ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

多和田葉子『献灯使』を読む(1)

2015年03月14日 | 読書ノート
 多和田葉子の想像力が炸裂する。大災厄に襲われた後の、未来の日本。鎖国となり、外来語は禁止され、インターネットも使えない。政府は民営化され、法律は頻繁に変わる。老人は死ぬ能力を奪われ、若者は長生きすることが出来ない。野生の動物はいなくなり、子供たちは野原で遊んだことがない。曾祖父・義郎と暮らす無名は、ひ弱だが、美しく賢い。やがて15歳になった無名は、若者を密かに海外に派遣する「献灯使」に選ばれる・・・。表題作「献灯使」である。
 ドイツに在住し、日本語とドイツ語で詩や小説を書く多和田葉子の鋭利な言語感覚と、そこから展開される伸びやかで豊かなイマジネーションに目を離さずにはいられない。各紙で評判になっているこの本も、かねてよりの多和田ファンとして手にしたまでだから、東日本大震災や原発事故に関わる小説を読んできたわけではないが、ここまで具体的に災厄後の近未来を描いたものはなかったのではないか。
 尤も、教師が言いかけた「日本がこうなってしまったのは、地震や津波のせいじゃない。自然災害だけなら、もうとっくに乗り越えているはずだからね」という災厄を、福島原発事故に限定して読むのは早計かもしれない。ただ、私にはそれを超える大災厄を想像することが出来ないのだ。もちろん、自然災害や原爆や空襲の写真から、大惨禍をイメージすることは出来るし、終末論的光景もいつも脳裏にある。しかしあり得べき現実として、ここまで想像したことはなかった。安全神話を信じていたわけではない。いつかチェルノブイリを超える事故があるだろうとは思っていた。しかしいきなり日本で、これほどの事故が起きたことが、いまだに信じられないでいるのだ。しかも現状だけではない、いつ収束するか全く予測できず、今後なお想像を絶する事態が起こるかもしれないということを含めて。だからフクシマを念頭に置いて読まなければ多和田の想像力に付いていくことが出来ないし、そうであれば近未来小説としてしかあり得なかったことも肯ける。
 本書には最も長い表題作の他、いくつかの短編が含まれている。その中の一つ「不死の島」は、原発事故直後の2011年夏に書かれた。事故後の日本の近未来のイメージスケッチのようなごく短い小説で、おそらく海外にいたままで書いたのであろうが、妙にリアリティがある。    (霜田文子)