以上は高橋洋子の作品。
高橋洋子も霜田文子も、一方は版画、一方は油彩の違いはあるが、どちらも気味の悪い卵のようなものをモチーフとすることがある。卵を体内に持たない男性には思いもよらないモチーフであって、それは内臓感覚をとおして捉えられた「心にひそむ闇」なのだ。男性には到底表現不可能な領域であり、この二人展はそのような世界を執拗に見せつけてくる。
「心にひそむ闇」は二人に共通する要素である。高橋洋子はカラスの死骸や動物の頭蓋骨をモチーフにすることもあり、霜田文子の卵は始原的な気味の悪さのようなものを漂わせている。二人とも極めて内向的な作家であり、内向的であること自体が、暗いもの、気味の悪いもの、まがまがしいものを要求するのだと言ってもよい。
二人の違いは二人が追求する時間軸の相違にある。高橋洋子の作品はいつでも死のイメージに支配されていて、そこには終末論的な世界観が感じ取れる。一方、霜田文子の原始のスープに漂う卵たちは、始源の生命のイメージを持っている。だから二人の世界観は違う方向を向いているように見える。
しかし、終末論的なイメージも始源論的なイメージも、どこかで通底している部分があり、二人の世界観にそれほど大きな違いはないのかも知れない。霜田文子にとって始源の生命のイメージが必ずしも肯定的に捉えられてはいないからである。それらの作品が一貫して、ドイツ語で無精卵を意味する〝風の卵〟と名付けられていることにその理由を見出すことができる。
高橋洋子の死屍累々たる終末のイメージも、霜田文子の生命を孕むことのない卵の増殖という始源のイメージも、結局は世界に対する拒絶の意志を共有しているのである。高橋洋子は終末的な死を希求し、霜田文子は始源的な死を希求している。
(游文舎企画委員 柴野)