龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『放下』を読んでいて、よく分からないこと(2)

2013年01月04日 22時25分48秒 | 大震災の中で
『放下』の「土着性」について分からない、って話を、メディア日記に書きました。

メディア日記「龍の尾亭」

ハイデッガーの『放下』の「土着性」について
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980411

この失われた「土着性」から、来るべき「土着性」へって展開の後、「放下」っていうなんだかおならみたいな悟りみたいな話に展開していく。

「土着性」は「放下」(放下っていうのは、なんか「行為」らしい。)にたどり着くらしいんだけど、分からない。

ちなみに、広辞苑には
「放下」(ほうげ)
 ①投げ捨てる。突き放す。
  日葡辞書「ヒトヲハウゲスル」

 ②禅宗で、心身共に一切の執着を捨て去ること。また、その禅僧。
  徒然草「諸縁を放下すべき時なり」

とある。
いかにも禅ぽい。
やばい、ハイデッガー神秘来てる(笑)。
どうなのこれ?

道の手帖「ハイデッガー」では、高田さんという研究者が巻頭インタビューで

ハイデッガーの技術論とか、何かあるのかなあ、とか思って私も読んでみたけど、別にないな、ありゃ。みんな、現代を先取りした予言的なところがある、とか言うけど、違うね。少なくても哲学的な深いものに裏打ちされた話じゃないよ

的な感想を書いてました(苦笑)。
ハイデガーじいさんが、失われた「土着性」へのノスタルジーを小めんどくさく言っただけってことか?

んー、分からない。

そういうことをプロが言ってみたくなる「怪しげ」な面(っていうか、そういうレトリックに吸い寄せられる人が多いっていう意味も含めて)があるということでもあるのかもしれない。

したり顔にハイデッガーを深読みしてんじゃねえよ、ノストラダムスじゃあるまいし、みたいなね。
それはそれで何となく分かる(気もする)。

でも、この「突然やってくる分からなさ」は、素人なりに感じる範囲では、単なる田舎好きのおじいちゃんの繰り言、ではない。

深い哲学的洞察、というより、表層的衝動に近いモノかも知れないけれど、もう少し「分からなさ」に付き合ってみる価値はあるんじゃないかな。

そういえば、加藤尚武(環境倫理学)氏も、技術の哲学について書いた本で、

適当なレトリック使ってるんじゃないよハイデッガーおじいさん

的なことを書いてましたね。(書名後で確認します)
※『ハイデガーの技術論』でした。
加藤尚武氏は、むしろ逆のことをいってます!
ハイデガーの文章は散文というより散文に抵抗する詩的な表現だから、絶対原文参照をしなきゃいけない、という意味の話でした。原文参照もしないで、翻訳だけでハイデガーを分かったつもりになって論文を書くな、という趣旨です。
失礼しました!
その上で、ハイデガーの技術論は、今日の状況において見るべきものは必ずしも多くない、という言い方もしています。
こちらについてはまた別途。

プロがちょっと「いらっ」とするところがあるんだあ、と思って読んでいます。

※これも、どちらかというと、ハイデガーの仕事としては必ずしも中心的な課題ではない技術論を過度に持ち上げて(よく読みもしないで)その「現代性」や「預言者的能力?」を称揚して利用しちゃう論者への批判、というニュアンスもあるみたいですね。

この技術の話は『放下』を読み終えてから、別途考えます。

というわけで、もうちょっとぐだぐたしてみます。

國分功一郎「スピノザ入門」第9回のMEMOを

2013年01月04日 15時14分38秒 | 大震災の中で
國分功一郎「スピノザ入門」第9回のMEMOを

メディア日記「龍の尾亭」にアップしました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980410

今回はいよいよ「平行論」が中心。
スピノザにさほど興味がない、という人にも、
「ふーん、そういう考えだったのかあ」
とけっこう納得できる話かと。

例によって、極めて個人的なメモですので、変なところがあったらすんません、悪しからず。
でも9回も講座を受けると一人の人の哲学をじっくり教えてもらえるから、こういう通年講座って貴重です。


『放下』を読んでいて、よく分からないこと。

2013年01月04日 00時04分16秒 | 大震災の中で
ちょっとだけメモ代わりに。

ハイデッガーは、技術が自然の中に隠されたものを見えるようにさせる力があり、人間はその技術的な振る舞いにむしろ「徴発」されて、その仕組みの前に立たされ坊主のように向き合わされ、場合によっては隷属状態になっちゃう、と言う。
で、だから「省察」が必要で、その技術の中に生きる(Yes)と同時にそれにこだわらない(No)を言わなくちゃならなくて、それが「放下」ってことで、と話が展開してく。

でも、ちょっと待ってほしい。
そこで「土着」って出てくるのはなんだかへんだ。

技術の圧倒的な「攻撃」で、土着からは離陸したっていっておいて、その技術は人間の営為とは別立てだっていっておいて、その上で人間の「省察」だけを別途「徴発」しているハイデッガーの手続きは、ちょっと手品っぽくはないか?

丁寧に切り分けながら問題を深めていくステップは凄いと思う。
もしかすると、途中でついていけなくなってるから私が逆ギレしてるだけなのかな、とも思わないでもない。

でも、人間の無力を前提として、なおも人間の「省察」による「土着」に対する思惟の称揚っていうのは、よく考え抜かれた、というよりは、ハイデッガーのやってみたい手品の種、に近いという印象を、今の私はどうしても感じてしまうのだ。

技術の圧倒的な「攻撃」の前で、また、腹蔵された自然のエネルギーを開示する技術によって、むしろ徴兵されるかのように「徴発」され、圧倒的なエネルギーを解放するために奉仕作業をさせられる人間、という分析は間違いなく鋭いと思う。
私の、私たちの実感と結びつく。
そして、遠い所に答えを見いだすのではなく、見つめるべきは自らの傍らにある、というハイデッガーの指摘も納得だ。

だが「土着」ってどうなんだろう。
その後の「放下」はどうなんだろう。

スピノザより「神秘的」な感じがしちゃうのは私だけだろうか。

二重の往復運動を、異質なものの上に交差しながら重ねていくような手捌きを、意味が分からないまま傍観しているしかない、みたいな感触が今の状態だ。

でも、ここをもう少し読み抜きたい。

どの道から谷を降りていくのかの違い、ということなのかもしれないが。