ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

ジャコメッティの謎(2)

2017年08月29日 | 展覧会より

 ジャコメッティの彫刻作品についてまず思いをめぐらせてみる。それが誰にとっても「見える通りに」作られていないことは一目瞭然であり、ならば「見える通りに」を「私に見える通りに」と言い換える必要があるだろう。
 ジャコメッティのものの見方が一般とは違うのではないか。つまりは対象に対して何を見ようとするかという、基本的なところが違っているのだとしか考えられない。
 たとえば、ジャコメッティが対象となる人物の中に、その〝本質〟を見ようとしたのだと考えることもできる。しかし、本質とは何か? 本質とは言語によって分節化された事物や事象を規定する普遍的な概念であって、高度に抽象的なものである。
 ジャコメッティの細長い人物像は、ほとんど表情というものをもっていないし、肉体の固有性も、人物としての固有性すら失われている。だからそれを抽象的な作品と呼ぶこともできるのだが、ではなぜジャコメッティはモデルに拘ったのだろう。
 モデルを長時間坐らせ続け、少しでも動けばすべてが台無しになったとでも言うように、悲嘆の声を上げたのはなぜだったのだろう。それはモデルに対して人間としての普遍性を求めてなどおらず、そのモデルの固有性を追究するためだったとしか思えない。
 そのことは《モデルを前にした制作》のセクションに展示された、弟ディエゴの胸像を見ていると理解されることである。それらの作品は明らかに、夕暮れ時の影のように引き伸ばされた人間の像とは違っている。ディエゴの像はジャコメッティが創造した規範に従いつつも、対象の個性というものを写し取っているではないか。
 ではジャコメッティは抽象的な本質と、個別の本質という二重の規範を打ち立てたのだろうか? そしてジャン=ポール・サルトルが「ジャコメッティは実存を描いた」と言うときの実存とは、どちらのケースに当て嵌まるのだろうか。そもそも個別の本質などというものが存在するのだろうか。
 サルトルは「実存主義はヒューマニズムである」で、「実存は本質に先立つ」という有名なテーゼを残しているが、ジャコメッティは本質をではなく本質に先立つ実存を形象化したのだろうか。
 サルトルの思想が破綻して以降、今日では〝実存〟という言葉はほとんど使われなくなったが、サルトルが言っていることの意味は分かる。本質とは言語の文節機能が生み出す規範(モデル? 典型?)としての概念であり、それはいわば〝制度〟の中に置かれる。それに対して実存は、なにものでもないものとしての存在を意味し、一回きりの固有の存在を意味している(サルトルは神が創り出した規範としての本質と、無神論的な実存とを対比させているが、私は神を持ち出さずに言っている)。
 そこにサルトルのいう実存主義の要諦はあったし、サルトルはジャコメッティの作品の中に自分の思想を裏付ける証拠を見ようとしたのだと言うことができる。
 本当にでは、ジャコメッティはサルトルの言う実存を指向していたのだろうか。確かに〈犬〉という、人物像ばかり作っていたジャコメッティにとっては例外的な作品を見ていると、そこには作者によって感情移入された老残の犬がいて、ジャコメッティはその犬の固有の存在を追究しているのに違いないと思わせる。
 まさに実存的な犬、あるいは存在論的に創造された犬とでも呼ぶしかないそれは、怖ろしい作品ではあるが、ジャコメッティにとってはあくまで例外的な作品なのだ。人物がそのような相貌のもとに形象化されたことはない。


 ところで私は、まだ彫刻以外の作品について触れていない。私が見たかったのはジャコメッティの油彩作品だったので、今回それが二点しか展示されていないことに失望を覚えた。
 でも〈マルグリット・マーグの肖像〉と一点の風景画に、ジャコメッティの彫刻とは別の〝規範〟を見る思いがした。マルグリットは正面を向き、手を組んで座っている。こんな変哲もないポーズの肖像画をジャコメッティはなぜ描いたのか。
「見える通りに」描くために、モデルが長時間一定のポーズをとり続けるとしたら、このポーズ以外他にあり得ない。しかし、こんなポーズではその人間の個性や実存など描きようがないではないか。
 そしていつものように、顔はいくつもの黒い線でつぶされていて、まるで黒人の肖像画のようだ。あるいは〝亡霊のような〟と言ってもよい。背景はグレーの絵の具でぞんざいに描かれているから、ジャコメッティの彫刻家としての視点はよく理解できる。背景はほとんど意味をなしていない。
 ところがこのグレーを基調としたいい加減な背景が、亡霊を出現させるための舞台装置となる。顔を黒くつぶされたマルグリットはそこに亡霊のように座っている。リアリティを欠落させた背景の方が、亡霊の舞台として相応しいのである。
 顔が無数の線で描かれると言うよりは、破壊されていくさまを我々は矢内原伊作の肖像デッサンに見ることができる。この線はいったい何なのだろう? 
 真実を確定させるために引かれる無数の線の試行錯誤の軌跡とでも言えばいいのだろうか。とにかくジャコメッティという人は作品の完成を目指そうとしない。それは多分、自分の行為が不可能に向かっての無益なそれであることを自覚していたからなのであろう。
「見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが、私には到底不可能だということを知っています」という言葉はそのように理解されなければならない。
(この項おわり)

ジャコメッティの謎(1)

2017年08月28日 | 展覧会より
 国立新美術館で「ジャコメッティ展」を観た。アルベルト・ジャコメッティの彫刻作品や油彩作品は、断片的にいろんなところで見てきたが、おそらく私が生きている間では、日本で最後の大規模なものとなるだろう展覧会を観に行かないわけにはいかない。
 主催者挨拶にジャコメッティの有名な言葉が引用されていて、まずこの言葉が観る者を混乱させる。

「ひとつの顔を見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが、私には到底不可能だということを知っています。
にもかかわらず、これこそが私が試みている唯一のことなのです。」

 この「見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンする」という言葉が、いわゆるリアリズムの教えるところを言っているのではないということは、ジャコメッティの作品に触れたことのある人間ならば、誰でも理解できることである。
 では、リアリズムの教義を離れたときに「見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンする」ということが何を意味しているのかという問題になると、ほとんど誰もそのことに答えることができない。
 第一に人体を見るときに、それがあの実際の5~10倍も細長い形に見えるわけがない。夕暮れ時に出現する長い影としか見えないではないか。しかし、影は実体ではないが、ジャコメッティの造形は実体として自己自身を主張している。
「見える通りに」ということがどういうことなのか、作品を見ていくうちにどんどん分からなくなっていくというのが、「ジャコメッティ展」を観る体験そのものとなる。
 会場に入って最初に〈大きな像(女・レオーニ)〉という作品が置かれている。高さ167㎝に対して幅は19.5㎝しかない。これがジャコメッティなのだ。ジャコメッティは20世紀の彫刻の〝規範〟(基準?、標準?、モデル?、典型?)を創ったが、今日に至るまで誰もそれを超えることができていない。
 それをジャコメッティの強烈な個性に帰することはできる。しかし、それが「見える通りに」彫刻されたものだとしたら、それは個性の範疇を超えるものであって、だから私は〝規範〟という言葉を使わざるを得ない。
 ジャコメッティの1901年から1966年の生涯にわたる作品を通鑑しようということだから、初期のキュビズムの時代あるいはアフリカのアルカイックな彫刻に影響された作品も展示されているが、ほとんど興味を喚起しない。このようなものならマックス・エルンストの方がもっとうまくやった。はっきり言ってつまらない。ジャコメッティがジャコメッティになっていないのだ。
《小像》のセクションで、観る者はとんでもないものに遭遇することになる。3.3×1×1.1などという、爪楊枝のような作品もあって、到底肉眼では細部が分からない。
 しかし、これがジャコメッティが対象を見るときの距離の取り方に還元されるのだという解説を読めば、「見える通りに彫刻し」ということがある程度は理解される。
 対象との距離ということがジャコメッティにとって重要なことだったということは分かっても、それらがほとんど作品として意味をなしていない(よく見えないのだから)ということは指摘されなければならない。
 ならば「見える通りに」とは何を意味しているのか? 「ジャコメッティ展」を観る者は、これから彼の彫刻だけではなく、デッサンや油彩作品を見ていくことになるが、そこで解答を見つけることができるのだろうか?(柴野)

「ジャコメッティ展」(国立新美術館、2017年6月14日~9月4日)

多和田葉子氏講演会「言葉と歩く日記」

2017年08月16日 | 游文舎企画
8月5日「游文舎9周年記念多和田葉子氏講演会」が行われた。演題の「言葉と歩く日記」は、2013年に刊行された岩波新書のタイトルにちなんでいる。同書はある一定期間、言葉について考えたこと、感じたことをまるで自分自身を観察するようにつけていた日記であるが、ドイツに在住して35年、日本語とドイツ語で創作を続ける作家は、常に言葉について考え、耕し続けている。そして単に創作やコミュニケーションの手段にとどまらない、個人を超えた歴史や思考を持つ言葉、世界への目を開いていく言葉について縦横に語った。また、会場からの質問を楽しむかのように、たくさんの質問に一つ一つ丁寧に答えていた姿が印象的であった。


〈リービ英雄氏とエクソフォニー〉
最初に多和田氏は、柏崎でも2014,15年に講演や対談をされたリービ英雄氏について語った。多和田氏の著書で知られる「エクソフォニー」とは、母語の外に出てみること。母語以外の言語で文章を書くことを言う。多くは政治的理由で、しかも大きな国に逃げてきた小さな国の人が、大きな国の言葉で書くという、力関係の中で起きていた。しかしリービ氏は、個人的選択で日本語を選んだ。しかも私小説を書く。だが日本語と一体化したいという思いが強ければ強いほど、ずれが生じる。日本語の中に隠された異物が混入する。それが一律的な日本語とは異なる、多言語としての日本語を生み出していると言う。
自身は1982年、ドイツに渡った。日本人でなければ日本語で書けないと思われていた日本語文学と異なり、ドイツ語文学はドイツ人でなくても書かれてきた。また、オーストリアのようにドイツ語圏であっても方言が強く、書き言葉と話し言葉の距離があるところの文学に、かえって実験性があると、氏は言う。
また、詩や小説よりも哲学的エッセーや戯曲のドイツ語から刺激を受けてきたとも言う。
例えばベンヤミンのドイツ語。言葉が立ってきて、それに刺激されてどんどんいろんな思想が沸いてくるという文章。あるいはフロイト。患者の病気や、見た夢の話など、小説以上に面白いと言う。フロイトの思想はドイツ語からしか生まれてこない、むしろ言葉そのものから思想が生まれてきたのではないかと言う。
 そこから氏は、言葉とは、考えていることを表現する道具として使っている限り、私たちの思考や感覚のスケールを超えることは出来ない。言葉とは自分よりもずっと大きなもの、今生きていない人の知恵が含まれている。だから自分が言葉と対話する、言葉から学ぶ、言葉と一緒に書いていく、そのようにしていきたいと語った。

〈ドイツ語との出会い―日本語が解体されていく〉
ドイツ語を読んでいると平たく流れるのではなく、それぞれの単語が立ち上がってくる感じだという。ストーリーだけでなく個々の単語の面白さも考えられる。また読むスピードが遅くなることで全く違ったテクストとして現れてくる。さらに自分と言葉とのズレ、自分=日本語ではないという意識を持ち続けるのだという。
一方、周囲のドイツ人から日本語について「この字面白いね」等と言われると、急に日本語が遠く感じられることがあるという。また以前なんとも思わなかった単語が気になり始めたり、「ふと」「思わず」のように、よく使っていて疑問に思わなかった単語が、ドイツ語でそれを説明できないことに気づいたと言う。
その上で氏は、自分のずっと使っていた言葉、小説の言葉が解体されていって、当たり前のものとして共有されていたことがあたりまえでなくなる、この体験は小説家、詩人は誰でも必ずやってみるべき事だと言う。それは日本文学史をみても、たとえば紫式部は男言葉である漢文も学んでいて大陸の文学を知っていたし、渡来人・山上憶良の歌も収めた万葉集はエクソフォニーの詩集ということになる。また谷崎潤一郎は英文学を原書で読み、日本の古典を現代語訳し、関西弁でも小説を書いた。今の時代の今の日本語だけしか知らないで小説を書けるのか、と疑問を投げかけた。

〈ジェフリー・アングルス氏と「翻訳の不可能性」〉
 次いで、アメリカ人で近年日本語の詩を書いているジェフリー・アングルス氏の詩「翻訳について」を紹介した。ここでは外国語との関係が、まるで恋人のように実に官能的に書かれている。もう一つの言語と一体になることで完成した人格が出来る、自分の言葉だけで書いているのは半分に過ぎないととらえているのだ。その詩―「言語は違うが、なんとなく通じ合うらしい」「思い出を語ると違う人の記憶に聞こえてしまう」・・・ここには翻訳の不可能性が描かれている。
 たとえば、ありふれてはいるがその国独特のものを、読み手の国でよく知られているものに置き換えるか、そのまま外来語として使うか。氏も、ドイツ人が訳してくれた日本語詩で、みそ汁が鶏のスープになり、畳がじゅうたんになり、自分の思い出なのに違うイメージに思えたと言う。
もうひとつ、アングルス氏は子供の頃の思い出も書いている。多和田氏は、初めてドイツ語の散文を書いたとき、日本語では書いたことのない、幼年時代の思い出がすらすら書けたと言う。母語を習得するとは、同時にタブーを内在化することだと言う。それが外国語で書くとタブーが消えてこれまで書かなかったこと、書けなかったことが書けるのだと言う。
『雪の練習生』は、三世代のシロクマの目を通して冷戦時代から現在までの世界を語る、日本語で書かれた小説だ。初めて自作翻訳にも挑戦した。しかし一度日本語で書いた小説を翻訳するということは、創作よりももっと難しいのだと言う。言いたいことはわかっている。しかし小説は「言いたいこと」ではない。その言葉の表現で、いかに物語として展開していくか、だからである。言葉についてとりわけいろいろ考えなければならなかった、この時期に書かれたのが『言葉と歩く日記』なのである。

〈多言語によって、情報が流れ出す〉
日本人はとかく県単位で物事を考える。だから原爆や原発事故もその県の問題としてとらえがちだ。しかし多和田氏は県境にどれだけの科学的根拠があるのか、と問いかける。ヒロシマもナガサキもフクシマも、ドイツ人にとっては日本どころか世界の問題と見ている。海は世界中つながっているのだから。日本語だけだと情報は限られる。英語でもアメリカ発の情報であり、ドイツ語で流れている情報とは異なる。巧拙にかかわらず、三,四カ国語くらいは使ってみたり、話しかけてみたりして、言語に向かって頭を開くべきだ。エクソフォニーとは単に言葉の実験ではなく、海水のようにいろいろな方向に情報が流れ出すことなのだと、力を込めた。

〈二つの言語によって分かれた人格が、言語によって再び有機的に結びつく〉
多和田氏の中身の濃い講演に呼応するように、参加者からも多数の質問が寄せられ、言葉を巡ってさらに展開していくという、熱のこもった講演会となった。
その中で「死刑がないのがヨーロッパのアイデンティティー」と言う一方で、難民受け入れに対して「ヨーロッパが本当に一つになるには、非ヨーロッパをどれだけ入れるかについてひとつになること」と、ヨーロッパの今を切り取ってみせた。
また「好きな劇作家は?」と問われ、旧東独のハイナー・ミュラーを挙げ、「人と人のドラマというよりはいろんな場所からいろいろな声が聞こえてくる。芝居というより詩のよう」と言い、彼が日本の能に関心を持ち、自分も能を好きになったこと、それは「日常とは全く違うところから声が聞こえてきたり、ごく遅い動きや声によって、日本語が解体され、空気の振動のようになり、肉体の動きと呼応しているから」だと語った。
特に、デビュー当時の“失語症”のような状態から、現在までについて問われ、「日本語と全く違う言葉の世界に入り、しかも半年くらい日本語を話さず、突然これまで話していた日本語が全て壊れていくような気がした。その後日本語が戻ってきた時も、ドイツ語を覚えて少しずつ積み上げていった自分と、前の日本語の自分とをつなぐ橋が全くなくて、まるで二人の人間のようだった。それが何らかの形で少しずつ有機的に結びついた。それは言葉による作業によってだった。」という答えには戦慄を覚えた。

〈講演会余録―南魚沼市を訪ねて〉

牧之通りにて

翌6日、南魚沼市を訪れ、塩沢歌舞伎保存会の太田会長らのご案内で鈴木牧之記念館を見学し、牧之通りを散策した。多和田氏が講演会でも紹介していたように、2011年1月、ここで『北越雪譜』を元にしたドイツ映画が撮影されている。独訳『北越雪譜』に関心を持ったウーリケ・オッテンガー監督を助け、多和田氏も撮影に参加していたのだ。塩沢歌舞伎保存会の協力で雪中ロケや、かやぶき民家や古い民具、遊びなども撮影することが出来た。作品『雪に埋もれて』はドイツで好評を博したものの、残念ながら日本語版が出ておらず、日本では上映されていない。日本語版を作っていただき、ぜひ南魚沼市や柏崎市で上映したいと、全員の意見が一致した。いつか必ず、上映会を開催するつもりでいるので、今後とも見守っていただきたい。(霜田)

ベルリン・ドレスデン・プラハ紀行(4)

2017年08月12日 | 旅行
プラハの、どこをどう歩いたのだろう、私は。
旅はいよいよ最後、そして一番の目的地・プラハだ。しかし、自由時間は旅行社の手違いもあり数時間だ。あまりにも時間が少ない。思い入れがありすぎた。旧市街広場に立ち、呆然とした。どこをどう歩けばよいのだろう、私は。しかししばらく周囲を見回しているうち、とにかく歩き回りたくなった。歩き回れそうな気がしたのだ。なんだか既視感がある。15世紀のものという、世界最古のからくり時計の10時の時報が鳴った。死神の骸骨がぎくしゃくと頭を上下に振る。はい、行ってきます。
キュビスムの建築「黒いマドンナの家」


プラハは第二次世界大戦で空襲がなく市街は守られた。おかげでゴシックやルネサンス、バロック、さらにはアール・ヌーヴォーやキュビスムなど各時代の建物がそろっていて、さながら建築の博物館のようだ。確かに歴史ある建物がさりげなくあちこちにあり、いくつもの塔―プラハは百塔の町とも千塔の町とも言われている―があるものの、実験的な建物も柔軟に受け入れられ、表情豊かで生き生きとしている。それでも違和感がないのは、基本的に集合住宅で、それらがすべて圧迫感のない高さで統一されていることや、ファサードが揃っているせいかもしれない。一貫した街のたたずまいがある。歴史のある街とは、単に古い街並みが残っているというのではない。一時代で忽然と現れたわけではないことをよく物語っている。
私にとってのプラハは、カフカやマイリンクのプラハだった。だがかつてのゲットーは19世紀半ばには廃止され、富裕なユダヤ人は、町のどこにでも居住できるようになった。取り残された下層民が住んでいた旧ユダヤ人街も、20世紀初頭には「衛生化措置」によって解体されている。カフカの生家も旧市街広場近くにある。成功者である父の代にすでにユダヤ人街を離れていたのだった。彼らも必ず歩いたであろう、旧市街広場からヴァルタヴァ川に向かう道を歩く。狭い石畳の道、直角のクランクや、曲がり角。ヘンゼルとグレーテルよろしく、帰り道の目印に、印象的な建物や彫刻などを写真に撮りながら。入り口を飾るのはバロック彫刻もあれば海外ブランドのロゴもある。同じ旧社会主義国であったベルリンやドレスデンよりもずっと開放的に見える。ようやく人混みを通り抜けるとぱっと視界が開ける。カレル橋だ。プラハを国際都市にした、神聖ローマ帝国皇帝カレルⅣ世にちなむ、世界最古の石の橋。全長500メートルあまりの橋の両側にはバロックの聖人像が並ぶ。若者や家族連れや観光客が溢れ、音楽家や似顔絵描き、露店商などで賑わい、ほとんど広場も同然だ。ここは「黄金のプラハ」でも「黒鉛のプラハ」でもない。しかし、その向こうに見えるプラハ城の、数々の尖塔やドームは日を浴びて、威容を誇る。「城」のモデルが、プラハ城でないとしても、街を見下ろす、言い換えればいつも監視しているような城の存在が、カフカの作品の背景にないとはいえないだろう。プラハ城とカレル橋
 さて、短い時間をなんとかやりくりして、唯一目的を持って訪れたところがある。ヨゼフ・スデク美術館だ。「プラハの詩人」とも言われる写真家ヨゼフ・スデク(1896~1976)が最晩年を過ごしたアトリエを改装した建物は、美術館と言うにはあまりに小さく、目立たず、表札を何度も見て確かめたのだった。
スデクについては別の機会に記すことになるだろう。ここでは、この日訪れたプラハ城内にある聖ヴィート大聖堂の現在の写真と、彼が1924~28年にかけて撮影した写真を並べることにする。

現在の聖ヴィート大聖堂

撮影ヨゼフ・スデク(1924~1928)
ムハのステンドグラスでも有名なこの聖堂は、14世紀に建設が始まり、長い中断を経て、1929年にようやく完成した。スデクは完成間近の数年間の撮影をしているのだが、対角線に差し込む光が印象的なそれらの写真の、光のあたる先は豪華な大建築よりも、建築途上の資材や技師や瓦礫―本来光の当たらない部分であることに注目したい。
 この日、プラハ城を見て回りカフカも一時住んでいたという黄金の小路なども見て、私は3回も徒歩でカレル橋を渡ったのであった。(霜田 この項終わり)

ベンヤミンもまた幽霊に出会う(2)

2017年08月01日 | 読書ノート
 ベンヤミンのこうした姿勢は、この回想的断片を凡百のノスタルジックな回想録の類とは、まったく違うものにする原動力になっている。ノスタルジーとは偶然的で個人的な回復不可能性に対する憧憬の念である。そうではなく、必然的で社会的な回復不可能性に目を向けることは、時代の変遷に対する鋭利な分析力をベンヤミンに与えることになる。

 さて、夢と現実との符帳の問題に戻ろう。これが夢による予兆の物語であったのかどうか、私には疑問がある。幼少時の記憶の中で、それが夢であったのか現実であったのか、ほとんど弁別できない思い出というものは無数にある。
 病時における譫妄状態と同じで、それが未だに言葉によって分節され得ない状態におかれているからである。ベンヤミンの幼時の夢には現実の記憶との混同があるように思われる。
 あるいはまた、盗っ人幽霊の夢について、ベンヤミンがそれを大人たちに対して決して口に出さなかったと書いている事実と、旧定稿で、口に出して言ってしまってから言ってはならないことだったと気づいたと書いている事実との齟齬がある。そこに意図的な虚構があるのではないとしても、不確かな記憶に基づいているのではないかという疑問がある。
 盗賊団による略奪行為は現実のものだったに違いない。しかし、ベンヤミンの夢がその前日に見たものだったかどうかということについては疑いが残る。またベンヤミンが盗賊の侵入する日の夕刻に見た「ある並木道に通じる格子門のかたわらに」立っていた「女中のひとり」が、盗賊を導く役割を果たしていたのかどうかについても不確かである。

 多和田葉子の『百年の散歩』のことを忘れていた。多和田葉子にも幽霊が訪れる。〈コルヴィッツ通り〉に出てくる子供の幽霊と、ケーテ・コルヴィッツ自身の幽霊である。
 多和田はコルヴィッツが1920年代に作った、子供の飢餓を訴えるポスターに対する違和感を表明している。

「飢えた子供たちの顔から無駄な個性を取り除き、効果的に並ばせ、同じ器を持たせる。個々の名前を消して、「ドイツの子供たち」という共通の名前を与える。芸術家は演出家であり、ほんの少し嘘つきだ。そういう嘘ばかり気になって何も行動できない私は世の中の役に立たない人間なのだ」

 こちらは完璧な虚構としての幽霊である。多和田が幽霊に語らせたいのは、ケーテ・コルヴィッツが描く母親が庇護する無名の子供たちの〝嘘〟である。
 コルヴィッツのあの、あまりにも社会主義リアリズム的な造形に対する違和の表明のために、多和田は幽霊を持ち出す。この幽霊はベンヤミンの幽霊とはまるで違っていて、完全な虚構としての幽霊であるが、それは多和田の批評のために必要とされる幽霊なのだ。
でも幽霊が何ごとかを語っているという点において、ベンヤミンの幽霊と多和田の幽霊に共通するものがないとは言えないのかも知れない。(柴野)