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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

「日々の新聞」と思考の遅速度

2015年11月22日 16時28分09秒 | 大震災の中で
福島県いわき市には「日々の新聞」というバイウィークリー(隔週刊)の新聞がある。

2週間に一度の発行で新聞といえるのか?ましてこのネットで瞬時にニュースが世界を駆け巡るご時世なのに……

という声が聞こえてきそうだ。だがもちろん、バイウィークリーの新聞には、それだけの意味がある。なぜなら、ひとつには思考には「遅速度」が必要だからだ。
じっくり粘り強く物事を考え、文字にして世界の片隅に刻んでいくためには、それ相応に時間の「熟成」が必要だろう。

もちろん、毎日紙面を印刷しつづけることも大切だし、世界中のニュースに目をこらして遅滞なく配信することも必要だ。だが同時に、私たちはその「加速度」的に増え続ける情報=記号の海に流されはじめてから、だいぶ長い時間を既に過ごしてきた。

物事を深くかつ広く考えるためには、いったん立ち止まって考えることが大切だ。

そういう意味で「日々の新聞」は私たちにとってとても重要な時間の「溜め」をもたらしてくれる貴重なメディアなのだ。

もう一つ、「日々の新聞」には重要な役割がある。それは、福島県いわき市(私が住む町)に根付いた新聞だ、ということだ。
お店の紹介やイベントの告知が主のタウン誌なら、どこにでもある。

地元がかかえる課題や話題を、2週間のスパンで届けてくれる「日々の新聞」は、きわめて貴重だ。

こういう地元に根ざしたウィークリーやバイウィークリーを持っている町が、日本にはどれほどあるだろうか。

メディアは、自分たちが生活の中でその主張と対話しながら自分たち自身の生活を見直し、考えを深め、あるいは改めつつ「よりよき生」を生きるために必要不可欠なツールだ。いくら文句を言ってみても、テレビのニュースや新聞、ネットの配信抜き、私たちは「世界」と向き合い、自分自身の生活を向上させていく術を知らない。

なるほど私たちの生活はホームセンターに行ってDIYの道具や資材を買うことによっても向上するし、おいしいレストランをタウン情報誌で探し出し、ステキなランチをゲットすることによっても向上するだろう。
では、それ以外に広がっている私たちの社会が抱える課題は、どうすれば向上するのだろうか。


おそらく私たちに今必要なのは「中立」の報道ではなく、開かれた議論のできる「対話の相手」だ。

地域の生活や空気を共有し、その中から課題を見つけだしてくる地域の新聞だからこそ、できることがある。それは毎日あるいは毎時間ごとにニュースを配信するタイプのメディアとは種類が異なるけれど、必要不可欠な知性の道具なのではないか。


「日々の新聞」を持たない地域に住んでいた時には、そんなことを考えもしなかった。
だが、今は違う。

この新聞がなければ、確実に何かを考えるきっかけを失うだろう。そういう実感がある。

最近、「谷口楼」といういわき市平にある料亭の女将さんが、お店の歴史を語るコラムが連載されている

「谷口楼よもやまばなし」

町の歴史を抱えてきたお店だからこそ、その切り口から見えてくることがある。そういえば、銀座にもそういうコミュニティ雑誌があった。銀座百点とかいったかな?
この記事はそんな香りもする。

他方、じっくり足を止めて問題を見据え、闘うべききっかけを教えてくる記事もある。

「むのさんからのメッセージ」

という連載がそれだ。戦争について、民主主義について、落ち着いて考える素材を提供してくれる。

町の新聞を誇りに思うことができる都市に住んでいることを、私は密かに誇りに思っている。できればそんな気持ちをいわき市の他の人にも、いわき市以外の人にもお裾分けしたい。

よろしかったらこちらまで。

日々の新聞サイト
http://www.hibinoshinbun.com/

そして、もし気に入ったらぜひ定期購読をしてみてください。


「津波に奪われた命、そして今」(未来会議トークイベントに参加して)

2015年10月14日 06時31分43秒 | 大震災の中で

ドキュメンタリー映像上映&トークイベントにいってきた。

参加して良かった。このイベントから以後、

「福島の被災は、放射能だけではない」

のメッセージが自分のところまで届く、という意味をしみじみ考えている。

肉親が津波で行方不明になった上野敬幸(南相馬市)・木村紀夫(大熊町)両氏が、海辺で捜索を続ける様子を取材しつづけたドキュメンタリー映像(制作は笠井千晶氏)を観つつ、改めて二人に笠井氏がインタビューしていく、

というイベントだった。
娘や息子を津波に奪われた父親がその個から発していく深い感情、それが淡々と描かれる映像から伝わってくる。

単に想像力に基づいた共感を求めるのではなく、そういう事実が「ある」、という形でその「姿」が立ち現れてくる、そのことがしだいに心の中に染みこんでいく。

原発事故の被害とが重なり、その中で行方不明になった人を捜索することさえ十分にできない
中で最愛の子どもたちを探す上野・木村両氏の姿が描写されているうちに、私は、「父親」としての自分のあり方を逆照射されているようにも感じた。

彼らは、津波と向き合うことで、津波にのみ込まれた娘や息子、肉親たちと向き合うことで、「遅れた(生き残った)」自分たちと向き合っているようにも思われた。

原発被害は、未来の健康被害(「ただちには影響がない」<枝野>の向こう側ですね)を中心に語られることが圧倒的多い。

だが、それだけではない。
私たちが生きることは、様々な「層」を同時に生きることだ。

「多層性」を積極的にとらえ損ねて生きることがあたかも「効率よく生きる」ことででもあるかのような言葉を発してしまいさえするけれど、「それだけ」で生きているはずがない。

そんなことも考えさせられる。

「個」から始まる、ということは、その複数性を不可避的に生きること、でも、あるのかもしれない。

これはずっとずっと考え続けていかねばならない宿題をもらった、ということだろう。


内容はこちら。(「未来会議」Facebookより引用)

行方不明の二女・汐凪ちゃんを捜す「team汐笑プロジェクト」の木村さん、行方不明の長男倖太郎くんを捜す「福興浜団」の上野さんの写真を中心に、渋谷敦志氏、尾崎孝史氏、岩波友紀氏の3氏が現在に至まで被災地を撮り続けた作品約30点を展示します。

写真展期間中である10月10日は、東京電力福島第一原発から20キロ圏内を中心に故郷の復興に携わり、悲しみを乗り越えようと活動を続ける人たちや「福興浜団」の活動などを、笠井千晶氏が2011年から約4年にわたり撮影し制作したドキュメンタリーの上映と共に、お三方のこれまでの活動や想いを語っていただくトークイベントを開催します。


富岡町に行ってきた(画像あり)その3

2015年08月23日 17時21分13秒 | 大震災の中で
富岡町の中の様子1

高速のICから街の中に向かう大きな道路はこのように封鎖されていた。



そのあたりの田畑と住宅が広がる部分には、



という看板があって、普通の住宅の前に汚染土が並んでいる。


とか、


どれだけの時間があれば、ここに住めるようになるのだろう、と自分が住むのではないけれど、途方に暮れてしまうような気持ちになった。

戻るといっても、昔と同じにはできないのだろう、と正直思う。
しかし、この町以外のどこに住もうというのか、と考えると、もしここに住めるようになるなら、住みたいと思う気持ちになるのも分かる。

正直、何も変わっていないものは変わっていないようにも見える。


一方では開沼さんが『はじめての福島学』で指摘するように、福島県のお米は、震災以後も全国7位の生産量で、その半分近くは首都圏で消費されつづけている。
個人的な感想をいっても、福島の桃は今年復活を遂げた、という印象がある。
どこに旅行にいっても、福島の桃は高級なものとして値付けされ、流通している。

他方、道路をクルマで走るだけで胸が締め付けられるような気持ちになる現実もここにある。
それは、決して子どもの頃に見たマンガや写真の問題ではない。
今ここにあるリアル。

まあしかし、通りすがりに撮っただけのクルマからの写真をこうしてブログにアップしたところで、新聞の専門家がいう「マンガ」や「写真」のように扱われてしまうのかもしれない。

どんな種類の「リアル」を生きるのか、そしてどんな信号を出していくのか、は私たち福島でこの震災と原発事故を経験したものの務めだと考えている。

ではどうすればいいのか。
また考えていかねば。

富岡町に行ってきた(画像あり)その2

2015年08月23日 17時14分15秒 | 大震災の中で


生活が突如停止し、他の場所に移動させられたまま、数年経っても戻れないということは、とてつもなく怖ろしい出来事だと思う。

大熊町は帰還困難区域に接していて、山ろく線(山沿いの県道)から町に入る道は基本的に全て封鎖されていた。

富岡町に入ると、クルマの数がぐっと増えて、降りて写真を撮ることもできるようになる。
下は廃墟になったローソンの看板だ。常磐道の富岡IC近くにある。



その向かい側にはこんな看板も。



走っている車のほとんどは、この看板のロゴが付いた工事・作業のクルマばかりである。



線量計は持って行かなかった。ちょっと走って、どこがどれだけの線量か、を言い立てても始まらない。

ただ、このあと富岡ICから常磐道に乗って南下したのだが、乗ってすぐの道路脇表示は2.1μs/h。かなりの線量であった。

富岡町に行ってきた(画像あり)その1

2015年08月23日 10時38分59秒 | 大震災の中で
2015年8月19日、読書会を終えて福島市からいわき市に戻るのに、途中船引を通ってみようと思い、高速道路を使わずに、一般道で三春まで走ったのだが、そのときふと

「あ、常磐道も国道6号線も通じているのだから、もしかしたら国道288号線を東に降りていったら富岡町までいけるかもしれない」

と思いついた。
コンビニに寄って確かめてみようかとも思ったが、行けるところまで行って、もし交通止めになっていたら戻ってこようと思って、国道288号線を常葉から東に向かった。

このあたりは34年前、初任者として船引高校に着任してからの5年間、よく走った道だ。
家庭訪問もしたし、当時は地域の中学校や公民館などに担任が出向き、出身中学の地元で三者面談をしていたから、地域の主な中学校の学区は知っている。

個人的には都路村(今は田村市の都路)の岩井沢小学校の前で自損事故を起こして死にそうになったことがあるので、このあたりは忘れられない風景になっている(苦笑)。

都路を過ぎると、道はしだいに下り坂になる。しばらくいくと、この看板が目に入った。

「この先帰還困難区域 四輪車のみ通行可」


最初何気なく見過ごしたのだが、3枚、4枚と立て続けにこの立て看板が並んでいて、思わずクルマを止め、Uターンしてシャッターを切った。

当たり前のことだが、未だに帰還困難区域がある。この道路は、そこに続いている。
ただ、その周辺の地域は立ち入りが可能になっている部分も出てきたため、ここでは封鎖されていない。クルマだけが通れる道、ということだ。

人が歩けない道とはどういうことだろう。私たちの住んでいるところと、この帰還困難区域とは、歩いてはたどり着けない道でだけ繋がっている……看板一つで動悸がし始める。胸が苦しくなる。

今朝(8/23日曜)の民友新聞一面に、(素人は)原発事故以前に見た画像の種類によって、原発事故の受け止め方が違う。(そんな<愚かな>素人)を無理矢理専門家は説得するのではなく、データを正確に提供して、市民で議論してもらうことが必要だ、という記事が載っていた。


放射性物質を連想 原発事故前の視覚体験が影響 (2015.8.23民友新聞) 


http://www.minyu-net.com/news/news/0823/news7.html

子どもの頃の印象が残っていて、それを原発事故と結びつけ、結果として理解が不十分で、風評被害の原因の一つになっているみたいな記事だ。
なるほど、遠くにいる人にとっては、この語り方は理があると思う。きちんと線量を測って出荷している安全な作物を、根拠なく拒否されてしまうのは福島県民として悲しく、切ない。

それと同時に、ざっくりとした「危険」の印象でフクシマを受け入れたり拒否したりするのではなく、リアルな現場の感覚もまた、どこかで共有できたら、と思う。

私はたまたま現場を通り過ぎただけの人間だけれども、この看板一つとって見ても、福島の事故は深刻であり続けている、ということを、見ていない人と共有しておきたい。

それは、風評被害を払拭するということと無関係のことではない。福島は当然のことだが一つではないからだ。一つの印象でまとめようとするのは、思考の怠惰だし貧しさだ。

福島は、間違いなく「危機」の中にありつづけている。だから、一つのざっくりしたイメージだけでは掬い取れないたくさんの「課題」なり「局面」がある。
降りていくと、熊川海水浴場の看板が見えた。



その脇の細い道は、入ることができないように封鎖されている。大きい道は、作業のクルマだけを通すため、こんな看板が立っている道路もあった。


國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の読書会をすることになった。

2015年08月14日 10時35分46秒 | 大震災の中で
 仲間内でやっている読書会のレポーターが順番で回ってきたので、
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を取り上げることにした。
本当は『スピノザの方法』をやりたかったが、細部を自分で読み切ることはできないので断念。

『暇と退屈の倫理学』はとりあえず著者が歩む道筋をついていくことはできる。

そう思って読み直し始めてみると、第5章のハイデッガーの退屈論がどうしても飲み込めないところが残る。これは本文(もちろん訳です<笑>)に当たるしかないだろうという、ちょっとだけお勉強の意欲を持ち、ハイデッガー全集29/30巻をネットで購入した。

福島県立図書館にあるのは検索で分かったが、福島まで往復するのにコストが1万円ちかく(高速代+ガソリン代)かかるので、中古で7000円弱で買えるなら、その方がよかったので。

で、今読み始めたら、なんということだろう、ハイデッガーの講義は怖ろしく面白いのだ。

単に話が分かる、とか分からないとかいうのではない。

講義にはいろいろ迂回路や大げさな表現があってそれに引きずり回されるという面もないではないのだが、一つには國分氏の「導き」によって、大きなハイデッガーがもつ「思考の流れる方向」というか「性向」を指し示してもらっているから「安心して読み進められる」ということもあるだろう。そういう予めの方向の指し示し、があると、難解なテキストを部分的な表現で「怯えずに済む」、ということは間違いなくある。

たとえば、冒頭ノヴァーリスの引用解釈でもそうだ。
ノヴァーリスは哲学について

「哲学はほんらい郷愁であり、随所に、家に居るように居たいと欲(ねが)う一衝動である」

と書いていて、ハイデッガーはそこから「郷愁」を取り出し、さらに「世界内存在」における「有限性」という「われわれの有の根本様式」を導き出す。

國分先生は、後半の「随所に、家に居るように居たい」のハイデッガー解釈に疑問を呈した上で、前半の「郷愁」がハイデッガーの基本的なテキストの「欲望」だったのではないか、とさりげなく触れた上で「退屈」論を展開していく。

このあたり、師匠の導きが楽しいということはある。


だが同時に、師匠が指し示してくれる方向とは別に、ハイデッガーのテキスト自身が持つ力、繰り返し巻き返し寄せては返す波のように「波動」を発して、こちらがテキストを読む(講義を聴く)場所を巻き込んでいく力、の存在を感じるのも読書の現場の「事実」なのだ。

ぐいぐいと「あらぬ方向」へ引き寄せられるような力。読むという「解釈」にとどまらず、否応なく「問答」に巻き込まれつつ、引き寄せられていくのを感じる。そして10ページほど経つうちには

「われわれは見た、人間というこの謎めいたものの中で哲学が生起する、ということを」P16(ハイデッガー全集29/30巻『形而上学の根本諸概念』)

あるいは

「結局ノヴァーリスが郷愁と名づけているものは哲学することの根本気分である。」P18(同上)

ってなところに打ち寄せられることになるのだ。

ハイデッガーによれば「郷愁」をキーワードとして、「世界」と「有限性」と「単独化」がノヴァーリスのこの一句から導き出されるらしい。

へぇー、である。全然納得はいかない。

しかし、ハイデッガーが向かっていこうとしているその方向性はおぼろげながら見えてこないでもない。國分先生が指し示す大きな見取り図の中で、しかしハイデッガーのテキストが張り巡らそうとする磁場は、その見取り図の中で振動し、踊り出し、どこかへ連れて行ってもくれそうなのだ。

その分かる感じと話からなさを同時に受け止めるとき、テキストはどんな種類のものであれ、至福を私たちにもたらすことになるだろう。それは長年、乏しいながら読書を趣味としてきた私自身の実感だ。


そういう意味でいうと、カントでもスピノザでもハイデッガーでもそうなのだけれど、主著と呼ばれるものは、あまりに構築性が高くて、読んでも頭の中に入ってこないことがむしろ自然だ。

カントでいえば『純粋理性批判』よりは宗教論の方が、あるいは啓蒙とか世界平和について書かれたものの方が、スピノザでいえば『エチカ』よりは『知性改善論』の方が、圧倒的に読みやすいし、その世界に入って行きやすい。

ハイデッガーもそうだ。この講義は、「読める」。そう、『天空の城ラピュタ』の登場人物ムスカが「読める、読めるぞ~!」といったあの「感激」がここにはある。

それは書かれていることが理解できる、とかいうことでは必ずしもない。読めたからといって分かると思うなよな、ということはある。

全く「読めないテキスト」は、魅力的ではあっても現実にはどうにもならない暗号のようなものだ。それに対して、どこか分かるような部分もありつつ、どんな振る舞いをするのか予断を許さないというテキストは、もしかすると「手に負えない」かもしれないけれど、「なんとか読めるかも知れない」という微妙なドライブのラインが想像でき、非常に強く惹かれる。

というわけで、読書会のレポートをそっちのけでハイデッガーの『形而上学の根本諸概念』を読みたくなってしまった。

最近6,7年ぐらい哲学のテキストを読む快楽を漁っているのだが、おおよそ、歴史的ビッグネームを読む時には、ちょっと周辺のテキストから読むと遊んでもらえることが多い、ということに気づいてきたのだが、これもその典型の一つ。

ハイデッガーの『放下』を読んだときもそうだった。これも國分先生がちょっと触れていた(ということはさりげなく紹介していた)テキストを全集でちら、っと見たら、これがメチャメチャ面白くてびっくりしたことがある。学問じゃなくていいんだけど、勉強する楽しみってこういうところにもある、と実感。

特にハイデッガーについていえば、言葉の巻き起こす磁場(単純にレトリック過多、といってもいいけれど、そうなると不要の文飾ってことになっちまう。

カントの宗教論(全集第9巻)を読んでいても感じたことだけれど、哲学者が繰り返し巻き返しぐだぐだと(失礼<笑>)こだわっている表現の中には、彼らの言説に渦巻く「欲望」がやっぱり感じられるわけで、それを味わわないなら、早わかりの解説本だけで読むのを止めておけばいいのだと思う。
本文に向き合う以上、それはあたかも読まれつつあるテキストとともに構築されていく「小説世界」のように哲学もまた読まれていく側面がありそうだな、あと……。元小説読みとしては感じたりもするのです。

とりあえず今日は、『暇と退屈の倫理学』をガイドブックにして、『形而上学の根本諸概念』を読んでいきます。日帰りのピクニックには少々歯ごたえがありすぎるかな?

でも、テキストはたとえどんなにひねくれたものであっても、いつも読まれることを待っている(読者は選ぶんだろうけどね)、そう思って出かけてきます(笑)。


川内の原発が再稼働してしまいました。

2015年08月12日 01時00分15秒 | 大震災の中で

2015年8月11日、川内の原発が再稼働してしまいました。

福島で原発事故をまのあたりにした者としては、復興まだ半ばであり、10万人以上の避難者がいる現状、そして汚染された自然を回復していくために必要な長い長い時間を考えると、正直どうして再稼働するのかが飲み込めないままです。

ちょっと皮肉っぽく考えれば、確かに原発の施設は稼働停止していても大量の燃料や廃棄物を抱えており、それらの最終的な処分は決まっていない状態なのだから、どうせどうにもならないわけで、だったら

「今の(稼働できる)うちに動かした方が経済的にはおいしいんじゃないか」

と考える人がいるだろうことは想像できる。

でもね。その議論は次の事故が起こる可能性から目をそらしているし、それ以前に、今起こってしまっている大事故の状況を直視していないという印象を持たざるを得ない。

村上春樹も指摘しているように、何十万人の生活が影響を受ける原発事故を体験したものが、なおもその再稼働を主張するのは、計算可能性の範囲の中で経済的効率を優先させている「無思考」の結果だとしか思えないです。

今日も政府の要人が「事故については責任を持って対応」するとTVニュースで語っていたけれど、東京電力福島第一原子力発電所の事故の責任は誰も取っていないわけだしね。

福島の事故の総括もできないうちに再稼働っていうのは、正直どうかと思う。

今は、もしかすると世界的にいろいろ煮詰まってきている状況なのかもしれない、とも思う。
でも、だからこそ、落ち着いて「無思考」の罠がそこにあることを冷静に見つめつつ、これからのことを考えていった方がいいんじゃないかな。

原発事故を心配して川内原発の再稼働を反対するのは「感情論」に過ぎない、みたいなことをいう人もいて、「へー、そう考えるんだ」と感心してしまう。
「感情的」に反対だっていう側面もあると思うけれど、それは再稼働推進派の人たちの中にも幾分か「感情的な再稼働反対」にいらだつ「感情」みたいなものがあるんだろうな、とも思うし、そういう反応はあるよね、っていうことを踏まえていかないといけないんだろうと思う。

「感情的」であることが悪いっていうのもよく分からない。
だって、こんな福島みたいなことがあったら、そりゃ「感情的」にもなるよ。

それだけじゃ伝わらないから、言葉を選びつつ尽くして行かねばならない、とも思うわけだけれども。

私は
「悪いことはいわないから原発は止めておけ」
と言い続けます。
自分は避難せずに残ったけれど、子どもたちを避難させた体験もあるし、避難してきた人たちと共に過ごしてその実情を聴いたりもし、復興の現状を見ているわけで、これは経済の問題として語って済ませられる性質の事柄ではない、という確信があります。

「悪いことはいわないから、原発は止めておいた方がいい」

Canon imageFOMULA DR-225W、なかなかいいですね。

2015年08月12日 00時32分19秒 | 大震災の中で
キャノンのドキュメントスキャナ DR-C225wの使用感を少し書いておきます。

今まで
 
FUJITSU ScanSnapS1500

というスキャナ(自炊目的の標準機種FUJITSU ScanSnap iX500の旧型)
を使って1500冊ほどPDF形式での書籍取り込みをやってきたが、重送(一度に紙を二枚送ってしまうエラー)が多くなったのに耐えられずに今度はキャノンの

imageFOMULA DR-225W

という機種を購入しました。自炊といえば富士通のs1500からix500の事実上1択だったのだが、去年発売されたキャノンのこの機種の評判がなかなかよく、今年になって発売になった富士通のiX500が、同梱ソフトの「改悪」(考え方によりますが)が中心だったことにいささか失望したこともあって、思い切ってチャレンジしてみたのです。

結果は、大正解。唯一自動でスキャンしたときの岩波新書の赤がくすんでいたのが気になる程度で、いわゆる自炊用ドキュメントスキャナとしては抜群の使いやすさと安定性を手に入れることができました。
消耗品の交換用ローラーも半額以下ですし。

S1500と比較して

良い点

1,読み取り速度が速い(S1500よりは確実に早いです)。
2,重送が少ない(というか10冊4000ページ程度試用した限りでは皆無。)
3,索引作成に時間がかからない(S1500の添付ソフトではかなりの時間を要した)
4,ラウンドスキャン(手前にスキャン済みの紙を保持する場所がある)なので場所を取らない。
5,スキャンモードをボタンとして作成できるので、直感的にモノクロ、グレースケール、カラー、高解像度、低解像度、送付先(クラウドを含む)を素材ごとに選択できる。
6,紙の厚みを選ばない(s1500では、厚めの文庫本などの薄い紙は重送しやすかった)。


ちょっと?な点

1,色が時々良くないことがある(24bitカラーを最初から指定すれば起こらない)。
2,長尺モードと通常モードを、スキャンソフト内で選べない(別途ユーティリティ立ち上げが必要)
3,一度にセットできる紙の枚数が文庫で50枚から60枚程度がギリギリ。S1500だと70枚ぐらいギリギリセットできた。
4,ラウンドスキャンだと端に不要な影が少し出ることがある(S1500同様の前に排出するモードではその現象は観られない)。まあ、読むのに支障は全くありませんが。

5,添付の編集ソフト(eCopy PDF Pro Office)は読み込みに時間がかかったり、読み取りソフトと連携がうまくいかないことがあったので今は使っていない。
慣れればいいのかもしれないが、現状はJUST PDFで処理。
編集はS1500についてきたScanSnap Oganizerの方が手に慣れていたせいか、使いやすかった。

いろいろ書きましたが、文字中心の本を自炊するなら、キャノンのDR-C225Wがおすすめです。

8/1(土)エチカ福島第5回を開催します。

2015年07月28日 22時43分32秒 | 大震災の中で
エチカ福島第5回 ワークショップ開催のご案内です。
よろしかったらぜひご参加ください。



お問い合わせはこちら。
エチカ福島Gmailアドレス
ethicafukushima@gmail.com
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テーマ
「教師の仕事を考える」
 ー教育の課題と可能性を福島で探るー

日時 2015年8月1日(土)13:30~16:30

場所 福島大学 M2教室

参加費 無料

日程
  13:00開場
  13:30趣旨説明
  13:45 報告1「地域に根ざした教育」 
  14:25 報告2「教育の湧き出る場所」 
  15:10 全体討議

参加者 どなたでも(大学生・高校生も大歓迎です。大学見学代わりに、あるいは教職のネタ準備にご利用ください)

参加申込み 不要です。当日ふらりとおいでください。

テーマ設定の趣旨

 教育は私たちにとって身近でありながら、何十年も前からの制度に縛られていたり、成果を手にするのが10年20年後だったりそします。それぞれの違いを尊重する場所でもあり、同時に共同性をはぐくむ場所でもありましょう。個人の自由と社会の公共性をどういう次元で出会わせていくか、も大きな課題です。

 エチカ福島では、今後<教育編>として、教育の課題と可能性を継続的に考えていく予定です。

 今回はその<教育編第1回>として、「地域教育」と「特別支援」の実践をしている公立学校の先生をお呼びし、現場からの報告をいただいた後で、そのことについてフロア全体で討議していきたいと考えています。
 お二人の実践は東日本大震災や原発事故と直接の関係はありません。
 けれども、それぞれがここに「違い」を抱えたまま分断線を生きる経験と、同時に共同性・ネットワークの再構築をこの大震災以後に経験してきた私たちにとって、「地域」について考えること、個々の違いに応じた「支援」を考えること、は教育の今日的課題であると同時に、福島の「今」を生きる上で避けて通れない課題でもありましょう。

後半話し合いの時間も十分取ってあります。
ぜひよろしかったらご参加ください。高校生・大学生・一般の方・現職の教員、どなたでも大歓迎です。

正直な話、現場の実践について、技術論・方法論・制度論や社会的視点ではなく、じっくり教育の根本からさかのぼって考えてみる機会は、現場の教師でもそうあるわけではありません。

いやむしろ、現場にいるからこそ、目の前の授業やイベント、事務や部活動などに忙殺されて、日常の繰り返しの中に埋もれてしまっているのが実情かもしれません。

夏休みの土曜日、ゆっくりじっくり「教育」とかを、他の人のお話を聞きながら考えたり話したりしてみませんか。

お待ちしています。

エチカ福島 共同代表 島貫 真

問い合わせはこちらへ。

エチカ福島Gmailアドレス
ethicafukushima@gmail.com

以前のイベントについては
こちらへ。

http://kitsuneinu.jugem.jp/

本deてつカフェ@ふくしま『はじめての福島学』開沼博氏を招いて編の感想

2015年07月14日 20時45分15秒 | 大震災の中で
Facebookに書いたけれど、メモ代わりにこちらにも転写しておきます。

開沼博さんを招いてのてつカフェふくしま
『はじめての福島学』
本deてつがくカフェの感想。
いろいろ面白かったです。
正直、それぞれのコトバを受け止め、噛み合わなさをじっくり味わいながら考えていくてつカフェの流儀と、開沼博さんの考えている? 「社会学のゼミ」的なイメージの齟齬が、今回は今ひとつ豊かに機能しきらなかった感じはありました。
もどかしさがなかったとはいえません。
「もっと開沼さんとガツンとやりとりしたいぜ」
という思いと、
「おいおい開沼さん、ここはてつカフェであんたのゼミじゃねえし」
という思いの葛藤、というか。
でも、
開沼さんが最後に吠えていた
「福島のレベルはこんなもんか。東京でやればもっと充実する。ここに今日きた人がもしゼミ生だったら潰してます」 
という挑発は、てつカフェと社会学の接近遭遇としてとても面白かったです。この本の 「敢えてする挑発」を、著者が参加者にも直接一発かます、ということだったのでしょう。
確かに、開沼博を福島のトップランナーとして走らせておいて、ないものねだりをするのはどうかと思います。 「お前たち、やることやれよ」というメッセージは感じました。
一般に、著者を前にすると
質問コーナー→自説の開陳→無い物ねだり
という流れにになりやすい。
そういう意味では、てつカフェ@ふくしまらしく、最後まで概ね場が抑制的にコントロールされていて良かったんじゃないかなあ。
以下は個人的な思い。
私たちは個人として 「物語」を生きるものだし、愚かな感情に振り回されもする。そういう風にできてもいる我々が、なお 「思考」し続けるとしたなら、人称を経由しないもしくはそれ以前のところにアプローチしていかねばなるまい、と私は見ている。
開沼博という名前を持つテキストと人物との出会いが、どんな形で私たちがこの福島に生きることとつながっていくのか、答えはもう少し先にある、と感じる。
『はじめての福島学』は、そのロイター板(ふみきりばん)のようなモノかもしれないなあ。
データの提示はありがたかったが、
「福島へのありがた迷惑12箇条」はいささかしつこいし、読後感も悪い。煽りというか釣りというか、実に賢い人のプライベートなクソブログを読んだ感じ。
それをあえて 「公共空間」に出すことの 「プロレス効果」をどう受け止めるか。
ずっとこの感じだとつらいっす。
釣りや煽りはそれとして、さてではどうする?というリアクションが要請されていると受けとめた。
私は
8/1、エチカ福島第5回
で考えるよ、というのがとりあえずの応答。社会学の学問的成果は尊重するけど、 「あおり」の戦略はテキストの領域だから、そうそう素直には受け取らない。
感想を書かずに帰ってしまったので、メモ代わりに書いちゃいました。

とにかく、参加して良かったです!


追伸
開沼博氏と上野千鶴子氏の対談がここに。

https://cakes.mu/posts/9323

荻上チキ氏と開沼博氏の対談はこちら

http://www.netapod.com/2015/04/blog-post_22.html


ネットの烈風吹きすさぶ中で4年間フクシマのイメージと向き合ってきた開沼氏の立ち位置はリスペクトに値すると思う。

まあだが、『はじめての福島学』のスタイルはこれだけで勘弁して欲しいところ。

正直、このスタイルだとしまいにお金を払いたくなくなっちゃう。まあ、それも織り込み済みってことになるんだろうか。

そのあたり、本人が織り込み済みならいいってもんでもないだろう、と言ってみたくもなるけれど、それは一〇年後ぐらいに取っておくべきなんだろうね。

どこまで歩いていってくれるのか、待ちます。だって、私には歩けない道だから。開沼氏は開沼氏のやり方でいくんだろう。
誰かがやらなくちゃならない。よろしく頼む。


私は私のやり方でもうすこしぐずぐずしてみるよ。


本deてつカフェ@ふくしま『はじめての福島学』開沼博氏を招いて編の感想

2015年07月14日 20時45分15秒 | 大震災の中で
Facebookに書いたけれど、メモ代わりにこちらにも転写しておきます。

開沼博さんを招いてのてつカフェふくしま
『はじめての福島学』
本deてつがくカフェの感想。
いろいろ面白かったです。
正直、それぞれのコトバを受け止め、噛み合わなさをじっくり味わいながら考えていくてつカフェの流儀と、開沼博さんの考えている? 「社会学のゼミ」的なイメージの齟齬が、今回は今ひとつ豊かに機能しきらなかった感じはありました。
もどかしさがなかったとはいえません。
「もっと開沼さんとガツンとやりとりしたいぜ」
という思いと、
「おいおい開沼さん、ここはてつカフェであんたのゼミじゃねえし」
という思いの葛藤、というか。
でも、
開沼さんが最後に吠えていた
「福島のレベルはこんなもんか。東京でやればもっと充実する。ここに今日きた人がもしゼミ生だったら潰してます」 
という挑発は、てつカフェと社会学の接近遭遇としてとても面白かったです。この本の 「敢えてする挑発」を、著者が参加者にも直接一発かます、ということだったのでしょう。
確かに、開沼博を福島のトップランナーとして走らせておいて、ないものねだりをするのはどうかと思います。 「お前たち、やることやれよ」というメッセージは感じました。
一般に、著者を前にすると
質問コーナー→自説の開陳→無い物ねだり
という流れにになりやすい。
そういう意味では、てつカフェ@ふくしまらしく、最後まで概ね場が抑制的にコントロールされていて良かったんじゃないかなあ。
以下は個人的な思い。
私たちは個人として 「物語」を生きるものだし、愚かな感情に振り回されもする。そういう風にできてもいる我々が、なお 「思考」し続けるとしたなら、人称を経由しないもしくはそれ以前のところにアプローチしていかねばなるまい、と私は見ている。
開沼博という名前を持つテキストと人物との出会いが、どんな形で私たちがこの福島に生きることとつながっていくのか、答えはもう少し先にある、と感じる。
『はじめての福島学』は、そのロイター板(ふみきりばん)のようなモノかもしれないなあ。
データの提示はありがたかったが、
「福島へのありがた迷惑12箇条」はいささかしつこいし、読後感も悪い。煽りというか釣りというか、実に賢い人のプライベートなクソブログを読んだ感じ。
それをあえて 「公共空間」に出すことの 「プロレス効果」をどう受け止めるか。
ずっとこの感じだとつらいっす。
釣りや煽りはそれとして、さてではどうする?というリアクションが要請されていると受けとめた。
私は
8/1、エチカ福島第5回
で考えるよ、というのがとりあえずの応答。社会学の学問的成果は尊重するけど、 「あおり」の戦略はテキストの領域だから、そうそう素直には受け取らない。
感想を書かずに帰ってしまったので、メモ代わりに書いちゃいました。

とにかく、参加して良かったです!


追伸
開沼博氏と上野千鶴子氏の対談がここに。

https://cakes.mu/posts/9323

荻上チキ氏と開沼博氏の対談はこちら

http://www.netapod.com/2015/04/blog-post_22.html


ネットの烈風吹きすさぶ中で4年間フクシマのイメージと向き合ってきた開沼氏の立ち位置はリスペクトに値すると思う。

まあだが、『はじめての福島学』のスタイルはこれだけで勘弁して欲しいところ。

正直、このスタイルだとしまいにお金を払いたくなくなっちゃう。まあ、それも織り込み済みってことになるんだろうか。

そのあたり、本人が織り込み済みならいいってもんでもないだろう、と言ってみたくもなるけれど、それは一〇年後ぐらいに取っておくべきなんだろうね。

どこまで歩いていってくれるのか、待ちます。だって、私には歩けない道だから。開沼氏は開沼氏のやり方でいくんだろう。
誰かがやらなくちゃならない。よろしく頼む。


私は私のやり方でもうすこしぐずぐずしてみるよ。


第5回エチカ福島を開催します

2015年07月01日 03時26分28秒 | 大震災の中で
エチカ福島第5回 ワークショップ開催のご案内です。
よろしかったらぜひご参加ください。



お問い合わせはこちら。
エチカ福島Gmailアドレス
ethicafukushima@gmail.com
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テーマ
「教師の仕事を考える」
 ー教育の課題と可能性を福島で探るー

日時 2015年8月1日(土)13:30~16:30

場所 福島大学 M2教室

参加費 無料

日程
  13:00開場
  13:30趣旨説明
  13:45 報告1「地域に根ざした教育」 
  14:25 報告2「教育の湧き出る場所」 
  15:10 全体討議

参加者 どなたでも(大学生・高校生も大歓迎です。大学見学代わりに、あるいは教職のネタ準備にご利用ください)

参加申込み 不要です。当日ふらりとおいでください。

テーマ設定の趣旨

 教育は私たちにとって身近でありながら、何十年も前からの制度に縛られていたり、成果を手にするのが10年20年後だったりそします。それぞれの違いを尊重する場所でもあり、同時に共同性をはぐくむ場所でもありましょう。個人の自由と社会の公共性をどういう次元で出会わせていくか、も大きな課題です。

 エチカ福島では、今後<教育編>として、教育の課題と可能性を継続的に考えていく予定です。

 今回はその<教育編第1回>として、「地域教育」と「特別支援」の実践をしている公立学校の先生をお呼びし、現場からの報告をいただいた後で、そのことについてフロア全体で討議していきたいと考えています。
 お二人の実践は東日本大震災や原発事故と直接の関係はありません。
 けれども、それぞれがここに「違い」を抱えたまま分断線を生きる経験と、同時に共同性・ネットワークの再構築をこの大震災以後に経験してきた私たちにとって、「地域」について考えること、個々の違いに応じた「支援」を考えること、は教育の今日的課題であると同時に、福島の「今」を生きる上で避けて通れない課題でもありましょう。

後半話し合いの時間も十分取ってあります。
ぜひよろしかったらご参加ください。高校生・大学生・一般の方・現職の教員、どなたでも大歓迎です。

正直な話、現場の実践について、技術論・方法論・制度論や社会的視点ではなく、じっくり教育の根本からさかのぼって考えてみる機会は、現場の教師でもそうあるわけではありません。

いやむしろ、現場にいるからこそ、目の前の授業やイベント、事務や部活動などに忙殺されて、日常の繰り返しの中に埋もれてしまっているのが実情かもしれません。

夏休みの土曜日、ゆっくりじっくり「教育」とかを、他の人のお話を聞きながら考えたり話したりしてみませんか。

お待ちしています。

エチカ福島 共同代表 島貫 真

問い合わせはこちらへ。

エチカ福島Gmailアドレス
ethicafukushima@gmail.com

以前のイベントについては
こちらへ。

http://kitsuneinu.jugem.jp/

第5回エチカ福島を開催します。

2015年07月01日 03時25分50秒 | 大震災の中で
2015年8月1日(土)福島大学M2教室で
「教師の仕事を考える」
というワークショップを開催します。

どなたでも無料で自由に参加できます。
これから教職を志す大学生・高校生の方にもぜひ。

報告者は小中学校の現役教諭です。第一線で活躍している方の報告を踏まえ、教育の課題と可能性をじっくり考えたいとな思います。
今回のポイントは
「差異(ちがい)と共同性(つながり)」

詳しくは下のパンフレットを。


『図書館の魔女』(上・下)高田大介著 講談社刊を読了。

2015年05月10日 22時40分27秒 | 大震災の中で
『図書館の魔女』(上・下)高田大介著 講談社刊を読了。

読み終わった直後の満足感の中で、すぐに誰かに勧めたくなる本と、誰に勧めようか、と考える本とがある。

そしてこの本は間違いなく後者だ。

もちろん、実際にはどんな本だって相手を選んで「推薦」しなければならない。
薦められて迷惑ってことはあるだろう。
「猫に小判」か「釈迦に説法」かってだけの話じゃなくて、むやみに「お薦め」すればいいってものじゃあない。

この本は読者を選ぶんだろうなあ、と思った。

第45回メフィスト賞受賞。

アマゾン『図書館の魔女』はこちら

とにかく書き過ぎ(=語り過ぎ)というぐらい書いているのだが、なにせ「図書館の魔女」が主人公なのだからその言葉に対する拘りや蘊蓄も、描かれている対象とシンクロしていてかつそれがこの小説の骨格を支える前提となってもいて、かつ面白いのだから文句をいう筋合いではない。

だがそれにしても、ストーリーの割には分量が長い。続編も出ているようだが、さらに続いていくのだろう。
図書館の中の少年と少女の関係という小さな物語と、国と国の存亡を賭けた権謀術数渦巻く政治・軍事のお話とを関連づける「大風呂敷」はまず見事といっておきたいなあ。

私は図書館の匂いがしてくるような本の話題や言葉を巡るいろいろを味わっているだけで幸せでしたが。

ファンタジーファンに薦めるべきなのか、いわゆる図書館モノが好きな読者に推すべきなのか、それとも言葉フェチ・「言語探偵モノ」(そんなジャンルがあるとして、ですが)におすすめすべきなのか、迷ってしまう本です。

作者は言語を専門とする研究者だという。ル・グィンや上橋菜穗子、エーコもそうだが、私にとっては学者肌の人の書く「物語」が面白い。

素人には分からないような難しくて面倒くさい蘊蓄が、単なる小説の「ケレン味」としてではなく、世界像の基盤や骨格、あるいは肝心な物語の核を支える大切な力となっている作品には、格別の読む喜びがある。

そんなこんなで誰に勧めたらいいのか分からないけれど、おすすめです。



前の記事に関連して「医者自身が病気になったら“治療拒否”したいケース30」

2015年05月06日 18時52分24秒 | 大震災の中で
前の記事に関連して、同じく

President ONLINE

で、こんな記事が。

医者自身が病気になったら“治療拒否”したいケース30

http://president.jp/articles/-/15155

確かに切ないけれど、考えておいて悪くはない、と思います。選択の余地も時間もなく、深刻な事態は突然襲ってきます。

そのときのことはそのときになってから考えるしかない、というのはもちろん正解。

でも、時間があるときに少しシミュレーションしておくのも、そんなに荒唐無稽な話でもない、とも思います。

考え得る全てを網羅してあらかじめ準備する、とかいった「神経症的」なやり方はどうかな、という気がしますが、大きな方向性とか、ぎりぎりの分岐点で判断を下すための理性の使い方など、全く準備していないようでも困るし、後悔の元でしょう。

人生は一回しかない。だから、ぎりぎりのところで、失敗とか後悔とか成功とか満足とかを超えてその「生」を受け止めることの方が大切だ
し、だから、どこまでどう考えて生きるのか、何が自分にとって大切なのか、優先順位を漠然とであれ考えておくべきでしょう。

たとえば、私は今田舎に住んでいて、緊急事態に対応できる病院まではいきなり車を運転しても30分から50分はかかります。渋滞時に救急車を呼べば、1時間以上は免れない。
その場所に住んでいるリスクは、織り込んでおくべきだし、それは単なるあきらめとは違う。
ある種の覚悟というか、ね。

抗がん剤だって、どこまでがんばるのか、はいつも考えています。そのときになってみないと分からないし、家族の立場と自分自身の場合でも違うのでしょう。
いざとなって考えが変わるかもしれない。迷いだって出てきて当然だし。

それでも、50代半ばも過ぎてくればいろいろと空想から想像へ、想像から心構えへ、心構えから準備へ、と考えが進んでいくものかもしれません。

この記事、自分が「治療拒否」するかどうかは全く別だけれど参考になりました。