東京国立博物館平成館で開催中の「縄文 一万年の美の鼓動」展は、入場制限がかかるほどに混み合っていた。それでもメインの、国宝6点が並ぶセクションは、広々とした空間をとってゆったりと配置され、前後左右からじっくりと見ることが出来た。その中でも目玉は十日町市笹山遺跡の火焔形土器。だが、「あれ、小さい」というのが正直な印象であった。たぶん観客の多くがそう思ったのではないか。展示されていたのは、同遺跡の火焔形土器国宝一号、通称「雪炎(ゆきほむら)」より一回り小さいものである。(こちらは大地の芸術祭に合わせて地元で展示されている。)しかしそれだけでなく、チラシやポスターの写真に惑わされていたのかも知れない。もちろんがっかりして、ということではない。極めてバランスがよく、伸びやかで堂々としていて、広い会場の空気を凝縮して取り込んでしまうような、抜群の存在感を放っていた。
もう半世紀以上も前になる。1964年、一巡目新潟国体の聖火の炬火台は、火焔土器をイメージしたものだった。火焔土器のことはこの時初めて知ったのだが、小学生ながら、「美」という範疇からははみ出る異様な形態にもかかわらず、心打たれるものがあるということを漠然と感じたのだった。以来、縄文=新潟=火焔(型)土器(長岡市馬高遺跡出土品だけが火焔土器、以降の出土品は火焔型土器と称する)と刷り込まれることになった。
そのせいだろうか、縄文の土器や土偶が国宝に指定されたのは平成になってから、というのはちょっと意外な感がする。馬高遺跡が発見されたのは1930年代、岡本太郎が縄文の魅力を「再発見」したのは1950年代のことだが、それからずいぶんと間があったのだ。しかもその数は、文化財全体から見ると決して多くはない。だが1980年代から90年代にかけて発見された信濃川流域の火焔型土器が、岡本太郎の言うような縄文のエネルギーをさらに裏付けたのは間違いない。今展で、十日町市野首遺跡火焔型・王冠型土器が十二個並んでいたのは圧巻だった。
一口に縄文と言っても、約10,000年の幅がある。土器や土偶を中心に、多様な文様や形があるのは当然だし、ダイナミックで、神秘的な一方で、とても繊細だったり、幼い子への愛情など、現代人にも通じる感情を表現したものもある。だが、それらを前にしてほとんど語ることの出来ない自分がいた。ただ圧倒された、というのとは違う。アール・ブリュットの作品を見たときも、言葉を失った。どちらも「作品」として意識的に作られているわけではないからだ。だが、評価されることを意識していないアール・ブリュットとは違って、縄文の作者たちはおそらく、集団の中でよく出来た、などと褒められたりもしていたのだろう。だからある基準に従えば、よいもの悪いもの、という評価も出来るはずだ。それでも頭の中に茫漠とした世界が広がっていくようで、いよいよ言葉は遠のいていく。それはたぶん、それら小さな土器や土偶にあまりにも多くのことが込められているせいではないか。超自然現象も、生命を脅かすものも生きながらえさせるものも、生活の全てと一体となり、道具もまたその一環として切り離すことの出来ないものであり、単独に土器や土偶を語ることなど不可能だからではないか。
この展覧会には同時期のユーラシア大陸各地の土器類との比較コーナーもある。すでに文字を持つ地域や都市国家もあり、シンプルで実用的な土器類など、陶工がいて工業生産をうかがわせる地域もあった。しかし文字を持たない縄文人にとって、濃密な装飾が施された土器とは集団の心をつなぐもの、記憶をとどめる記号のようなものではなかっただろうか。私はかつて、用の美を遙かに超えた火焔型土器は実用ではなく祭祀用とばかり思っていたが、ちゃんと煮炊きに使っていたというのも畏怖や祈りと生活が一体だったからだろうし、作り手は女性というのは盲点だった。確かに土器つくりは女性の仕事だったはずだが、現在の、美術工芸品としての感覚からつい「力強く男性的な」といいたくなるのだ。そういえば有史以来美術品や造形物の作者はほとんど男性だったのだから。我々がそこで感動するのは「快」がもたらす「美」ではない。命がけの生活の中でこそ生れた造形、それらの背後にある、畏怖や畏敬が生み出す緊張感がもたらすものではないだろうか。(霜田文子)