「へぇ、似たようなことを考える人はいるんだねえ」
とコメントをもらって、思わず顔がほころんだ。
親鸞とスピノザが似ているかどうかは、それを語った私が牽強付会に重ねて表現しただけのことなので全くの「匙加減」に過ぎない。
でも、今村仁司の最後の著作『親鸞と学的精神』を今日(上野の博物館で清明上河図見学の行列に並びながら)読んでいたら、親鸞に「理神論」を見る、という表現が出てきてどきっとした。
スピノザが果たして今村のいう「理神論」に該当するのかどうか、さえ私は哲学史の知識がないから分からない。
でも、ばあさんが言ったのは、要するにそういうことだろう。
それは大澤×佐々木のポッドキャストで繰り返されている「第三の審級」が不可能だけど不可避だっていう話ともつながり、東浩紀の敢えて言う『一般意志2.0』のテーマとも響き合っていると私は思う。
私(たち)の場合は、福島県の原発事故というスティグマを背中に背負ってるので、その辺も踏まえて論じないといけないからいまだにうろうろぐじぐじまとまらないんだけれど(苦笑)。
自然と人為の裂け目の関係の話をもう少し煮詰めておかねば冬休みが終われないなあ。
ドゥルーズのスピノザ論が進まないので、親鸞の方を少し外堀から埋めている1月6日夜でした。
とコメントをもらって、思わず顔がほころんだ。
親鸞とスピノザが似ているかどうかは、それを語った私が牽強付会に重ねて表現しただけのことなので全くの「匙加減」に過ぎない。
でも、今村仁司の最後の著作『親鸞と学的精神』を今日(上野の博物館で清明上河図見学の行列に並びながら)読んでいたら、親鸞に「理神論」を見る、という表現が出てきてどきっとした。
スピノザが果たして今村のいう「理神論」に該当するのかどうか、さえ私は哲学史の知識がないから分からない。
でも、ばあさんが言ったのは、要するにそういうことだろう。
それは大澤×佐々木のポッドキャストで繰り返されている「第三の審級」が不可能だけど不可避だっていう話ともつながり、東浩紀の敢えて言う『一般意志2.0』のテーマとも響き合っていると私は思う。
私(たち)の場合は、福島県の原発事故というスティグマを背中に背負ってるので、その辺も踏まえて論じないといけないからいまだにうろうろぐじぐじまとまらないんだけれど(苦笑)。
自然と人為の裂け目の関係の話をもう少し煮詰めておかねば冬休みが終われないなあ。
ドゥルーズのスピノザ論が進まないので、親鸞の方を少し外堀から埋めている1月6日夜でした。