ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

日本の近代美術を批評的に再構成――「小沢剛 不完全」展

2018年02月06日 | 展覧会より
私はいつも思うのだ。石膏デッサンがどれだけうまく描けたとして、「創造する」事と直接結びつくのだろうか?石膏像とは、西洋美術を学ぶ牙城たるアカデミズムの権威を守るためにあるのではないのか?と。
 
千葉市美術館で開催中の「小沢剛 不完全」展では、まず、たくさんの石膏像のインスタレーションと、それを取り囲む石膏デッサンから始まる。デッサンには青木繁や山下新太郎のサインも見える。明治初頭に日本に移入された「石膏像/石膏デッサン」が、美術教育の現場に存続している事実とは、無自覚に西洋に追随し、今なお「外来の美術」の枠組みに縛られている日本の近代美術の象徴とも言える。東京芸大教授でもある現代アーティスト・小沢剛の作品とは、日本の近代美術史を批評的に再構成する試みでもある。

「パラレルな美術史」というサブタイトルがあるように、醤油画という技法が存在していたという想像のもとに、古代から現代までの醤油画を並べた「醤油画資料館」や、戦争画の責任を問われてフランスに帰った藤田嗣治が、もしもパリではなくバリに行っていたら、というフィクションを絵画と映像で表現した「帰ってきたペインターF」などで、複層的に日本の美術史を辿り直してみせる。その手法は、単なるパロディにとどまらない想像力とユーモアがある。
実は「ペインターF」の前には、「す下降にンバンレパ兵神神兵パレンバンに降下す」という、戦争画のパロディ・シリーズがある。元になっているのは鶴田吾郎の戦争記録画「神兵パレンバンに降下す」である。日本の油彩画はずっと、とにかく暗くでろりとしていた。西洋の歴史ある宗教を背景とした重厚な油彩画に気圧されていたのではないか。それが戦争画のあの突き抜けたような明るさはどうだろう。呪縛から突然解放されたかのようだ。鶴田の作品はその最たるものだ。抜けるような青空に白い落下傘が無数に舞い降りてくる。それを一部模してデカルコマニーのように左右相称の画面を作ると、なんと銃口が本人に向かってくるのだ。
 余談だが、この鶴田吾郎という画家は、中村彝と一緒に盲目のロシア人・エロシェンコの肖像を描いている。決して下手なわけではない。けれども彝の精神の奥深く入り込んだ画面と対比されることで名前を残している人だ。戦争画にしてもしかり、戦後は「描きたいから描いた」と開き直っている。どうも軽率というか、時流に流されやすいというか・・・いやそれこそが当時の本流だったのだろうか。
 一方、藤田嗣治の戦争画についてはすでに多く語られているが、小沢はガムランの音曲に合わせて次のように歌詞を作る。
「これは私の絵なのか?本当にやりたかったことか?」「たくさんの犠牲と涙の末に戦争は終わった。しかし、彼は制作の手を止めようとしない。いつの間にか国のための制作では無くなっていたということなのか?」
そして戦後、祖国に居場所のなくなったFは、バリで名も無き画家として過ごすのである。鶴田と藤田を対比させることで「戦争記録画」という、近代日本美術史の闇が少しばかり開かれていく。

また明治初頭に油絵を展示していた「油絵茶屋」という見世物小屋の再現や、ねぶたや博多人形等を集めて見世物小屋風に仕立てた「金沢七不思議」では、当初は先端アートの展示の場であったはずの見世物小屋そのものや、ねぶたなどがなぜ「美術」というジャンルから除外されたのかを問い直す。美術館という、特権的地位と担保し合った制度が、美術でないものを周縁に追いやってしまったのではないか。それは「美術館の内と外」だけでは見えてこないものだ。小沢剛がかねて「移動」「逍遙」を伴う活動をしていることこそが周縁に目を向ける手段ではなかったか。
 もちろん、戦後多くの「前衛」が、未完の近代を問い、美術そのものへの疑問を呈して格闘してきたが、ほとんどが自己破壊ないしはエンドレスの自己模倣を繰り返しているのに対し、小沢の複眼的な視点は、多様で豊かな方向性を見せる。そしてそれに気づき始めた作家が出始めているのではないか。そう思うのも、東日本大震災後、鴻池朋子がそれまでの制作をいったんリセットし、内面を降下するような時間を経て“皮”や“縫う”という作品にたどり着いたことを思うからだ。彼女が、「ものを作る」という人間の原初的な営為に立ち戻り、周縁に追いやられていた日常の手仕事に芸術の根源を見出したことと重ね合わせてしまうのである。「不完全」とは、岡倉天心の著書『茶の本』から採られた言葉で、「完全に対するネガティブな言葉ではなく、完全を目指す途上に立つ、限りなく豊かで優しい意味をもつ」のだという。(霜田)