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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

18日、舟見先生がギャラリー・トーク

2019年05月21日 | 游文舎企画

初日の18日にはギャラリー・トークが行われ、新潟・上越・柏崎などから30人ほどの参加者があり、舟見先生のお話をお聞きすることが出来ました。詳しい内容は別途用意する予定ですが、戦時中に戦闘機の絵を描いたという逸話から、戦後芸大に1年間内地留学され、それが今日までの先生の活動の原点となっているというお話、また具象から抽象への転身、油絵から版画(シルクスクリーン)への転換についての体験談などの貴重な内容でした。まさに新潟県戦後美術の生き証人ともいうべき舟見先生の証言をお聞きすることが出来ました。
トークの前に昨年10月ご自宅でのインタビュー映像も流されました。新潟市の茅原登喜子さんの制作によるDVDですが、会期中会場で見ることができますので是非游文舎まで足を運んでください。よろしくお願いします

高橋洋子・霜田文子二人展「既視から未視へ」(続)

2019年05月03日 | 展覧会より




以上は高橋洋子の作品。

高橋洋子も霜田文子も、一方は版画、一方は油彩の違いはあるが、どちらも気味の悪い卵のようなものをモチーフとすることがある。卵を体内に持たない男性には思いもよらないモチーフであって、それは内臓感覚をとおして捉えられた「心にひそむ闇」なのだ。男性には到底表現不可能な領域であり、この二人展はそのような世界を執拗に見せつけてくる。
「心にひそむ闇」は二人に共通する要素である。高橋洋子はカラスの死骸や動物の頭蓋骨をモチーフにすることもあり、霜田文子の卵は始原的な気味の悪さのようなものを漂わせている。二人とも極めて内向的な作家であり、内向的であること自体が、暗いもの、気味の悪いもの、まがまがしいものを要求するのだと言ってもよい。
二人の違いは二人が追求する時間軸の相違にある。高橋洋子の作品はいつでも死のイメージに支配されていて、そこには終末論的な世界観が感じ取れる。一方、霜田文子の原始のスープに漂う卵たちは、始源の生命のイメージを持っている。だから二人の世界観は違う方向を向いているように見える。
しかし、終末論的なイメージも始源論的なイメージも、どこかで通底している部分があり、二人の世界観にそれほど大きな違いはないのかも知れない。霜田文子にとって始源の生命のイメージが必ずしも肯定的に捉えられてはいないからである。それらの作品が一貫して、ドイツ語で無精卵を意味する〝風の卵〟と名付けられていることにその理由を見出すことができる。
 高橋洋子の死屍累々たる終末のイメージも、霜田文子の生命を孕むことのない卵の増殖という始源のイメージも、結局は世界に対する拒絶の意志を共有しているのである。高橋洋子は終末的な死を希求し、霜田文子は始源的な死を希求している。
(游文舎企画委員 柴野)