龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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昨日、Twitterで「大分に移住したい」とつぶやいた。

2011年11月26日 09時30分12秒 | 大震災の中で

昨日の時点での正直な気持ちである。
「ここより他の場所」
に生きる選択肢があるなら、それを選んでみたいというのは、震災や原発事故以前からずっと持っている欲望だ。

但し、大震災直後は、パニック的に避難したいとは思わなかった。むしろ自分の目と耳と体に、起こったことを刻みつけておくべきだと考えていたかもしれない。
でも、夏を過ぎ、災害の中に生きる「興奮との蜜月期間」が終って、静かに疲労感が蓄積してきている。

大波地区の五つの農家の米から基準値を超えるセシウム検出、の報道を聞き、福島市の親戚が「今年はりんごを送らないから」という電話を受け、スーパーで茨城産の半値で県産野菜が売られているのを見ると、そして福島の県の出産数が震災後三割減った、という話を聞くと、九州ならそんなことはなく暮らせるのだろうなあ、と、ふと思う。

とはいえ、私は九州には移住せず、福島県にとどまり続けるのだろう。

なぜなら、以前からファンタジーとして「ここより他の場所」を夢想していた私の願望に今現在形を与えているのは、結局のところ消費者の欲望に他ならないからだ。

それはとりもなおさずかつて福島県に誘致され、震災後も放射性物質を撒き散らしつつ存在し続けている原子力発電所の「稼働原理」と共通しているのではないか、と感じるからでもある。共通は言い過ぎかな?通底?響き合う?
ま、そのあたりはまだよくわからないが。

そこでは、かつて原発は安全です、なんて話を「信じた」福島県民が愚かだったのと同様、今では、福島県は危険なのにまだ避難せず生活している福島県民は愚か、なのだ。

もうみんな福島産品なんて買いたいとは思わないよ、なんてね。

消費者の論理はそういうものだろう。
世界中どこでも便利なところがあればそこへ行き、不便利な事柄やモノは排除されて市場から退場する。

福島県は、消費者の論理としては、間違いなくその「外部リスト」に載ったことになる。
放射線が検出限界以下になるまでは。あるいは消費の論理として排除対象の意味がなくなるまでは。

震災後の被災による心的ダメージがしだいに大きくなっていくこの時期、この消費の論理に苦しめられるのは正直苦しい。

だって、それは自分の中にも装填された論理だから。

震災後の早い時期、既に萱野稔人と大澤真幸の対談で大澤氏が指摘していたことだけれど、

「政府が事態を隠蔽しているというよりもむしろ、どんな基準値を政府が決めてもただちにその基準の正統性が問題になって、基準自体がうまく機能しない」

そういう状況を私たちは生きているのだ、と改めて思う。

消費の論理は、一方では福島県民の被害は避難不要な程度のものとして賠償の対象から外し(それは税金を200万人避難に投入する決定をしないという形で現れる)、他方では福島産のものは買わず、福島県では人間も再生産せず、放射能が検出される期間は消費の範囲の「外部」に位置付ける、ということになるわけだ。

これを別々の主体がバラバラに行っていると観るのは、どうも事態を見誤るのではないか、と最近考えるようになってきた。

税金の投入を200万人避難に使わないのは、私はコスト意識として当然だと思う。私が納税者だったなら(そうなんだけどね)納得しない。ファンタジックな健康幻想に費やすには、あまりに莫大な金額になるから。
でも、他方、それは本当に低線量長期被曝の被害が存在しないと証明された結果じゃないのも自明だ。

なにせ暫定基準ってぐらいだものね(笑)。

行政的法律的に不可能なのでも(原理的には)ない。主たる原因は、どこまでコストをかけるか、の判断だ。
それは政治判断と呼ばれるけれど、一義的には経済的判断、しかも税金をどう「消費」するのか、の判断に(結果としては)なってしまっているのではないか。

でも、他方では、消費者の論理は原発を考慮に入れなかった3/11以前の見事な反転系として、今度は福島全体を考慮の外に置こうとしている。

そしてまた厄介なことに、福島県民自身もその消費の論理を内部に装填されているから、自分たちの生きている場所を「交換可能」な場所として半ば考えてしまうのだ(必ずしも福島が絶対的に交換可能なものだとは思わないですよ、もちろん。程度問題だよね、当然だが)。

このとき私たちは徹底的に情報を「消費するもの」として「情報の生産と消費」に関わることになるだろう。

福島は今、半ばは情報の中にある。
だって暫定的にしか決められない境界線上に福島県は存在していて、どんな立場をとるにしても、福島の一部は、間違いなく消費されるべき経済活動の「外部」になっているからだ。

私は、震災の一ヶ月後、津波の被害を受けた沿岸部を車で走りながら見て、そこに「人為の裂け目」を観た。

今震災から半年以上過ぎたところで、人為による裂け目の隠蔽を目の当たりにしようとしている。「人為の裂け目の人為化」とでもいおうか。

もともと安全基準は私たちにとって自明のことではない。

だから、安全です、も危険です、も、絶対的な「真理」とはかけ離れた匙加減の領域だ。

とすれば「裂け目」はもはやここでは、スティグマとしての力を消費するべき「商品」のごときものとして再生産され、それ自体が負の記号として機能してしまっている。

憂鬱なことに。

「福島 信夫山ネコの憂うつ」
のブロガーが、そのあたりの事情、反原発の言説が福島を徹底的に排除することによって、「外部」としての福島を成立させてしまっている様子を明らかにしてくれている。

私はこのブロガーの意見には同意しないが、ブログの意図は共有したい。

福島は消費の外部を作り出す便利なアイコンじゃないぜってことです。

ただし、福島の中に、触れることのできない「人為の裂け目」が痕跡として存在することを否定することはできない。

それは原発事故だけを特権的に扱うという意味ではなく、それももっとも大きな悲惨な震災の傷だ、という意味でも。

そして、私たちの思考はもちろん境界線なしには成立しない。そんなものの外部に立つ、というのは哲学者かクルクルパーにまかせておけばいいのだ。

だが、消費の論理は最後まで内部に止まるだろう。

外部を簡単に措定して排除するのは、消費者の中に潜むテロリズムだと思う。

白井聡『未完のレーニン』講談社選書メチエ
を読んで、そんなことを考えた。

行政が設定する基準も検証の対象としつつ、科学的データの正確な提供を求めつつ、私は、私たちは、外部と内部をどちらかだけで生きてしまう貧しさから自由でありたいと強く願う。

たとえば、福島大学の推薦入学志願者倍率が低かったのは、まあそりゃ当然だと思う。
消費者の論理からすれば。

値段も安くなるらしい。受験料免除とかね。

それでもなおわたしたちの内部には、クルクルパーな哲学の不可能さの旋律が多声的にが響いていると思う。

思いたい。

それは断じて単なる愛郷心でもなければたんなる無知でもなく、現状維持の諸力の結果でもなく。

福島大学を県外から一般受験で志望する人はかなり減っているという。

選択し得る商品を消費するという観点からいえば、それで当然だ。
県内の高校生でも、敬遠する人は多いだろう。それも当然。
少しでも生命リスクの少ない商品を選ぶのはあたりまえのことだ。
福島を商品として流通させるためには、安全性を高める努力が必要だ。
安全性が低ければ安売りするか、回復が望めなければ市場から撤退するか。

気がついてみたら、テレビのニュースの主題も、放射能それ自体の問題より、福島(の産品)をどう商品として流通させるか、あるいは排除するか、のせめぎ合いがメインになりつつある。

でもね。


風評被害を口にする生産者がどこかある瞬間、「押し売り」に見えてしまうってことはありませんか?

「福島から直ちに避難すべきです」

って助言に、福島を世界の「外部」に追いやって息の根を止めてしまうテロリズムを嗅ぎ取ってしまうのと同様に。

多分、そういう風に単純な言説によって主体を立ち上げる方に、むしろ今からクルクルパー、の称号を差し上げておきたい。

そういうところに主体の匂いを嗅ぎ取って固着してしまう自分の思考の身振りも、いい加減にしておきたい。

ヒューマニズムから、唯物論へ。

二十世紀が抱え続けてきた近代批判の問題を、現実逃避の空想的哲学としてではなく、今ここで徹底的なリアルさで自前の思考を鍛え上げよう、それしかねえや、ってことでした。

何か簡単に悪を排除して、正しいことだけををなし得ると妄想するのではなく。

避難するヒトも残るヒトも、米作りを続けるヒトも止めるヒトも、県産品を食べるヒトも食べない人も、境界線が揺らいでいるのだから、個人的な振る舞いはむしろ何でもあり、だろう。

ただひとつ言い得ることは、境界線の単純な画定による二分法のどちらか内部=世界の半分でだけ生きるわけにはいかないよってこと。

「力」、端的には「権力」・「暴力」に対する感覚と振る舞い方を身に付けていく必要があるってことでしょう。

今、哲学をやってる若い人の多くはそこから信号を発していると感じます。

この項、継続検討です。