100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「中米」編 グアッパ2

2007年07月16日 09時04分50秒 | 中米

 そこで標準的?な「グアッパ」を紹介しておきます。ニカラグアのレオンの郊外にあるレオン・ビエホ遺跡(注)の現地ガイドです。時間が遅くなり背景は暗くなっています。

 (注) 1524年にスペイン人によって作られた入植地で火山の噴火で破壊され遺跡になりました。

 ついでに各地域での現地ガイドを紹介した日を記しておきます。ご覧いただければ幸いです。

 05 10 18 (西暦年 月 日 以下同じ)ルーマニア  

06 2  21 ブルガリア

06 2 27  トルコ

06 3 21  イギリス

 06 5 13  ヨルダン

06 5 15  シリア

 06 5 19  レバノン

06 11 9  中国

 06 11 19  中国

06 12 27  トルクメニスタン

 07 2 18   エルサルバドル

 07 5 1   トルコ

07 5 3   ギリシア

 07 6 22 マリ共和国

 07 7 4  ニカラグア 

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「中米」編 グアッパ1

2007年07月16日 08時52分58秒 | 中米

 この写真は何の変哲も無いように見えますが私には忘れられない一枚です。場所はニカラグアのグラナダの銀行前です。国外に出稼ぎに行っている肉親からの送金を引き出しに行列している人たちです。その話しを聞いてカメラを向けたところ怖い顔をして写すなとこの人たちに言われました。一瞬ひるんだ私ですが、思わず1人の女性をさして「グアッパ!」と叫びました。その瞬間険しい空気が和み写真の許可が出たようでした。そこで一枚というわけです。

 ところでこの「グアッパ」ですが、スペイン語で「美人」という意味です。しかし「グアッパ」は、ただの「美人」を意味するだけではないようで、不思議な魔力をもっているようです。その後もこれに味を占めて「グアッパ」を乱発しましたが、この言葉は当の女性だけでなく周りの男性をも和ませるようです。中米(南米も?)にお出かけの方はぜひお試しあれ。ところでこの写真に「美人がいますかね」は愚問です。

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「中米」編 コスタリカ・コーヒー園3

2007年07月14日 08時51分45秒 | 中米

 農園で働いて帰宅をしている人たちです。

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「中米」編 コスタリカ・コーヒー園2

2007年07月14日 08時49分00秒 | 中米

コーヒーの実です。

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「中米」編 コスタリカ・コーヒー園1

2007年07月14日 08時43分06秒 | 中米

 コスタリカのコーヒーは有名で、コスタリカの三大輸出品のひとつです。(他はバナナと電子部品のマイクロチップ)そこでコーヒー農園を訪れました。

 追記

 前回紹介したロベルト・サモラさんの件で以前からすこし気になることがありました。それはウイキペディア(日本語版)の「(コスタリカ大統領は)アメリカのアフガニスタン・イラク攻撃を支持したが、護民官や市民団体の提訴を受けて****最高裁が違憲判定」という文章でした。そこで今回ピースボートを通じてロベルトさんに尋ねてみました。それによれば最初に提訴したのは間違いなく彼1人であったのが、後に彼に賛同して弁護士、後に国会議員になった人など4人がこの提訴に加わったそうです。もちろん市民団体その他の支援はありました。というわけでウイキペディアの記事は不正確というよりは間違いのようです。

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区8

2007年07月12日 09時03分55秒 | 中米

 同じ遠望写真をもう一枚。

 追記   

 7月8日にコスタリカの若者の話を紹介しましたが、一部訂正追加とその後の消息を紹介しておきます。彼の名前はロベルト・サモラといい法律を学ぶ学生です。このブログで紹介した同じ日の朝日新聞に彼のことが以下のように書かれていました。「昨春から日本のNGOピースボート(注)のスタッフに迎えられ、各地の講演で平和憲法の意味を説いている」 そこでピースボートに問い合わせてみました。彼が日本に最初に来たのは2005年(ブログでは昨年と書きましたが訂正)でその後帰国し昨年4月ピースボートに迎えられました。まもなくこの7月の下旬に帰国し12月に卒業論文を提出し弁護士の資格を得て社会人になるそうです。その後国内で働くか、国際機関で活躍するかは未定だそうです。 

 実はこのようなことを紹介したのは現地コスタリカのガイドに彼のことを尋ねた時違憲裁判については知っていましたが、その後の彼の消息については知らないということで気にかかっていたからです。

 (注)民間レベルの国際交流を目指すNGO

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区7

2007年07月12日 08時54分03秒 | 中米

モンテヴェルデ自然保護区を遠望した写真です。このようにいつも霧(雲)を被っています。これはカリブ海から暖かく湿った空気が常に吹いておりこれがこの地の山脈にさえぎられ雲になり熱帯雲霧林を造っているのです。

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区6

2007年07月10日 08時50分21秒 | 中米

 前ページの模様から5分も経たないうちに写真のように霧に覆われてきました。

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区5

2007年07月10日 08時46分15秒 | 中米

 写真はモンテヴェルデ自然保護区の昼食のレストランから見た風景です。このように晴れていたのですが熱帯雲霧林なので→次ページをご覧ください

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区4

2007年07月08日 08時45分45秒 | 中米

 天候に恵まれるといっても、熱帯雲霧林ですから、写真のように霧が突如として湧?いてきます

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区3

2007年07月08日 08時42分10秒 | 中米

 このモンテヴェルデの成り立ちがすこし面白いので紹介しておきます。始まりは1949年アメリカ合州国のアラバマに住む4人のクエーカー教徒(注1)の徴兵拒否(注2)から始まります。彼らは牢獄から開放された後、11家族44人のメンバーで軍隊のない自然豊かなこのコスタリカに1951年土地を購入し3分の1を開発せずに保護することを決め移住したのがこのモンテヴェルデ自然保護区の始まりです。彼らは自然主義者ですからこの道路は舗装されていません。したがってこの地の車での移動は難渋のきわみでした。  

 (注1) イギリス清教徒革命の最中の17世紀の中ごろイギリ スのフォックスの唱えたプロテスタントの一派。クエーカー(quaker 震える人)は神の声を聞いて震えるから。(一種のトランス状態)しかし当人たちはフレンド派と呼んでいます。絶対的平和主義者として良く知られています。余談ですが、現在の天皇の少年時代の家庭教師ヴァイニング夫人はこのクエーカー教徒でした。そのためか?現天皇は小泉さんや安倍さんよりは平和主義者のように見えるのですが。

 

 (注2) ウイキペディア(英語版)では朝鮮戦争の徴兵拒否としていますが年代からいって間違いです。朝鮮戦争は1950年です。しかし最初の4人に途中から合流した人たちには朝鮮戦争徴兵拒否者がいたことは十分考えられます。

 

 写真はスカイウォークから見た景観です。天候に恵まれ森林浴は充分に楽しめましたが、肝心の多種多様な動物が生息しているとのガイドブックの記述にもかかわらず一匹、一羽の動物にも出会うことはありませんでした。特にハチドリ、ケツアールが生息しているとのことでしたが。時期が悪かったのでしょうね。

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区2

2007年07月06日 08時56分58秒 | 中米

 スカイウォークの橋を下から見た写真です。

橋が途中で切れているように見えますが霧のため見えなくなっているためです。

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「中米」編 コスタリカ・モンテヴェルデ自然保護区1

2007年07月06日 08時51分43秒 | 中米

 コスタリカといっても我々日本人にはなじみが少ないのですが、以下の二つのことは知っておく必要があるような気がします。

 1つは日本国憲法第9条と同様に軍隊を持たないことを憲法で決めているということです。それに関連して、アメリカのアフガニスタン・イラク攻撃を支持したコスタリカ政府に対して1人の若者が異議申し立てを最高裁にして、最高裁は政府の決定に違憲の判定をしました。その異議申し立てをした青年が昨年日本に来てその経験談を話しました。 

 もう1つは地球上すべての生物種のうち5%が棲むといわれ環境保護先進国として名高い国だということです。国立公園・自然保護区の総面積は全国土の4分の1を超えます。

 今回はその1つモンテヴェルデ自然保護区を訪れました。ここは熱帯雲霧林というジャングルなので地上からは見えないところを約50メートル高さにかけられた橋(7本ある)から樹上の生態系を観察するという仕掛け?スカイウォーク(空中散歩)があります。写真はその橋の1つです。

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「中米」編 ニカラグアのガイドさん

2007年07月04日 08時59分30秒 | 中米

 (旅程図は2007年1月14日をご覧ください。但しお粗末)アメリカ大陸には「サラダボール」か「るつぼ」のいずれかを問わず多民族、多人種が混住しています。ニカラグアのガイド、フランシスコ・ポラスはユダヤ人でした。(写真はニカラグアのマナグアで撮影したものです) 彼の先祖は改宗カトリック教徒のユダヤ人でスペインのアンダルシアで法官をしていましたが迫害からのがれるため17世紀コスタリカへ移住→パナマ→ニカラグアにやってきました。彼はユダヤ人であることに非常に誇りを持っているようでした。イスラエルに強い共感を抱いているようでした。サンディニスタ民族解放戦線FSLN(現大統領の選出母体)は大嫌いのようでした。したがってゲバラ(注1)も「余計なお節介者」として嫌っていました。

 (注1) ゲバラについては2007年2月18日にすこし紹介して います。

 なお、中米での現地ガイドについては、2007年2月18日と2007年4月27日にも紹介しています。

 蛇足 

 イスラーム教国であったスペインがレコンキスタにより15世紀末キリスト教徒に奪い返され、それまで平和共存していたイスラーム教徒、ユダヤ教徒は迫害されるようになります。イスラーム教徒は全員国外追放になります。ユダヤ教徒の対応は二つに分かれます。1つは国外に移住した人たちで「セファルディム」と呼ばれます。も一つはカトリック教徒に改宗してスペインに留まった人たちでした。しかし彼らはマラーノ(豚)と賎称され差別され国外に脱出する人たちも多かったのです。フランシスコ・ポラスの先祖もその1人でした。

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「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人6

2007年07月02日 09時00分16秒 | マリ共和国

 マリ共和国は1960年フランスから独立しました。そのとき奴隷制廃止が決まりました。世界最後の奴隷制廃止?

 トンブクトゥの街中を観光している時、添乗員の本橋さんはここが昔奴隷だったベラ人の居住地だと案内してくれました。ところが帰国してまもなく「環境と文明の世界史」(p155)という本を見てびっくりしました。「今でも奴隷制度が残っているのは北アフリカのトゥアレグ族ですよ。アムネスティ・インターナショナルが再三非難していますが、周辺の黒人種族を奴隷にして今もこき使っています」

 (余談ですがこの本p164には「インカはまれに見るやさしい文明です。少なくとも古代文明のなかで、ほぼ唯一といっていいほど、奴隷をもたなかった文明でしょう」と書いてありました)

 ウイキペディア(英語版)でも奴隷のいう名前は別として現実はそのまま奴隷が存続しているとしています。 

 トンブクトゥの自由時間でぶらぶらしている時1人の少年に出会いました。前述のトゥアレグ人の少年以上に片言の英語(というよりは殆ど通じない)でなんとなく会話をしていると物をねだる様子もなく家に来いというのでついていきました。何人かと尋ねても返事はありませんでした。家の中には何もなくなぜかヒチリンに火がありお湯が沸いていました。母親は病気らしく寝ていました。別れるときポツリと「ベラ人」だといいました。要求されませんでしたが、幾ばくかのお金を別れる時に渡しました。何人か?と聞いたこと、お金を渡したことが、良かったことかどうか、いまだに良く判りません。

 写真はこの少年の家です。

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