解力はない。いわばほとんど言葉によるサポートなく、美しいが、不穏で胸騒ぎするような感覚を覚え、白黒写真の持つ力に引きつけられたのである。
同じ白黒写真といっても、Tommaso Prottiはくっきりと明解であり、それが闇をいっそう昏々とさせ、世界の歪みを凝縮したような暗部を作り出す。一方、Ursula Schulz-Dornburgはソフトフォーカスで白昼夢のような世界を現出する。全てが遠くへと去って行くようで、それが過去へなのか未来へなのか、もしかしたら未来の廃墟なのではないかと錯覚させられる。二人の違いとはTommaso Prottiが今の、現実の、生(なま)の声を伝えようとしているとしたら、Ursula Schulz-Dornburgは、声なき声を引き出し、代弁する語り部のように思えることだ。
 今展ではストの影響もあろうか、展示室一室にせいぜい数人ずつが、時間をかけて作品に見入っていた。同館のこれまでの企画を見ると、アンリ・カルティエ・ブレッソンやアンディ・ウォーホル、ディヴィッド・ホックニーなど、著名な作家の写真展を開催しており、当然多くの観客を集めてきたのだろうが、(少なくともUrsula Schulz-Dornburgは)初めてのフランスでの展示という外国人作家にもきちんと目配りをする、この美術館に大いに共感したのだった。(霜田)

フランスの交通ストライキ  ―師走のパリ旅行記(1)―

2020年01月05日 | 旅行
12月5日から始まったフランスのストライキが一ヶ月を超えた。マクロン大統領が選挙公約にも挙げていた年金改革に反対して、国鉄やパリ交通公団の職員を中心に行われているもので、史上最長になったという。権利を脅かされると、フランス人は「自由」「平等」を掲げて、一気に230年前に立ち帰る。フランス革命の精神が蘇るのだ。電車や地下鉄はほとんど運休(地下鉄1号線と14号線が通常運行なのは自動運転だからである)、バスも大幅に減便で、パリ市民の日常にも大きな影響を与えているはずだ。フランスの年金は大幅な赤字で、改革に理解を示す人が多いにも拘わらず、ストライキを支持している人の方が多いというのも不思議である。一昨年、燃料税の値上げの際の「黄色いベスト」運動のような暴動が起こりさえしなければ、パリ市民は大目に見ているのだろうか。現地在住の日本人女性は、いつの間にかうやむやにしてしまう日本よりずっといい、と言っていた。

一日45万人の乗降客があるというサン・ラザール駅も閑散としていた。

 私がパリに到着したのは12月7日だった。既報のようにパリ在住の画家ともこさんと、東京在住のさちえさんとの三人展のためである。新潟市の美術作家や東京の知人らが一部、あるいは折々同行してくれた。事前にストライキの情報は入っており、気にしてはいたものの、シャンゼリゼ大通りに点灯されたイルミネーションのニュースを見るにつけ、フランスの一大イベントであるクリスマスを前に、そんなに長引くはずはないと思っていた。しかし情報は日に日に悪い方へ行く。とにかくシャルル・ドゴール空港からモンパルナスのホテルまで何とか着けるだろうか、と思っていたら空港から市内直行バスは平常通りの運行で、渋滞にも遭わず、無事に予定通りに駅前のホテルに着くことができた。ところで私は今どのあたりにいるのだろう?
 私は近年、年一度のヨーロッパ旅行をしている。そのためには展覧会の予定や游文舎の予定とすりあわせた上で、せっかくの機会だからと事前に少しは現地のことを調べていくようにしている。ところが今回のパリ展は、そうした年間予定に追加の形。展覧会のことで精一杯で、初めてのパリについて、いくつか見たいところを決めてはいたものの、ほとんど予備知識を持ち合わせていなかった。まず地図を見る。とにかく見続ける。私は地図が大好きだ。外に出るととんでもない方向音痴なのだが、地図を見ているといろんな風景が立ち上がってくる。モンパルナスから展覧会場であるカルティエ・ラタンのギャラリーまでは歩いて30分くらいだろうか。こんな時は歩くに限る。初めてとはいえ、聞き慣れた地名がたくさんある。案外近そうだ。パリの街ならいくらでも歩けそうな気がしてきた。

  展示作業が終わったギャラリー正面から中を見る




サン・ジェルマン・デ・プレ教会の外観と身廊内部

 ギャラリーからの帰り道、セーヌ通りからイルミネーションで飾られたサン・ジェルマン大通りにでてまもなく、サン・ジェルマン・デ・プレ教会がある。ここはロマネスクの鐘楼と身廊を遺す、フランス最古の教会だという。時代ごとに修復を重ね、身廊内部は交差ヴォールトになっているなど、様々な様式が混在しているが、ゴシック様式の、どこまでも高く、巨大な内部空間とは異なる、人間的で実に暖かみのある教会だ。日々歩き疲れては、この建物を見てどれだけ心慰められたことだろう。そしてこの教会近くの交差点からレンヌ通りに曲がればモンパルナス・タワーがぱっと目に入る。19世紀に大改造したパリの街並みは、整然とした区画とともに、建物の高さが揃っていて、空がとても広い。そんな街に、59階建て、200メートルを超える直方体のビルは、何と無粋なことかと思ったが、道案内には随分役に立った。(霜田)