ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「侵略者は許さない」――倉持至宏展ギャラリートークより(2)

2023年12月20日 | 游文舎企画

ギャラリーでのトークの後、ホール、ギャラリーと会場を回りながら作品のひとつひとつを解説していただいた。

 

「死んだら天国へ逝けると思うな1」

1はスズメバチ、2はセミをモチーフにしている。「怒り」の言い回しに着目、アクティブな怒りというよりも、陰湿で内側に向かう表現として、これで虫を描こうと思った。

 

「泣き方も忘れた」

悲しいことがあっても泣くことを我慢している、現代人はこうして泣くことを忘れているのではないか。かつて音楽活動をしていたときに作ったアルバムのタイトルでもある。この頃作詞もしており、音楽の言葉からの流用もある。

 

「私だけがこの世界で慈悲深くある必要はない」(写真右)

一番時間がかかり辛かった作品。イメージが映像としてあり、最も伝わりやすい1シーンを静止画として描いてみた。壊れた戦車に天使が寄っていくように見えるが、実は天使が戦車を壊す場面。天使がついにこの世界に見切りを付けて、人類を滅ぼすことがこの世界から侵略者をなくす手っ取り早い方法だと考え行動に移してしまった、というシチュエーション。戦車は友人から作ってもらったもの。基本的に描くモチーフにはモデルがあり写真を撮って使う。

 

「angel」(写真左)

この作品の後、天使を描くことが多くなった。世界中を飛び回り、侵略者の首をはねてその頭蓋骨を持っている。光輪は侵略者にも付けることがある。彼らにもわずかに良心が残っていて欲しい、あるいはかつては侵略された側だったかもしれないという思いから。

 

「共依存」(写真右)

現代の依存し合っている関係を描いた、お気に入りの作品。エメラルドグリーンは有彩色の中で最も好きな色。

「失せろ、俗物」(写真中)

「失せろ」は日本語として好き。「ここからいなくなれ」というほどの加害性はないが去って欲しい、自発的に去れ、というほどの意味で自分なりの美学。

 

作家として初めての作品。最初はデザインから始めた。

 

「白無垢」

シェル美術賞展入選作で代表作の一つ。白無垢とは相手の色に染まりやすいように、つまりは支配されること、それへの疑問から。

「ALIEN」シリーズ

子どもの頃遊んでいたレゴブロックによる幽霊や骸骨などを同じ構図で描いたもの。スプレーを使った初めての作品。地下道やポスターの落書きのように、自分がちゃんと描いた絵に落書きされるイメージで。これも侵略者といえる。雑に、ただし画面を汚さないよう。

 

「Mother」

上野の森美術館展賞候補作品。もともと赤ちゃんを抱いた母親の絵を描きたかったところ、出産した知人が快諾してくれた。顔は化け物のように。

「優しい世界の為ならば」

天使が終に角が生えて、口が裂けてしまった。舌は自分が育てている植物。構想の時点でいい作品になる予感、一気に描いた。

「私を返せ」(写真右)

性被害を受けた人のTVドキュメンタリーを見て「わたしを奪われた、返してもらわなければ」という作品。吹き出しはしゃべれない、言葉を奪われている状況を表す。被っているのは空気を入れるおもちゃで、手のシルエットは怨念のように見える。

「母が与えた名の意味を人は皆忘れてしまう」(写真中)

最新作。旧約聖書では蛇はイヴをだまして罰として手足を奪われた事になっているが、そんな侵略者もいつかどこかで許されて光の方に向かっても良いのではないか、という葛藤はずっと持っている。侵略者はこの星から追われている。布を被らせられて。犯罪者が何かを被らされどんな奴かわからないようにされているように。誰もが親から立派な名前を付けてもらっているはずなのに。

「ユースティティア」(写真左)

裁きの天使の意。本心は裁きたくない、裁く必要のない世界を望んでいるのではないか。

 

これまでトークや作品解説はしてこなかったと言う倉持さんだが、的確な言葉でよどみなく話す姿からは、常に心の中で思考を巡らせ、対話するように描いているのではないかと思わせられた。後日談で、支配する、される関係を否定しているにも拘わらず、蛇を飼っていること=支配することの矛盾を告白していたが、踏み込みすぎない関係性は一貫しているようだ。(この項終り)


「侵略者は許さない」――倉持至宏展ギャラリートークより(1)

2023年12月18日 | 游文舎企画
 
11月に個展「降り積もる罰よ、侵略者を圧し潰せ。」を開催した倉持至宏さん。会期中にはギャラリートークを行い、游文舎スタッフの問いに、時にユニークなたとえを交えながら明快に応え、さらに自ら作品解説もしてくれた。
 
〈制作とは義務感、使命感〉
ギャラリー入り口に貼られた作家コメントには「作品制作において“楽しい”という気持ちをあまり持っていない」とある。これだけ緻密で完成度の高い作品を描き続けているのになぜだろう、という疑問をまずぶつけてみると、「描く工程で部分的に好きなことはあるが、全体を通して描くことは楽しくない。平日、勤務の後残業のつもりで毎日描いている。」のだと言う。しかし「絵とは言語の一つ。(それを使える自分が)使わないのは怠慢だ。自分の気持ちに関係なく、自分に与えられた手段として「侵略者を許さない」というコンセプトを、作品として描いてみせる。描くことの目的が明確になっている」から続けられるのだと言う。さらに「脳内にはっきりと描く絵が見えている。自分にしか見えていない画像を、もし他者でも100%リアルに画面に落とし込む事が出来るのなら、誰かに任せてしまいたい。でもそれができないから仕方なく自分で描いている。」というユニークな表現も。その上で「(文章を書く人と同様)途中は苦痛だが、描き終わったときの達成感は強い。」から描いているのだと言う。
 
〈際立つ独自の技法〉
         (「Mother」部分)
モノクロームの画面にまるでフロッタージュのようにしましまが波打って浮かび上がるのが倉持さんの絵画の世界をより神秘的で不穏なものにする。観客の誰もが不思議がるマチエール、しかもコンセプトとぴったり合ったこの技法はどのようにして作られ、生み出されたのだろう。それは“木製のパネルに接着剤をたっぷりとのせ、特殊なゴムベラで無作為に引き延ばし、たまたま入手したたくさんの障子紙があったことから、そこに障子紙をのせて出来上がった”ものであり、“荒廃感、爪痕感が作品画面にとても効果的”だったと言う。いずれも偶然だが、それらをタイミングを逃さず重ねられるのは作家が描こうとしているものが明確にあったからこそだろう。しかし波打つ障子紙を6Bの鉛筆で埋めていくのだから、ほとんどやり直しのきかない作業である。「最初から完成作のイメージが決まっているから描き始めることが出来る」のだと言う。
 
〈デザイン、版画から絵画へ〉
今展ではまず、4枚の細密なペン画とPCによる彩色画4枚が展示されている。作家としてはじめて作った作品群だという。このように倉持さんは大学ではデザインを学んだ。細いペンで描くことが得意なことから大学院では版画を専攻した。しかし卒業後は版画が個人では設備的に難しく絵画に転向した、という経歴を持つ。その絵画も油彩などいろいろ試してみたところ、鉛筆画が一番しっくりきたのだという。筆では筆力が伝わりにくいことや、鉛筆の持つ即興性がその理由であった。しかし、画面の構成や、ステンシルを使うことなど、デザインや版画の経験が随所に生かされている。        
        (「流刑の星」部分)
「鉛筆(主として6B)の即興性」とは、次々と脳内で完成される絵画を写し取る最良の画材であったということだろう。

〈タイトルを考えるのが一番楽しい〉

「泣き方も忘れた」「死んだら天国に逝けると思うな」「失せろ俗物」「私だけがこの世界で慈悲深くある必要はない」「母が与えた名の意味を人は皆忘れてしまう」……倉持さんの作品タイトルはとても意味深で魅力的だ。単独でも詩的なのだが、ランダムに並べただけでまるで現代詩のようになる。自身も詩を書いたことがあるというとおり、日本語の表現がとても好きで、わからない言葉は辞書を引き、意味だけでなく使い方なども調べる。タイトルが先にあり、タイトルを考える作業が制作の中で最も楽しい工程であり、ストックがたくさんあるのだという。それも一般的な幅のある意味を含んだタイトルではなく、言いたいことが“この角度、奥行きここまで”とピンポイントで決まっているようなタイトルにするのも特徴的だ。

 
〈憧れる作家はいない。まんがに影響を受けた〉
ここまで倉持さんの作品の独創性に注目してきたが、それでは憧れる作家、影響を受けたと思われる作家はいるのだろうか? 倉持さんは「そうした人はいない」と言う。確かに先行作品を思い浮かべることができない。そして「むしろ好きな漫画から影響を受けた」という。それは浅野いにお「おやすみプンプン」。とにかく暗い。主人公がひとこともしゃべらない、心を閉ざしている時、顔にぽっかり穴があく、主人公がヒロインと逃げ出すとき角が生えている等々、確かに倉持さんの画面に通じるものがある。
 
〈蛇(ペット)とは侵略し合わない関係〉
作品中には、ペットの蛇や、育てている植物もモデルとして登場する。蛇はこちらが一方的に世話をし、話しかけるだけ。いくら歩み寄っても反応しない。こういう関係性が気に入っている。植物も似たところがある。これは作品にも通じるところで、鑑賞者にもメッセージは発信するけれどもそれ以上踏み込まない、干渉しない、そんな作品が心地よさにつながるのではないかと言う。(続く)