「いわき長持」という地元のお菓子のこと。
以前一度、知人に頂戴したことがあって、美味しいお菓子だとは思っていたが、地元にもかかわらずその辺のお店やさんには
おいてない。
街中をざっとクルマで二、三度流してみたが見つからない。HPには書いてあるのだから、店舗があるはずなのに。
仕方がないので駅前の駐車場にクルマを止め、歩いて商店街を回ってみた。雨の中で傘を差しながら、静かな夕方前の温泉街の駅前商店街を歩いていると、通り過ぎてしまいそうになった小さな間口の、「角田屋」という菓子舗がようやく見つかった。
中にはいると、目当ての「長持」が積んである。日持ちは、と尋ねると「三日」だという。
こちらが迷っているのを見透かしたのか、店の主人が
「食べる分だけ買ってください。」
という。また食べるときには店に買いに来い、ということだろう。
数センチ角の小さな舟の中に焦がした黄粉をまぶした小さな羽二重餅が3つ。
それにお弁当のソース入れのような小さい容器に黒蜜がたっぷりはいっているものがついている。
私がなおも迷っていると
「いやね、賞味期限を延ばして大規模に展開するっていうことは、そりゃ私だって考えたよ。」
と店の主人が語り出した。
「でもね、菓子屋にはそれは大きな誘惑なんだけど、間違いなんだなあ。今は流通も良くなってるから、北海道とか首都圏とか、出そうと思えば出すことは不可能じゃない。でもね……」
このお菓子に関しては、説得力があった。13年前に一度もらって食べたお菓子を、また食べたいと思って街を歩いて探す、ぐらいのレベルには「力」のあるものである。全国、とはいかなくても、脱酸素剤とかを入れて、固まらない添加物を入れれば、餅系のお菓子は基本的に日持ちを伸ばすことは、他に流通している商品からいっても可能ではあろう。
「でも、赤福みたいになっちゃしょうがない、ってこと?」
と水を向けると
「自分がやってることを見失っちゃあダメなんだなあ。300年も前からこの土地に住んで、菓子屋の看板挙げて160年。いい加減な仕事はできないよ」
とおじさんは語った。その語りは、客にオリジナルな商品の価値=うんちくを語る、という営業トークの意味もあるのだろうけれど、幾分かは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
もちろん、客は、そういう物語も好きだ。
いや、どこでもいつでも買える、という「利便性」ときっかり同じ「強さ」で、希少価値とこびない職人魂の「物語」も欲望しているのかもしれない。
「私はお客の舌は信用しない。自分の仕事をしていくしかないんだ。」
と最後に8個入りの「いわき長持」を渡しながら結んでくれた。
その言葉は、顧客に対する不信、とは聞こえなかった。お菓子という「商品」それ自体にしても、付加価値的な「物語」にしても、それらは「流通」する中で「力」を発揮する。
そういう眼前の具体的な鮮度と味をもった食べ物以外のことがらに、足場を置かない、ということだろう。
買ってきたお菓子は、13年前と変わらずに美味しいと感じた。
また、食べたいときには、駅前にクルマを駐車して、歩いて店舗までいくことになるのだろう。
どこか遠い親戚への手土産に持って行こうとするときには、その日の朝、お店に寄って買ってから出かけることになるのだろう。
美味しいものは、そういうのがいい。
以前一度、知人に頂戴したことがあって、美味しいお菓子だとは思っていたが、地元にもかかわらずその辺のお店やさんには
おいてない。
街中をざっとクルマで二、三度流してみたが見つからない。HPには書いてあるのだから、店舗があるはずなのに。
仕方がないので駅前の駐車場にクルマを止め、歩いて商店街を回ってみた。雨の中で傘を差しながら、静かな夕方前の温泉街の駅前商店街を歩いていると、通り過ぎてしまいそうになった小さな間口の、「角田屋」という菓子舗がようやく見つかった。
中にはいると、目当ての「長持」が積んである。日持ちは、と尋ねると「三日」だという。
こちらが迷っているのを見透かしたのか、店の主人が
「食べる分だけ買ってください。」
という。また食べるときには店に買いに来い、ということだろう。
数センチ角の小さな舟の中に焦がした黄粉をまぶした小さな羽二重餅が3つ。
それにお弁当のソース入れのような小さい容器に黒蜜がたっぷりはいっているものがついている。
私がなおも迷っていると
「いやね、賞味期限を延ばして大規模に展開するっていうことは、そりゃ私だって考えたよ。」
と店の主人が語り出した。
「でもね、菓子屋にはそれは大きな誘惑なんだけど、間違いなんだなあ。今は流通も良くなってるから、北海道とか首都圏とか、出そうと思えば出すことは不可能じゃない。でもね……」
このお菓子に関しては、説得力があった。13年前に一度もらって食べたお菓子を、また食べたいと思って街を歩いて探す、ぐらいのレベルには「力」のあるものである。全国、とはいかなくても、脱酸素剤とかを入れて、固まらない添加物を入れれば、餅系のお菓子は基本的に日持ちを伸ばすことは、他に流通している商品からいっても可能ではあろう。
「でも、赤福みたいになっちゃしょうがない、ってこと?」
と水を向けると
「自分がやってることを見失っちゃあダメなんだなあ。300年も前からこの土地に住んで、菓子屋の看板挙げて160年。いい加減な仕事はできないよ」
とおじさんは語った。その語りは、客にオリジナルな商品の価値=うんちくを語る、という営業トークの意味もあるのだろうけれど、幾分かは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
もちろん、客は、そういう物語も好きだ。
いや、どこでもいつでも買える、という「利便性」ときっかり同じ「強さ」で、希少価値とこびない職人魂の「物語」も欲望しているのかもしれない。
「私はお客の舌は信用しない。自分の仕事をしていくしかないんだ。」
と最後に8個入りの「いわき長持」を渡しながら結んでくれた。
その言葉は、顧客に対する不信、とは聞こえなかった。お菓子という「商品」それ自体にしても、付加価値的な「物語」にしても、それらは「流通」する中で「力」を発揮する。
そういう眼前の具体的な鮮度と味をもった食べ物以外のことがらに、足場を置かない、ということだろう。
買ってきたお菓子は、13年前と変わらずに美味しいと感じた。
また、食べたいときには、駅前にクルマを駐車して、歩いて店舗までいくことになるのだろう。
どこか遠い親戚への手土産に持って行こうとするときには、その日の朝、お店に寄って買ってから出かけることになるのだろう。
美味しいものは、そういうのがいい。