龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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國分効果という教育(國分功一郎論のための覚え書き5)

2012年01月09日 14時26分37秒 | 大震災の中で
もしくは『すばる』2012年2月号対談「個人と世界をつなぐもの」(宇野常寛×國分功一郎)の感想

前述のように、私は
宇野常寛『リトルピープルの時代』
が読めなかった。

村上春樹をいまどきターゲットにする意味がわからないし、サブカルチャ批評というのかどうか、仮面ライダーにもAKB48にも興味がないし詳しくないし、「拡張現実」とかいうツールも平板な感じだし、とうてい私が読み得るものでもないと思った。

とにかくつまらなかったのだ。

こんな退屈なものをおもしろいと思う人たちが増えるのなら、私はもう本当に山に隠って暮らしたい(できないんだけどね、実際は)とも思った。

もしかすると面白がれない自分にもちょっとイライラしていたのかもしれない。

そんな時、Eテレで再放送された「ニッポンのジレンマ」を観て、「おや」と思った。
70年代生まれ以降のヒトが集まって6時間(放送はその半分ぐらい)日本の格差をしゃべり倒すという番組で、これが抜群に面白かったのだが、その中での宇野常寛の「語り」が奇妙だったことが気になった。
飯田泰之という経済学者と、宇野常寛という批評家の掛け合いというか、「因縁の付けあい」「互いの主張の拾い方」が抑圧的で、そこは朝生っぽい感じのレトロ感もあったのだけれど、それに対して興味を持った。

いそいで付け加えておくと、会場での一番人気は哲学者の萱野稔人。まあ当然ですね(笑)。
不透明な現況について敢えて語ろうとするときは、その基盤について(たとえそれが非在のものであっても)参照する身振りが必要だ。この場所では萱野氏が提供する政治哲学の視点が仮の参照点として機能していたのだろうから。

私自身も、このメンバーの中では萱野氏の発話を好む。どこかで「世界」を参照したいと思って夜中の再放送を観ているわけだから、飯田泰之と宇野常寛自体(ってのも変ですが)はむしろ「変数」として受け止めることになる。

ただ、萱野氏の提出するヴィジョン自体はたいそう暗い。
成長路線がこれから先とれるならそれに越したことはないが、難しいだろうし、それだけではなく20世紀の負債を21世紀は負の再分配として背負っていかなければならないっていう方向性ですからね。

また、萱野氏は飯田泰之や宇野常寛のようなタイプのプレイヤーではないことも確か。

哲学者ですからね。だからこそ混迷の中ではとりあえずの参照点にもなる。

細かく言えば萱野氏の発話の「文体」=「スタイル」も興味深いのですが、それは別途。

さて、ここまでが補助線です。

「すばる」2012年2月号の対談「個人と世界をつなぐもの」を読んでいくうちに、前述のように、宇野常寛に対する見方が変わっていった。

それは一義的には國分功一郎を宇野常寛の近傍に置くという編集者の身振りの成果なのかもしれない。

少し前にTwitterで
「國分さんともあろうものが、なんで宇野なんか宇野ごときとと(すみません!筆者)対談するのか」
みたいなものが流れたことがあった。

私の中のある部分、つまり「本来性」を国分氏に配置したい欲望は、そんな風に感じていた。
結局「宇野」は「拡張現実」とかいって自分のいるサブカル平面に固執したまま、時代遅れの村上春樹信者に意味のない弾を撃ってるだけじゃん、みたいなね。

しかし、國分功一郎氏の次の問題提起によって、初めてわかりやすいメタ的な宇野氏の「感想」が導き出される。

問題提起(國分)
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1,『リトピー』でも、「ビッグ・ブラザー」が死んだ後の「リトル・ピープル」的権力観が必要なのに、それがわかっていない人たちが多すぎると(宇野は)強く主張。

2,「リトル・ピープル」的権力観というと、哲学だったらフーコー。権力の中心を認めずむしろ社会的関係野中に権力を見いだす考え。70年代マルクス批判としてインパクトあり。(第1段階)

3,次に社会的関係の中に権力を見ることを誤解して、大文字の権力=国家の問題がなおざりにされる。権力は上からではなく下からくる「性差別的表象」とか「植民地主義的表象」みたいな糾弾口調(第2段階)

4,僕(國分)なんかの世代はこの第2段階に対する反省が常識。いわばそれが第3段階。国家の暴力装置の問題と、下からくる権力の問題の両方を考えなければダメということ。

5,そうすると、宇野が指摘する大文字の政治だけを問題にする文化人ってのは周回遅れ(しかも3周!)。そんな日本の批評家のことはどうでもいいんじゃないか?

宇野の反応
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いや違う。僕(宇野)の仮想的はまさにその第3段階の人たちが一回りしてもう一度第1段階に会期した結果としての自分探しだ。

大震災の後なんかに「震災によって資本主義は根本から揺らいだ」みちあなことをまだ大きなメディアに書く人がいる。しかし東北が壊滅したってグローバル資本主義は揺らがない。だからこそ厄介。

つまり80年代で時間が止まっていて、マルクス主義は得気なものを相対化しつつ、まだ左翼的な権力観は維持したいってモードが生き残ってる。で、それらは実現不可能なロマンの空手形に逃げてしまって結局最悪な形で物語回帰している。それを批判している。

国家の問題を語ることに意味がないといっているのではない。近代的な擬似人格装置として国家を見ることが無理なだけ。
擬似人格ではなく、法システムとして、大きな物語としてではなく大きなゲームとして国家や社会構造を考えようと主張。

ーーーーーーーーーーー

これを読んでなるほどねって感じになった。

言っておけば、今でも宇野氏が「語り口」について言及する対談部分には違和感を抱く。語り口が重要だっていう指摘自体は納得するんだけれど、宇野氏自身の語り口が、いささか性急に「仮想敵」を想定する「立場」に依拠しすぎてやしないかっていう違和感だ。

ようやく本題にたどり着く。
この後の國分のコメント。
「なるほど彼らを批判する理由はよくわかりました。分野によって『批判』がとるべき形というのは異なるのかもしれません。ドゥルーズは『これはすごい』『ここがすごい』ってことだけを書くっていっていて、僕もそれに倣っているんだけど、そういうことが許される業界と宇野さんがいる批評の業界は違うのかもしれないね」

これが良かったのだ。
批判する理由は「わかるよ」
というのと
「違うね」っていうことを併置すること。
公開対談の社交的な結論づけ、と見ることもできるが、國分の言説は共感性を示しつつ、同時に違いを際だたせ、勇気づけていく。
そしてさらに分からない(AKB48)もそこに加えて提示していく身振りは、これを「教育的」といわずしてなんと言おうか(笑)。

社交的であると同時に教育的でもある。

共感と差異と無=理解をきちんと提示してそれらを同時にクリアにしていく「語り口」にもう一つ加えるとしたら、生物的=唯物的=直接性を手放さないこと、になるのだけれど、それはまた別のところで。

一つ付け加えれば3.11を「第二の敗戦」ではなく「第二の戦後」ととらえようという國分氏の提案、賛成に100票。
「戦後責任」の視点ですね。
これはアーレントと絡めて再度考えたいな。

とにかく、この対談は、私にとっては面白いものでした。
そしてもう一つ付け加えていえば、雑誌「文学界」に掲載された國分功一郎の『一般意志2.0』に対する書評にも全く同じ「国分効果」が見られる点も指摘しておきたい。

他者の言説の傍らに立つことによって、自らがもつ本来性に還元せず、差異を豊かさとして味わうというきわめて具体的な実践が生じていると思うのです。
まあ、9割削った、という「本来の?」國分功一郎による東浩紀論を早くみたい、というのがファンとしての感想ですけど。



ニッポンのジレンマ(Eテレ)再放送1/8を見た。

2012年01月09日 00時35分55秒 | インポート
これを見ていたら、何が面白いのか皆目見当がつかずに途中で放り出していた
『リトル・ピープルの時代』宇野常寛
を再読しようと思った。すばる2月号の対談『個人と世界をつなぐもの』(國分功一郎×宇野常寛)を併せて昨日読んでいたことも大きかったかもしれない。

個人と世界をつなぐものは、私は端的に言えば「人為」だと思っている。
もちろん、個人の認識も、世界の認識も、個人に対して現象するものだし、理性の中で起こる閉じられた事象、という側面もある。
逆に、個は常に「アフォーダンス」的に多数の身体を環境の中で持つものだし、それは動物的次元においても社会的文化的次元に於いても様々に錯綜した関係を構成しつつ多層なレイヤーの集積として初めて「個」も「世界」も成立する、という側面もある。

私は個人的に
「人為」が大きな裂け目を見せた3.11の出来事のの中で、飼い犬と父親の死も重なり、

 個人→(動物的→存在論的→社会的)→世界

という、個人と世界との間にある、①動物と②実存と③人為(=社会)との三つの側面から中間領域を考えてみなければ、という主題を背負った。

そういう意味では、宇野常寛のいう「拡張現実」は一読してどうにも平板であり、かつ村上春樹を対象として今評論を書く意味が分からず、仮面ライダーにもガンダムにもAKB48にも関心があまりない53歳としては、とりつく島もない状態だったのだ。

だが、改めて宇野氏の発する言葉を聞いて、あるいは國分×宇野対談を読んでいるうちに、もう少し丁寧に追いかけておくべきなのではないか、という思いが強くなってきたのだ。
自分が福島の事故においてスティグマを背負ったという自覚は、自分の内面に傷というか襞を生じさせる。
だが、一方それは、都会から出版されたり発信されたりする言葉や表現については、どこか一面的平面的な印象を持ってしまう危険を増大させもする。

まあ、実際そういうモノも多いんだけどね。

正直、そんなこんな宇野氏や東氏の言葉は、直ちには自分の中に響いてこなかった。

でも、性急に自分の中だけを探るのではなく、少しディレイをかけるというか、テンポを変えて読む、あるいは掌の上にそれらの言説をのせて転がして見ていると、幾重にも折り重ねられた屈折や屈託があって、その上で「敢えてする」表現が乗せられた形で手渡される、ということがあるのではないか、というぼんやりした「感じ」がある種のリズムとして、あるいは手の中に生じてくる感触として感じられるようになってきたのである。

個人的には「國分効果」ととりあえず呼んでおこう(笑)。
差異を「本来性」によって排除せず、「浅く触れ続ける」(たぶんロラン・バルト)感じとでもいえばいいだろうか。

結果、未読ラインナップに再度挫折していた『リトル・ピープルの時代』を再掲せねばならなくなってしまいました。

ふぅっ。
書き込みしている暇に読まねば!


P.S.
萱野さんもカッコ良かったです。『ナショナリズムは悪なのか』は好著でしたね。面白かった!
でも一つ疑問を抱いてもいるので、それも忘れないうちに書いておかなくちゃならないんだけど、それもまた後で。ああ宿題ばかりが増えるなあ。

つまりは、ナショナリズムで吹き上がる底辺労働者のような意識すら持たずに、「土人of 土人」というか「キングof無関心」というか、AKB48かパチンコかモバゲーかってところで生きる人々をどう考えるか、なんですけどね。
識字率は高いのに革命起きないみたいな(苦笑)。
まあ、齋藤環だかが指摘していたように、親の資産があるから社会に参加しないで引きこもれるって側面もあるんでしょうが。
そのあたり、もう少し考えてみたいです。






TBSラジオ・Dig. 神保哲生さんと萱野稔人さん、金平茂紀さんの新春座談会。(You Tube)

2012年01月09日 00時08分56秒 | インポート
を聴いた。面白かった。
今日は、まず、萱野氏が「ニッポンのジレンマ」でもいっていた民主主義の課題に反応しておきたい。
3.11について、大きな「切断」(金平)と捉えるよりは、今まで連続し、実は自明であったものが露わになった(萱野)という方に立ちたいですが、それは別にat10の開沼論文について触れるところで書きます。
萱野氏の指摘---------------
民主主義には二つの側面がある。
1当事者性の担保
2人気投票(利益誘導)

でも、現在は20世紀型の成長路線の戦後処理、マイナスの分配を政治がやらなければならなくなっていて、1・2ともに機能不全に陥っている。
たとえばEUの中ではギリシャ・イタリアのトップが首を切られ、官僚や学者が次のトップになって敗戦処理をさせられているのをみても、もはや今までの「政治家」が利益誘導による人気を取る余地はないし、民意によって政策選択をする余地も少なくなってしまった(誰がどうマイナスの資産を負担するか、という話になってしまったため)。
政治家は、不人気政策ができない。公平なマイナスの分配は官僚的・学問的・機械的にならざるをえない。

お金がない+政府の正当性が欠如=民衆の次元での不満増大
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これ、とっても納得がいった。
これがとっても暗い話に思えてしまうのは、「成長戦略」の夢をつい目線が追ってしまうから、だろうか。

成長すれば全ては解決する(坂の上の雲認識)VS成長神話からの脱却(坂の上の坂認識)
というのは、今日の朝日新聞の一面にある
前原VS枝野
みたいな話になりそうだが。

私は極めて個人的には「成長戦略」が採れればそれに越したことはないと思うけれど、国民の一人として53年間「成長」とかに資することなんて全くやってこなかったので、もし仮に「成長」なんてことがあるとしたら、私とは全く関係ない場所で起こることに違いない、と確信している。

だから、正直「成長戦略」なんて知ったことではない。私にできることはない。何かしようとも思わない。
そんな形で天下国家を論じたいとも思わない。

私はそんなこととは関係なく、山で穴を掘って暮らしたい。

だが、安富歩も指摘するように、自立を目指して他者への依存を拒否していくと、最後に拒否しきれない依存が残ったとき、それに対する固着・執着・依存の比率が大きくなって、取り返しのつかないことになる。
社会から隔絶した状態で、山で穴を掘って暮らすことなど、実際にはほとんど不可能に近い。

だから、むしろ「浅く触れる」出入り可能な社会システム・環境を構想したい、という関心ならある。

だから興味があるのは「中間領域」ということになる。
グローバリゼーションだの国家だのいきなり言われても挨拶に困る。

ただ、自分と世界が適切に接続・連結したり、時には関係を解放したりする仕組みは、絶対に必要だと思うし、人間が社会を営んで行く動物である限り、いや、人間が動物である限りにおいて、環境世界の「可能性条件」とどう向き合い、その中での自己に配慮しつつどう生きていくか、は大きな課題だ。

そういう意味で、迂回路を通ってではあるけれど、自分の生きる環境を常に捉え直し、その中で常に生きている間は動き・変化しつづけるであろう自己と環境の関係を顧慮して生きられる世界のシステムが欲しい。

今日のこの対談でもちらっと触れられていたけれど、民主主義がクローズアップされる前に産業革命がまずあって、成長していくことを前提に資本主義と民主主義はシンクロしてこの数世紀「生きてきた」のだとすれば、近代の見直しを、かつて80年代きわめて「狭い」ところでやっていたポスト構造主義のような袋小路じゃなくて、もっと柄の大きな数百年単位で捉え直すことが必要なんだろう。

水野和夫と萱野稔人の『超マクロ展望 世界経済の真実』の、大きな(ある種ホラ話のようでもあるけれど)スパンでの視点が必要だという指摘とも重なる。

中世→神学あたりの匂いも嗅いでみたくなるというものだ(苦笑)。

さて、ではどうするか、なんて考えてもよくは分からないけれど、國分功一郎がスピノザ・ホイヘンスを参照して、デカルト・ニュートン的な世界像を見直そうとしているのも、うなずける。

安富歩はちょっと表現が「過激」だけれど、自分達の足下を支えてきたロジックを問い直す、という意味で「東大話法」
という言葉を敢えて挑発的に用いている。
「拡張現実」(宇野常寛)、「一般意志2.0」(東浩紀)
もまた、幾重にも屈折を抱えつつ、なおも個と世界の関係を「社会」や「言語」や「宗教」や「倫理」において問い直そうとする3.11以後の営みという点では通底するところがあると思う。

一度にいろいろなことを考えなければならなくなっていて、毎朝それだけで脳味噌が溢れそうだ。

頼まれもしないのに。

でも、今年も書いていこうと思う。
他に趣味も特技もない私にできることは、こうやって言葉を線状的にだらだらと吐き出しながら、その場その場で考えていくことだけだから。