ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

アトリエ訪問―游文舎9周年記念「北條佐江子展」(6月3日~11日)に向けて

2017年04月23日 | お知らせ

桜が満開の頃、花見客で賑わう弥彦の、小高い丘の上に建つ北條佐江子さんのアトリエを訪ねた。麓の喧噪をよそに、瀟洒な洋館と、手造りという、雑木や山野草が植えられ、タイルや石が敷かれた庭が、北條さんの作風とぴったり合っている。玄関に入るなり、自らの手でペイントされた壁、掛けられている絵画やオブジェに北條さんのあふれんばかりの創作欲を感じる。
クレヨンを塗り込んだ童画風の小品は様々なヴァリエーションで楽しませてくれる。「ミロやクレー、フンデルトワッサーが好き」というとおり、その影響は明らかだが、やや沈潜した色調に独自の内面性を見る。
写真は9周年記念展でメインとなる大作が並ぶアトリエである。すべて今展のための新作で、なお制作は続く。すでに高い評価を得ている北條さんが、真摯に新作に取り組む姿勢には主催者としても感動を覚える。「花」をテーマにしながらも、重厚なマチエールと、力強い描線が観るものを「花」から解放し、大自然や宇宙までも連想させる。
游文舎9周年記念「北條佐江子展」は6月3日(土)から11日(日)まで。会場いっぱいに100号以上の大作が並ぶ予定である。ぜひご高覧ください。

かくも対照的な……

2017年04月10日 | 游文舎企画



 関根哲男さんは年に一回、県内のアーティストを相手に、アートによるバトルとしてのVS(ヴァーサス)展を開催してきた。これまでに8人の作家と格闘を繰り広げて、今年は9年目となる。
 今回は初めて女性が相手の勝負である。新潟の版画家・高橋洋子さんだ。これまで新潟のギャラリーを中心に会場としてきたが、今回は関根さんの地元、柏崎での開催となった。
 VS展であるから関根さんの作品に対抗して、その物量と破壊力でぶつかり合うことを期待するかも知れないが、今回は必ずしもそうなっていない。むしろ二人の作品の差異が際立つ展示となったのではないか。
 関根さんはいつもの90cm×90cmのパネルに、古着のジーパン(一昨年の大地の芸術祭と水と土の芸術祭に出品したアレの再利用である)を貼り付け、ドリルで空けた無数の穴に荒縄を通して結びつけ、全体に泥を塗りたくった作品を隙間なく集積させた作品を出品した。
 一方高橋洋子さんは、銅版画という彼女の本質を最もよく示す作品群を出品。高橋さんの作品はカラスの死骸や、不気味な卵のようなもの、あるいは動物の頭蓋骨をモチーフにしたもので、暗く重苦しい作品である。しかし、様々な技法を駆使した緻密な版画世界は無条件に美しく、見る者の心を浄化する。
 あまりに対照的な作風を持った二人である。関根さんの大胆さに対して高橋さんの繊細さ、関根さんの胸騒ぎのするような〝動〟に対して高橋さんの暗く沈んだ〝静〟、関根さんの美術からの逸脱に対して高橋さんの美へのこだわり……といった具合である。
 その指向性も異なりを見せる。関根さんの作品タイトルはいつもの〈原生〉であり、彼が目指すものが始源の生命だとすれば、高橋さんの見据えるものはそれとは逆の終末論的な世界である。
 かくも対照的な作風のぶつかり合いもまた、VS展ならではのものと言えようか。


新潟の美術家たち展Ⅵ―きらめき合う個性、共振する響き

2017年04月01日 | 展覧会より

12人の作家によるグループ展は、12の個性がぶつかり合いながら、会場全体には不思議な調和があった。グループ展とはいえ一人一人のスペースはかなりになる。巨大な作品やインスターレーションなど一点扱いのものだけでなく、複数点出品するにしても一つのまとまりとして、見方によっては一点と呼べそうなものもある。それだけ構想に時間をかけていたであろうことを想像させる。

第一室から。この会の発起人でありリーダー格の長谷部昇は、何層にも塗り重ねたキャンバスを削る、という手法で終末的な光景を描き出す。黒い画面から赤錆色が現れてくる作品が多い中、黄褐色の画面に刻線が縦横に走った作品が印象的だった。
赤穂恵美子は絹や麻の白生地に染色するという手法で、揺らぎ変容する光と水を表現してきた。古来からの手仕事を伝えながら、無限の色彩を含んだ宇宙空間を思わせる。
阿部敏彦の「シミにインスピレーションを得て描き出された」幻視の像は、いよいよ「時間」を内在化させるようになった。ペインティングナイフを自在に使い色彩とマチエールに磨きがかかる。

初参加、新発田市のカルベアキシロは大地を思わせる色や質感で「根源的なるもの」を追求する。古代の洞窟壁画を思わせる。そこには地霊も宿っているのだろう。
高橋洋子は様々な技法を駆使する多才な人だ。今回は工芸的な板絵を出品している。しかし「銅版画家」の矜持は見失わせない。自身の銅版画作品もコラージュしながら人間の内面に潜む悪や毒を美しい画面に仕立ててしまう。
霜田文子は卵の壊れやすさ、孤独感を油彩「風の卵」シリーズとして描き続けている。そこでは、壊れるだけではなく絶えず壊れては生まれる生命のダイナミズムをも表現しようとしている。


もう一人、初参加の佐藤美紀は大胆な色と構図で圧倒する。自動記述かと思わせる、スピード感あふれるストロークのような筆遣いに絵画の原点を見る。
松本泰典は今年も会場に合わせた巨大な絵画を出品した。根っこと立ち上がる木や新芽は、一貫したテーマでもあり、それが作品の大きさと呼応し、観るものに説得力を持って迫ってくる。
金川真美子は眠っていた古い布を丹念につなぎ合わせたタペストリー。一見パッチワークのようだが、無作為に接ぎ合わせることによって意想外の効果を生む。そして祖母の、先祖の脈々たる歴史をあぶり出すのである。
酒井大はプロ写真家として魚沼の自然や人を感性豊かに撮り続けている。雪の中の木々を縦構図に切り取った写真に暖かさと厳しさを見た。展示方法にも注目したい。
「出身地豊栄の福島潟に対するイメージを布の暖かさを使い表現しました」という簡単なメッセージが添えられた竹石莉奈の作品であるが、これほど簡にして要を得たコメントはないのではないか。柔らかく染められた布に細やかなステッチ。包み込まれるような優しさを醸し出す。
本間恵子は昨年に続き、洋服の接着芯を使った人体を林立させる。直立した人体の、(描かれていないはずの眼の)透徹した視線の先を思わず追いかけてしまう。
制作とは実に孤独な作業だ。どんなテーマであろうと畢竟自分と対峙することに他ならない。しかしそれぞれが独自に問い続けたものが集まったとき、自ずと時代や社会や環境が立ち現れてくる。あえてテーマを設けているわけではない。集合展の魅力でもあるだろう。