最後は東北芸術工科大学へ。
三瀬夏之介(教授)の設定するテーマで、制作された作品が展示されている。
展示されている絵の大きなスケール感に没入。中に散りばめられたたくさんの記号というか素材が、所を得て響きあうのが、見ていて楽しい。
写真じゃ読みにくいかもしれないので、グッときた最後の4行をもう一度引用しておきます。
「しかし東日本大震災以降、それまで固有の背景を持ったメンバーの問いの中から様々な東北観を生み出してきたはずの『東北画は可能か?』は、逆に統一的な回答を求められているように感じることが多くなった。未曾有の危機に直面し、求心的な「東北」の復興を求める声と、この土地での美術の実践とは決して無関係ではない。
『東北画は可能か?』は、これからの東北の呪縛を解体し、再構築することが求められるのだろう」
繰り返し生まれてくる多様な「何か」以前のもの。
それらのものが、「統一」への欲望と響き合いつつも「検閲」に回収され尽くすことなく、なおも画面に跳梁し続けることを期待しつつ、自分もその子供みたいな何か以前の場に触れ続けるためにこそ、何度でも遡り続けたい、という思いを強くして帰ってきた。つい理屈を考えてしまうのが悪い癖、ですが(笑)
子どもたちのような心を持って、「山形ビエンナーレ」に行くべし!
三瀬夏之介(教授)の設定するテーマで、制作された作品が展示されている。
展示されている絵の大きなスケール感に没入。中に散りばめられたたくさんの記号というか素材が、所を得て響きあうのが、見ていて楽しい。
写真じゃ読みにくいかもしれないので、グッときた最後の4行をもう一度引用しておきます。
「しかし東日本大震災以降、それまで固有の背景を持ったメンバーの問いの中から様々な東北観を生み出してきたはずの『東北画は可能か?』は、逆に統一的な回答を求められているように感じることが多くなった。未曾有の危機に直面し、求心的な「東北」の復興を求める声と、この土地での美術の実践とは決して無関係ではない。
『東北画は可能か?』は、これからの東北の呪縛を解体し、再構築することが求められるのだろう」
繰り返し生まれてくる多様な「何か」以前のもの。
それらのものが、「統一」への欲望と響き合いつつも「検閲」に回収され尽くすことなく、なおも画面に跳梁し続けることを期待しつつ、自分もその子供みたいな何か以前の場に触れ続けるためにこそ、何度でも遡り続けたい、という思いを強くして帰ってきた。つい理屈を考えてしまうのが悪い癖、ですが(笑)
子どもたちのような心を持って、「山形ビエンナーレ」に行くべし!