龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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ドキュメントスキャナ DR-C225wの使用感(続き)

2015年08月14日 23時50分09秒 | メディア日記
『ロードスターのすべて』という、中が針金状のホチキス2本綴じになっている、中央見開き一枚の雑誌を、金具を取って真ん中から裁断してDR-C225Wに通したところ、

重送の嵐

になりました(苦笑)。

たぶん、このような綴じ方の場合、紙の中央側がどうしても真ん中に向かって丸みを帯びるため、そこが重なったまま重送されてしまったのだと思います。
多少写真が切れるのに目をつぶって、とじしろをいつもと同じように一冊上から丸ごと裁断すれば重送は防げたのかもしれません。

雑誌と厚めの文庫本(用紙が薄くなる)の場合、S1500でも末期のころには重送がしょっちゅうでしたから、そういうものなのでしょう。

新型だから万能ということは(当たり前ですが)ありませんね。

それから、気づいたのは、DR-C225Wは意外に動作音が大きいということ。早い分そうなる、という面もあるのでしょうかね。S1500より速度が早く、その分ちょいと音も大きい感じがします。

しかし、とにかく一度にセットできる紙の枚数が10枚から20枚少なくなること以外は、新品ということもあってか問題なくスキャンできています。索引作成が早いのもとてもいい点です。



シュガー・ベイブ『ソングス』40ht Anniversary Ultimate Editionを聴いている。

2015年08月14日 22時33分43秒 | メディア日記

シュガー・ベイブ『ソングス』40ht Anniversary Ultimate Editionを聴いている。

ハイデッガーを途中にして、ジュバンチッチ『リアルの倫理』(ジジェク派のラカン屋さんが書いたカント論?)を放置して、シュガー・ベイブの聞き比べをしている。

シュガー・ベイブの『ソングス』は、山下達郎や大貫妙子が在籍し、あの大滝詠一がプロデュースした名盤中の名盤。解説不要だと思う(世代的に限定かもしれないけれど)。

今回リマスター版とリミックス版が2枚入っている。
聞き比べをしても、流してきいていると正直あまり違いが分からない。

しかし、私の鈍い耳でも、

リマスター版とリミックス版とでは、『蜃気楼の街』の大貫妙子のボーカルの音が違うというのは分かった。リマスター版では、楽曲の中の平面上で声が鳴っている感じなのだが、リミックス版ではあきらかに大貫妙子のボーカルらしい息づかいが前の方に出てきている。
微妙な、だがたしかな違いがある。

『いつも通り』もその感じは多少あるかな。
さりげなく、しかし大貫妙子のこの時のボーカルを大切に残そうという「愛」があるような気がしました。

単なる気のせい?

ちょっとメモ的に書いておきたかった。逃避ですな……。




國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の読書会をすることになった。

2015年08月14日 10時35分46秒 | 大震災の中で
 仲間内でやっている読書会のレポーターが順番で回ってきたので、
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を取り上げることにした。
本当は『スピノザの方法』をやりたかったが、細部を自分で読み切ることはできないので断念。

『暇と退屈の倫理学』はとりあえず著者が歩む道筋をついていくことはできる。

そう思って読み直し始めてみると、第5章のハイデッガーの退屈論がどうしても飲み込めないところが残る。これは本文(もちろん訳です<笑>)に当たるしかないだろうという、ちょっとだけお勉強の意欲を持ち、ハイデッガー全集29/30巻をネットで購入した。

福島県立図書館にあるのは検索で分かったが、福島まで往復するのにコストが1万円ちかく(高速代+ガソリン代)かかるので、中古で7000円弱で買えるなら、その方がよかったので。

で、今読み始めたら、なんということだろう、ハイデッガーの講義は怖ろしく面白いのだ。

単に話が分かる、とか分からないとかいうのではない。

講義にはいろいろ迂回路や大げさな表現があってそれに引きずり回されるという面もないではないのだが、一つには國分氏の「導き」によって、大きなハイデッガーがもつ「思考の流れる方向」というか「性向」を指し示してもらっているから「安心して読み進められる」ということもあるだろう。そういう予めの方向の指し示し、があると、難解なテキストを部分的な表現で「怯えずに済む」、ということは間違いなくある。

たとえば、冒頭ノヴァーリスの引用解釈でもそうだ。
ノヴァーリスは哲学について

「哲学はほんらい郷愁であり、随所に、家に居るように居たいと欲(ねが)う一衝動である」

と書いていて、ハイデッガーはそこから「郷愁」を取り出し、さらに「世界内存在」における「有限性」という「われわれの有の根本様式」を導き出す。

國分先生は、後半の「随所に、家に居るように居たい」のハイデッガー解釈に疑問を呈した上で、前半の「郷愁」がハイデッガーの基本的なテキストの「欲望」だったのではないか、とさりげなく触れた上で「退屈」論を展開していく。

このあたり、師匠の導きが楽しいということはある。


だが同時に、師匠が指し示してくれる方向とは別に、ハイデッガーのテキスト自身が持つ力、繰り返し巻き返し寄せては返す波のように「波動」を発して、こちらがテキストを読む(講義を聴く)場所を巻き込んでいく力、の存在を感じるのも読書の現場の「事実」なのだ。

ぐいぐいと「あらぬ方向」へ引き寄せられるような力。読むという「解釈」にとどまらず、否応なく「問答」に巻き込まれつつ、引き寄せられていくのを感じる。そして10ページほど経つうちには

「われわれは見た、人間というこの謎めいたものの中で哲学が生起する、ということを」P16(ハイデッガー全集29/30巻『形而上学の根本諸概念』)

あるいは

「結局ノヴァーリスが郷愁と名づけているものは哲学することの根本気分である。」P18(同上)

ってなところに打ち寄せられることになるのだ。

ハイデッガーによれば「郷愁」をキーワードとして、「世界」と「有限性」と「単独化」がノヴァーリスのこの一句から導き出されるらしい。

へぇー、である。全然納得はいかない。

しかし、ハイデッガーが向かっていこうとしているその方向性はおぼろげながら見えてこないでもない。國分先生が指し示す大きな見取り図の中で、しかしハイデッガーのテキストが張り巡らそうとする磁場は、その見取り図の中で振動し、踊り出し、どこかへ連れて行ってもくれそうなのだ。

その分かる感じと話からなさを同時に受け止めるとき、テキストはどんな種類のものであれ、至福を私たちにもたらすことになるだろう。それは長年、乏しいながら読書を趣味としてきた私自身の実感だ。


そういう意味でいうと、カントでもスピノザでもハイデッガーでもそうなのだけれど、主著と呼ばれるものは、あまりに構築性が高くて、読んでも頭の中に入ってこないことがむしろ自然だ。

カントでいえば『純粋理性批判』よりは宗教論の方が、あるいは啓蒙とか世界平和について書かれたものの方が、スピノザでいえば『エチカ』よりは『知性改善論』の方が、圧倒的に読みやすいし、その世界に入って行きやすい。

ハイデッガーもそうだ。この講義は、「読める」。そう、『天空の城ラピュタ』の登場人物ムスカが「読める、読めるぞ~!」といったあの「感激」がここにはある。

それは書かれていることが理解できる、とかいうことでは必ずしもない。読めたからといって分かると思うなよな、ということはある。

全く「読めないテキスト」は、魅力的ではあっても現実にはどうにもならない暗号のようなものだ。それに対して、どこか分かるような部分もありつつ、どんな振る舞いをするのか予断を許さないというテキストは、もしかすると「手に負えない」かもしれないけれど、「なんとか読めるかも知れない」という微妙なドライブのラインが想像でき、非常に強く惹かれる。

というわけで、読書会のレポートをそっちのけでハイデッガーの『形而上学の根本諸概念』を読みたくなってしまった。

最近6,7年ぐらい哲学のテキストを読む快楽を漁っているのだが、おおよそ、歴史的ビッグネームを読む時には、ちょっと周辺のテキストから読むと遊んでもらえることが多い、ということに気づいてきたのだが、これもその典型の一つ。

ハイデッガーの『放下』を読んだときもそうだった。これも國分先生がちょっと触れていた(ということはさりげなく紹介していた)テキストを全集でちら、っと見たら、これがメチャメチャ面白くてびっくりしたことがある。学問じゃなくていいんだけど、勉強する楽しみってこういうところにもある、と実感。

特にハイデッガーについていえば、言葉の巻き起こす磁場(単純にレトリック過多、といってもいいけれど、そうなると不要の文飾ってことになっちまう。

カントの宗教論(全集第9巻)を読んでいても感じたことだけれど、哲学者が繰り返し巻き返しぐだぐだと(失礼<笑>)こだわっている表現の中には、彼らの言説に渦巻く「欲望」がやっぱり感じられるわけで、それを味わわないなら、早わかりの解説本だけで読むのを止めておけばいいのだと思う。
本文に向き合う以上、それはあたかも読まれつつあるテキストとともに構築されていく「小説世界」のように哲学もまた読まれていく側面がありそうだな、あと……。元小説読みとしては感じたりもするのです。

とりあえず今日は、『暇と退屈の倫理学』をガイドブックにして、『形而上学の根本諸概念』を読んでいきます。日帰りのピクニックには少々歯ごたえがありすぎるかな?

でも、テキストはたとえどんなにひねくれたものであっても、いつも読まれることを待っている(読者は選ぶんだろうけどね)、そう思って出かけてきます(笑)。