龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大晦日の晩、双葉郡の知人・友人に賀状を書いていて、筆が震えた。

2013年01月02日 17時57分35秒 | 大震災の中で
大晦日の晩、福島県双葉郡の知人・友人に賀状を書いていて、筆が震えた。

私自身、震災直後に父を亡くし、2012年の賀状を書かなかった。
取り紛れたこともあり、喪中のはがきも出さずじまい。
一年賀状を欠礼すると、年賀状サイクル-サークルから半ば外れていく。

まあ、今どき賀状など書かずとも、メールで連絡は取れる人も多い。

Facebookの普及以来、賀状をやりとりしなくても近況が分かる人も大分増えた。

だが、年配の知人や、メールのやりとりのない友人も少なくはない。
そういう人と繋がっていられるのが年賀状の大きな魅力でもあり、役割でもある。
年の初め、自分を(たとえ賀状一枚分の重さであっても)気に掛けていて下さる人が世界の中にいる、ということは、子どもの時から、憧れの行為の一つだった。
だって、大人はあんなに沢山の年賀状を貰えるのだから。

さて、話がずれた。

大晦日の日、一年ブランクを抱えて、ということは震災以前に届いていた年賀状を引っ張り出して賀状を書き始めた。

そうしたら、当然のことながら、双葉郡の知人の住所は、震災以前の富岡町や大熊町、双葉町、浪江町の住所のままなのである。

賀状を送ろうと思うが、その住所には彼らは間違いなく今、住んではいない。

おそらく、転送の手続きはなされているだろう。
だから、この元の住所で書いても、十中八九、相手の手元には間違いなく届くに違いない。

だが、「双葉郡」と書いたところで、筆が震え、止まってしまった。
今は日本国の行政によって、居住することを禁じられ、人が住んでいない場所の住所を年賀状に書かねばならないということに、得体のしれない「怖れ」を抱いたのだ。

だが、それではどの住所に書けばいいのか。

震災前に届いたその賀状は、「結婚しました」と披露宴の写真が幸せそうに印刷されていた。住所は大熊町。
間違いなく彼女たちはそこには住んでいない。無事なのかどうかも分からない。
大分躊躇した後、卒業後10年以上送ってくれた彼女の礼に応えるべきだと考え、賀状を書き終えた。

もう一枚、彼とはたまたま震災後、阿武隈高原SAで夜の9時頃、偶然ばったりと出会うことができた。
家族全員無事だったという。
だが、彼の浪江の海沿いの家は、跡形もなく流されてしまっている。

私の年賀状は、その住所に向かって差し出されるより他にない。
おそらく、郵便局でコンピュータ処理され、双葉郡には物理的に届かぬうちに、適切な処理をされて本人のところまで届くのだろう。

だが、私の中では、大熊町や広野町、浪江町の彼らの無人の家や、家の跡地に、私の年賀状が空中を飛んでヒラヒラと着地するようなイメージが広がった。

それは、不謹慎な想像力、なのかもしれない。
その旧住所が書かれた賀状を受け取った相手はどう感じるだろうか、そんなことさえちょっと気になる。
でも、賀状を届けるためには、その住所を書くより他に手はなかった……。

100通ほどの賀状を書き上げた頃には、年が改まっていた。








「エチカ福島」という思考集団のプロジェクトを立ち上げます

2013年01月02日 17時38分44秒 | 大震災の中で
あけましておめでとうございます。
いつもこのブログをお読みいただき、本当にありがとうございます。
本年もよろしくお願いします。

いつもぐだぐだ書いているばかりで、はっきりした輪郭のある仕事ができてしませんでした。

今年は力を集中して、新しい仕事を立ち上げたいと考えています。

それは、「エチカ福島」というプロジェクトです。

「エチカ福島」の「エチカ」は、スピノザの「エチカ」という主著の書名から取りました。
普通、倫理学と訳されます。

「エチカ福島」は、思考集団の名前であり、プロジェクト名でもあります。

何がしたいのか、といえば、大震災以後の福島を、きちんと瞳を凝らして見つめ続けたいのです。

ここで何が起こったのか。ここで何が起きつつあるのか。ここは外部からどのように参照されてきたのか。されているのか。どう参照されつづけていくのか。
そして私たちはここでどんな風にして生きていくのか。

今福島で生きることは、大震災と原発事故を意識の中に折り込んで、その上でこの土地で生活を営む、ということです。

外部から「復興」の声がかかることはたしかに有り難いし、支援の輪が広がり、継続していることには感謝に堪えません。
しかし同時に、福島が「復興」していくことは、私たちの意識に折りたたまれた大震災や原発事故が、そのまま不可視の領域に追いやられ、抑圧され、「治癒」されていく対象になっていくことにもなりかねません。

私たちはあの大震災と原発事故で、とてつもない「怖れ」を抱きました。
このようなことが起こってしまう社会の現実にも「怖れ」を感じました。
私たちはどうあるべきなのか、倫理的な姿勢が問われる、とも思いました。

震災から2年が経とうとしている今、その「怖れ」と向き合い、本来あるべき「倫理」を求めずにはいられないと考えたそのことを、いよいよじっくりと行動に移していく時が満ちた、と感じているのです。

念のため申し添えれば、単に「体験を風化させまい」、とか、「福島の事故や被害を特権化しよう」というのではありません。
復興事業の邪魔がしたいわけでもなく、単なる他者への責任追及だけがしたいのでもありません。

政治的社会的な動きによっては掬い取ることのできない「事件の現場」の出来事について、その傍らに立ち続け、その出来事を見つめ続け、考え続けたいのです。

そしてそれが私たちにとって重要な「倫理」的な行為だと考えるからです。

エチカはもと、ethosという古代ギリシャ語で、いつもの場所、習慣・習俗・性格・しきたり、という意味だったそうです。

共に住む者たちが共有する規範→倫(ともがら)の理(ことわり)

ということでしょうか。

私(たち)は、その「ともがらのことわり」のありようを、しっかりとみつめたいのです。

外部から押しつけられたものではなく、私たちの生の現場から立ち上がる「理(ことわり)」を発見したいのです。

それは外部から押しつけられたものを拒絶する姿勢も受け入れる姿勢も同時に乗り越え、くぐり抜けて、普遍的な原理を求めることに繋がると考えます。

だから、エチカ福島、であって、福島のエチカではないのです。

外部と内部、という安易な二元論や、大震災と事故という「最初の一撃」を絶対化するのではなく、私たちがここで今生きることのうちにある「肯定的な」生のベクトルを、何か都合の良い考えに収斂させることなく、「自然権」として互いに認め合いながら、響き合うことのできる「普遍」にたどりつくことがしたい。

そう考えています。

というわけで
「エチカ福島第1回セミナー」

を下記の予定で開きます。
詳細は検討中ですが、ぜひぜひ、日程を空けておいてください!
絶対、面白いセミナーにしていきますので、ご参加くださいますよう。

日時  2月9日(土)の午後1時30分から4時30分ぐらいまで
場所  福島県立橘高等学校の同窓会館
内容  1、「怖れ」「倫理」「アート」の三側面から大震災についての考察をレポート。
     2,そのレポートに助言・講評をいただいた上で、國分功一郎先生の講演
     3,國分先生と報告者、参加者全員でフリー討議

以上のようなことを計画しています。詳細が決まりましたら、改めて告知しますね。
ぜひともスケジュールを空けておいてください。
乞う、ご期待です!