ふかごろうキリスト教神学日記

キリスト教の神学について、ふかごろうが学んだことを記して行こうと思います。

天国

2006-04-14 14:15:32 | 神学のよろこび
<今日読んだ箇所>
「神学のよろこび、アリスター・マクグラス著」:249~252頁

天国に関しては、「今すでに」「まだ」と言う2つの言い方ができます。
『神学のよろこび』から引用してみましょう。

「ある意味で天国はまだ実現していませんが、別の意味でその力強い魅力は
すでに、ドラマチックで複雑な仕方で私たちに影響を及ぼしています。
一度はその展望に小躍りしますが、しかし同時に、まだ私たちがそこには
いないことを知って落胆するものです。」

教会

2006-04-12 17:46:12 | 神学のよろこび
<今日読んだ箇所>
「神学のよろこび、アリスター・マクグラス著」:219~248頁

今日の箇所には、教会について語られていました。

教会は、目に見える形での教会と、普遍的なキリスト教信仰者の全組織体と言う見えない形の教会があります。

あと、教会のあり方についてですが、教会にはクリスチャンしか存在しないのか、それとも、クリスチャンとノンクリスチャンが混ざり合っているのか。
この2つの考え方があります。

三位一体つづき

2006-04-11 15:00:05 | 神学のよろこび
<今日読んだ箇所>
「神学のよろこび、アリスター・マクグラス著」:195~218頁

今日の箇所は、昨日に引き続き三位一体の教理について説明がありました。

三位一体の教理にたどり着くには、まず、聖霊の神性を認めなければなりません。
聖霊の神性を認めることは、キリスト教の歴史の中、非常に慎重に行われました。

ナジアンゾスのグレゴリオス(329-389年)の言葉を引用してみましょう。

「旧約聖書は父を公に説教しているが、御子についてはずっとおぼろげに語っている。新約聖書は御子を啓示したが、聖霊の神性については暗示しているにとどまる。しかし今や、聖霊は私たちの内に住み、もっと明瞭に私たちに啓示されている。父の神性がまだ認められていないのに、御子を公に説教するのは適切ではなかったし、同じように、まだ御子[の神性]が認められていない以前に、聖霊を受け入れるのは適切ではなかった。・・・代わりに私たちは、段階を追って向上し・・・それぞれの部分で知識を増すことによって前進し、ますます明瞭となるようにすべきである。その結果、三位一体の光が輝くだろう。」(192頁から引用)

三位一体

2006-04-10 12:09:19 | 神学のよろこび
<今日読んだ箇所>
「神学のよろこび、アリスター・マクグラス著」:189~194頁

今日読んだ箇所には三位一体の教理が書かれていました。
この教理につまずく人も多いみたいですね。
エホバの証人と呼ばれる人達は、この教理を認めていないそうです。

三位一体の教理は教会の伝統の中、育まれてきました。
4世紀末には、この教理に関する議論が収束したようです。

この教理は、3つ段階を経て育まれてきました。

第一段階 イエス・キリストの完全な神性の承認。
第二段階 聖霊の完全な神性の承認。
第三段階 上記の中心となる見方を深く取り入れて意味を明確にし、さらにその
     相互関係を規定するような、三位一体論を定義づける定式化。

三位一体とは、簡単に言うと、父(神)、子(イエス・キリスト)、聖霊が、一体となっていると言う教理です。

救い

2006-04-09 13:58:34 | 神学のよろこび
<今日読んだ箇所>
「神学のよろこび、アリスター・マクグラス著」:159~188頁

今日の箇所では、救いについて書かれていました。

救いに関しては、様々な方向から考えることができると思います。

1つは、罪の奴隷となった人間の解放を意味します。

他には、神の養子とされるという意味。
これは、神の栄光の傘下に入ることになります。
また、将来、天国に入れることの約束でもあります。

さらに、救いは、義と認められるということも意味します。
この義と認められると言うことは神学用語で義認といいますが、
「神との正常な関係に入ること」または、「神の側から見て正しいと認められること」を意味します。