物見遊山であっては申し訳ないと考えて、去年は行かずに我慢していた。
だが、どうしても一度見ておきたいという子供じみた考えが消えず、境界線を見に行ってきた。
常磐道を北に向かうと、広野町というところのI.C.で高速道路が閉鎖になっていた。
右手の海沿いには広野町の火力発電所の煙突から煙が出ているのが見える。
I . C . を降りると国道6号線まで1kmほど。国道を左折して坂を下りなら北上すると数百メートルほどいったところで道路が封鎖されていた。
(写真1)参照。
機動隊のバスが2,3台交通止めの看板の先に止めてある。
あとは数名のヒトが、検問をしている。観ているうちにも作業員の車だろうか、検問を受けて北の方に向かっていった。
土砂崩れなどの自然災害で道路が不通になっているのとさほど変わりはないと言えば言える。
けれども、私たちがそこから受ける印象はやはり大きく異なっている。
御斎所街道の不通個所の土砂崩れは、自然の圧倒的なら力への畏れを私たちにもたらす(元日の日記掲載写真を参照のこと) 。
それに対してこの交通止めは(こちらの瞳の奥の脳みそがそう判断してしまうからなのだろうけれど)、明らかに異なった種類の恐怖をもたらすのだ。
誤解を恐れずに言ってしまえば、後者は「テロ」に対して抱く恐怖に近い。
つまり、人為によって引き起こされたにもかかわらず、その結果は人為を越えてしまい、人為によってはによっては回復不能なレベルに到達してしまった出来事に対する恐怖である。
それは存在論的な「死の恐怖」のみにかかわるのでは必ずしもない。実際、地震や津波と違って、人はまだ、原発事故によっては工事の事故以外ほとんど亡くなってはいない。そして、明確にヒトの致死率が圧倒的に上がるだろうという確信が持てているわけでもない。
それなのに私たちは、いや少なくても私は、この道路封鎖の現実に、ある意味での「世界の果て」の境界線を感じてしまうのだ。それは何よりもまず
「社会的な意味での『世界の果て』」
だ。
法律で立ち入りが禁止されている場所。
だがそれは単に誰かが所有権を持っていて立ち入りを禁止している、という法的権利関係ではない。
敢えて言うなら、人為のリミットとしての「裂け目」の存在が、具体的にはシゼンゲンショウとしての高い放射線量をもたらし、その人為のリミットの裂け目がもたらした「自然」の条件が、私たちをそこに立ち入らせない条件を構成しているのだ。
去年の
3月以来ずっと思い悩み続けたきて、今ここで必要なのは、人為と自然の関係の問い直しであり、その哲学の構築だ、と私は考えるようになった。
もう一つ必要なのは、恐怖・畏れについての分析だろうと思う。
私たちは今本当は何をおそれているのか?何を畏れ、もしくは恐れ、何を隠そうとし、何を回避しようとしているのか。
それをよくよく考えていかねばならない、と改めて強く感じた。
この境界線はもうすぐもっと北側に移されていくだろう。立ち入り禁止区域は、中期的には狭められていくことも予想される。だから、当然ことながらこの写真の場所は何ら絶対的意味を持ちはしない。
だが、一旦ここに示されてしまったこの看板の意味は大きい。私たちはこんな形で境界線をある日引かれてしまうリスクを背負っていることに気づかない振りをしていた、そのことをこの写真は示している。
数年前、共産党の県議団が東京電力に示していた質問状には、この事故を想定した危惧がはっきりと書かれてあった。
しかし、残念ながら告発する側もされる側も、この看板のリアリティには届いていなかった。
そして言うまでもないことだが、私(同様に少なくない浜通りの人々、そして福島県民もまた)は、薄々感づいてはいたはずなのに、事が起こったらもう仕方がないというあらかじめ想定された無力感を開き直りと忘却にすり替えて、日常の安寧を確保していたのだ、ということをこの写真は示している。
少なくても私はそう感じる。そう感じなければならない、と感じている。
確かに、自分に与えられた可能性条件=存在基盤を前提としつつ、その中でその上で最善の力を尽くし続けることが容易だと考える者はそう多くないだろう。
また、それが果たして自分自身の手に負える「課題」なのかどうかさえ怪しく、しかも未だ実現していない事象について妄想することを、普通は「想像力」とは呼ばずに「妄想」とか「杞憂」とかいって軽蔑さえしていたのかもしれない。
それらの振る舞いはむしろ、私たちが日常を生き抜く大切な術の一側面でさえあろう。
そんなことを空疎に懺悔するつもりはない。空疎な懺悔はむしろ愚かな繰り返しを招く。
そんなことを含めて、このとりあえず地図に引かれたかりそめの「世界の果て」の境界線について、考えて行きたいのだ。
写真1