ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

肉体と魂を描き切る―エゴン・シーレ展を観て(2)―

2023年02月13日 | 展覧会より


   自分を見つめる人Ⅱ(死と男)(1911年)

《自分を見つめる人Ⅱ》は死に神を背負った自画像である。さらにその二人とは別の腕がそれらを覆っている。何処まで分裂するのだろうか。シーレが描いた自画像は170枚とも200枚とも言われている。その多くは裸になって、鏡を見てポーズをとったものだ。時にはナルシスティックに。時には自分を痛めつけるように。性器もむき出し、自慰行為さえ描く。とても自意識からだけとは思えない。徹底的に自らを曝し、無意識の自我までもむき出しにする。こうして自身でも制御できない自我が、分裂した身体となって出現するのだろう。
 ところでオーストリア・ハンガリー帝国の首都として爛熟した文化を誇っていた世紀末ウィーンとは、言いかえれば、いつそれが崩壊してもおかしくない臨界状態でもある。ホフマンスタール、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、シェーンベルク、カール・クラウス・・・改めて煌めくばかりの才能の出現に驚かされるのだが、彼らもまたその危機が生み出したとも言える。そして当時、ほとんどの芸術家が多かれ少なかれフロイトの影響を受けていたという。自分でも制御出来ない、無意識の領域をシーレがどれほど意図的に探っていたかは不明だが、そこには自身の不安と時代の不穏な気配とがシンクロしていたのではないだろうか。若くして父や身内の死に接し、死はいつも身近にあったという。しかも第一次世界大戦前夜、ヨーロッパの心臓部であるウィーンのざわめき。そんなウィーンの光と影を、シーレは極めて個人的な、一人の人間の中に照応させたのではないだろうか。1910年前後の作品には鬼気迫るものがある。


   抒情詩人(1911年)

《抒情詩人》は、身体こそ単独像だが、不自然な首の傾き、両目の視線の方向や表情の違いには、今にも分裂しそうな危うさがある。


   啓示(1911年)

一方、《啓示》(1911)は聖職者のような二人の人物に、半裸の男が身を屈めて向かっていく。自身の言葉に拠れば偉大なる人物にその男が感化され溶融されていくのだという。常に分裂の危機に瀕しているシーレの、何かにすがり、支えられ、自己が統一されることへの願望を表わしているのだろうか。そうした苦悶のうえでもなお彼が追求するのは「美」だ。「醜」なるものまでも凝視した上での「美」。僅か20歳そこそこで、明らかに自覚的にそれを行使している。恐るべき才能だ。
ところで先に坂崎乙郎の言葉を引用したが、それはルノアールが女性には頭脳は要らないという暴言と共にある。シーレは女性像にもちゃんと苦痛や快楽を込めていたということだ。もちろんそれは現代的な意味での女性尊重ではない。ただ確かにシーレは女性もまた多面的な人間として描いていたように見える。冒頭のポスターは、当時の恋人・ワリーの肖像と対になっている。出品されてはいないが、そこには心身共に苦しい時期のシーレを支えたワリーが、優しく穏やかに描かれている。一見、シーレの自画像と全く対等に見える。だがそれはシーレの願望なのではないか。彼が描いた他の女性像を通してみるとき、それは実は自画像と変わりがないのではないかと思うのである。女性モデルのポーズも、痛めつけ、ねじらせ、よじらせ、苦悶させる。それは自画像と同じであり、その苦痛や快楽を共有しつつ描こうとしていたのではないだろうか。それは分身たちなのだ。モデルと性的関係を持つことは当時一般的なことだったが、シーレの場合、とりわけ肉体と魂の一体化でもあったように思う。なんという不遜で、卑俗なことか。しかしそこまで徹底することによってはじめて「醜」は「美」に転化するのだ。


   母と二人の子どもⅡ(1915年)

《母と二人の子どもⅡ》は不思議な作品だ。ピエタ像を思わせるが母親の顔はまるで髑髏か死に神だ。ほとんど亡霊のような子どもと、カラフルな洋服を着た子どもという対照的な二人の幼児。常に死を身近に感じていたシーレはそれを母に、子供たちを分裂した自己として表わしているのではないだろうか。いや、そうとしかならなかったのではないか。このように宗教画の形を借り、母子像を描きながらも、シーレは自分しか描けなかったのだ。それだけではない。風景までも自身の危機や不安の置き換えではないだろうか。

さて、第一次世界大戦が勃発し、1915年結婚直後に徴兵されたシーレであるが、制作は続けられる環境にあったという。そして翌年ウィーンに戻ると、その後は作品が認められ生活も安定したという。しかし1918年、スペイン風邪で妻が亡くなった三日後に、自身も亡くなった。


   《横たわる女》(1917年)


   《しゃがむ二人の女》(1918年)

早すぎる晩年の作品である。確かに技術はしっかりとしている。かつての繊細さと危なっかしさの裏返しのような強さではない。《叫び》などで表現主義を代表するムンクの、晩年の作品が頭をよぎってしまった。しかしもし彼がもっと生きていたら、と考えるのはよそう。分裂するほどに自己を突き詰めた彼の自画像は、表現主義を超えて、唯一無二だ。






肉体と魂を描き切る―エゴン・シーレ展を観て(1)―

2023年02月09日 | 展覧会より


 東京都美術館で開催中の「エゴン・シーレ」展を観た。実は私はシーレの作品をあまり観ていない。俯瞰的な視点からの人物像、官能的な女性像などの印象は強烈だが、同時に挑発的とも言える作品は、若さのなせるところにも思え、きちんと向き合ったことがなかったのだ。1890年に生まれ1918年には亡くなるという短い生涯で、常に挑むような作品を描き続けた作家には、未完あるいは途上というイメージがあり評価しかねていた。28歳といえば、日本の青木繁も同じ年齢で亡くなっている。共に夭折が惜しまれるが、青木にはすでに完成した作家という安定感を感じるのも、その作風の違いのせいだろう。


     (参考)死と乙女(1915年)


     モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)(1914年)
     
 
 今展は、世紀末から20世紀初頭のウィーン美術を中心に集めたというレオポルド美術館の所蔵品展である。オーストリア・ハンガリー帝国の混乱と凋落の中、ヨーロッパ全体に新しい芸術が胎動し、伝統的で保守的な芸術への文化的抵抗がウィーン分離派や、さらに新たな潮流を生み出した時代だ。おそらく最も有名な《死と乙女》こそないけれども、シーレを特徴づける作品と、それを取巻く同時代の作家の作品は充実している。圧倒的に人物画が多い中、初めて見た風景画は何処かファンタスティックで静かな情感を湛えていた。また、時代の寵児クリムトに心酔しながらも、その影響が希薄だったことがずっと疑問だったが、年代順に概観することができ、作風の変遷もわかりやすかった。


     頭を下げてひざまずく女(1915年)

 油彩画はしなやかな曲線と繊細な色使いながら、筆の運びは迷いがなく、こしの強い太い筆でぐいぐいと塗り込んでいる。思っていた以上に荒々しく、強靱で、意志的だ。人物ドローイングでもクリムトとの違いが明快だ。必要最小限の細く柔らかな線で対象の最も表現したい部分を一瞬にして捉えたクリムトと、強く途切れることのない線で難しいポーズを捉え切るシーレのデッサン。さらにそこにはモデルの激情までも込められている。それは1911年頃からいっそう明確になっている。この頃、ドイツ表現主義展に参加したり、ゴッホの《ひまわり》からインスパイアされた絵を描いており、シーレの志向に少なからず影響を与えたようだ。その作風はクリムト等の象徴主義に対して、オスカー・ココシュカと共に、オーストリア表現主義といわれている。このオーストリア表現主義というのを私はよく分からないのだが、そもそもドイツ表現主義にしても絵画区分としては印象が薄いのは、じきに抽象表現主義や超現実主義が現れ埋没したように見えるからだ。とはいえドイツ表現主義とも異質だ。目指すものが違いすぎたのではないか。ただ「表現主義=Expressionism」は「印象主義=Impressionism」に対立して現れた概念であり、その点では内面表現へと向かったシーレを、少なくともクリムトと分ける区分とはなるのだろう。
 またドイツ表現主義の作家たち、特にキルヒナーと比べてみると、その身体表現や色彩感覚が桁違いに優れている。キルヒナーの内面の不安は時代に連動し、それを表現したいがために絵画的表現は二の次になってしまったように思える。作品としての共感を得ることは難しい。シーレがそれに与しなかったのも当然だろう。彼は極めて個人的な人間の内面に迫ると共に、それを持った身体にも同様の価値を認めていたのだろう。さらにどんなにグロテスクであっても、陶酔するような美をそこに見出そうとしていたのではないだろうか。そうしたシーレの特質を最もよく表わしているのが自画像だと思う。今展でも彼の独自性を強烈に印象づける優れた自画像を見ることが出来た。かつて坂崎乙郎は「ルノアールは肉体しか描けなかった。シーレの自画像は苦痛に満ちている。肉体と魂を共有する人間を描いている」と言ったが、これほど突き詰めていては肉体と魂を共有しきれないのではないか、と言う予感は果して当たっていた。(続く)