龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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いよいよ始まった國分功一郎の『エチカ』論講義

2012年11月19日 23時09分07秒 | 評論
國分功一郎「スピノザ入門」第8回のメモをメディア日記にアップしました。

「スピノザ入門」第8回(その1)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980401
「スピノザ入門」第8回(その2)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=48eaada7fc98c8e51711074a6665bdc2

いよいよ話は佳境に入って来ました。

あの『エチカ』の冒頭部の説明です。
スピノザの遺稿が出版されてから数百年の間に、いったい何人の人がこの冒頭を読み始めて挫折したことか!

いわゆる「幾何学的秩序によって論証された」って部分です。
この説明も丁寧にしていただいたのですが(だからといって十分理解できたわけじゃござんせんけれど)、それだけではなく、この冒頭部の説明による神へのアプローチだけではなく、もう一つ別のアプローチが『エチカ』の中にはある、という國分センセの説(ドゥルーズを参照しつつ)が展開されていきます。

興味深いです。自分で読んでるような気になるぐらい、面白いです(笑)。

つまり、理性的認識で神=自然=実体に迫ろうとしても、接近はできるが、それは結果から原因をたどる道だから、誰もが認識できるわけではない。むしろその理性的認識(スピノザのいう第2種認識)は、接近はできるが、直接的にたどりつくことは難しい、とスピノザ自身も考えている。

そこで登場するのがスピノザのいう第3種認識、つまり「直観知」です。

スピノザは、『エチカ』冒頭部からの幾何学的秩序による論証、即ち第2種認識的に神に接近するけれども、それは万人が理解できる道ではないことを知っていて、第五部以降、直観知のレベル、つまり第3種認識のアプローチも同時に提示していた、っていうのが國分功一郎のスピノザ読解仮説です。

私の説明じゃあ、むしろ謎が増すばかり、でしょうね。
詳しくは、来年以降に出版される『スピノザの方法』の次の著作を待たれよ、っていうことになります。

でも、『知性改善論』を、完成しなかった『エチカ』の序ととらえ、その困難(失敗)をきちんと踏まえた上で『エチカ』を読む、という線、加えてデカルトを脱構築する形で徹底し、完成を見た、という線、さらに、もう一本の線として(これは今回のお話には出てきてはいません。あくまでfoxydogの想像です)は、経験論的な線、それらが重ねられつつ、『エチカ』は編まれているのではないか、っていう感じは、そこはかとなくではありますが、納得力がじわじわと出てきつつあります。

私にとっての國分功一郎という読み手の魅力は、なんといっても、精緻なテキスト読解の小さな現場のスタイルが、決して自己目的化せず、私たちにも通じるロジックを纏いながら、しかも大きな世界の秩序と(遠く離れているのに、見事に)照応していく点にあります。

こどものころ、疑問に思った(永井均的にいえば「子どもの哲学」的)疑問に

「私の見ている緑と貴方の見ている緑は同じなのか」
「宇宙の果ての向こうはどうなっているのか」
「全てのものに意味はあるのか(誤謬は果たして可能か)」

という三本柱がありました。
スピノザは、この子どもの哲学的疑問に、見事に答えてくれます。

でも。

異様というかあられもないというか、大人げないというか、スピノザにはどこか遠いところにいて全く理解しがたいところと、無邪気なところと無慈悲なところと、奇妙に現実なところと、不思議に戦闘的なところがあるように、文章を読んでいると感じます。
遠すぎて何をいっているのかさっぱり分からないのに、次の瞬間ものすごくありえないぐらい近かったりする。
私(たち)の遠近法が通じないテキスト、といえばいいでしょうか。

そのテキストを、身近なところで導きつつ読んでくれる師は、本当に貴重です。
出会えたことに感謝。

この幸福を、ぜひ分かち合いたいです。
よろしかったら、
『スピノザの方法』國分功一郎 みすず書房
いかがでしょうか。
私にとっては、こちらの本の方が、『暇と退屈の倫理学』よりも腑に落ちました。分かったって話じゃありません。「直観」として、腑に落ちた、っていうことです(笑)。