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100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「西アフリカ」編 マリ共和国 ジェンネ1 大モスク1

2007年09月06日 09時02分09秒 | マリ共和国

 写真は「100年後には見られない可能性が一番高い世界遺産」とされているジェンネの大モスクです。「泥モスク」などと日本語では言われていますが余り品の良い言葉でないので「日乾しレンガモスク」と呼びたいと思います。またそのほうが実態にも合います。

 この壁から突き出ている棒(トロン)は修理の時の足場です。毎年、年に一回の雨季の後代々技術を受け継いだ約90人の専門の職人とともに4000人のボランティアが参加して修理をします。この仕事は単なる補修作業ではなく、信仰心を表す神聖な宗教行事で、一種のお祭的現象を呈するそうです。

 26代目ジェンネ王コイ・コンボロがイスラーム教に改宗した記念に1280年創建されました。その後1819年イスラーム原理主義者(lonely planet による)によって破壊されました。その後1907年に再建されました。 

 屋根は100本の柱で支えられ奥行き75m、高さ20mで1000人の信徒が収容できます。非イスラーム教徒は現在中には入れません。以前、色々トラブルがあったようです。


「西アフリカ」編 マリ共和国 モプティ3

2007年09月04日 09時01分59秒 | マリ共和国

 マリは馴染みの少ない国なのでほんの少しだけ紹介しておきます。

 面積は日本の3.3倍(以下特記しない限り外務省のホームページより)、人口1390万(2005年)、23以上の民族からなる多民族国家、宗教はイスラーム教80%(ウイキペディアでは90%)伝統的宗教(ウイキペディアでは10%)キリスト教(ウイキペディアでは1%)です。言語は旧宗主国のフランス語が公用語で、多数民族の4つの言語が国語となっています。(ウイキペディアによる) 在留日本人17人(2005年)、在日マリ国人128人(2005年)。

 言葉では面白い経験があります。後日紹介する予定のドゴン人の集落を訪れた時のことです。マリを通じてのガイドは添乗員と英語ですが、ドゴンでは、ドゴン人ガイド→ドゴン語→当地ガイド、当地ガイド→フランス語→マリガイド、マリガイド→英語→添乗員、添乗員→日本語→我々、ということになります。

 なお余談ですが、マリガイド、アブドゥラさん(この名前は以前紹介したことがありますが意味は神の奴隷ですからイスラーム教徒であることはすぐ分かります)はかなり以前になりますがTBS系列で放映されたニジェール川のドキュメンタリ番組に出演した森本哲郎氏の通訳を務めたそうで彼の名刺を見せてくれました。

 モプティに戻りますが、前回紹介したようにアフリカのヴェニスですから、写真のような船でニジェール川クルーズとシャレました。ニジェール川はかなりの川幅があり大河ですが水深は浅いようでした。


「西アフリカ」編 マリ共和国 モプティ1

2007年09月02日 08時39分36秒 | マリ共和国

 「西アフリカ」編を再開します。旅程図は2007年6月16日をご覧ください。

 またこの「西アフリカ」編の画像はすべてこの旅程図も含めて一度クリックして右下に出る拡大のアイコンをも一度クリックしてご覧ください。 

 今回紹介するモプティは前回のトンブクトウとは逆に20世紀になってフランスの植民地政策で発展した町で非常に活気を感じました。ニジェール川とバニ川の合流した場所の3つの島からなる町でそのことからアフリカのヴェニスとも呼ばれています。交通の要衝です。人口11万8千人ですが、なぜかウイキペディアの日本語版ではマリ共和国で二番目の人口とあり、英語版では四番目と書いてありました。 写真は活気のある市場の様子です。

 なお、前回サハラ砂漠の岩塩の写真をトンブクトウで写したものと書きましたが、このモプティでの写真の間違いでした。訂正します。


「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人6

2007年07月02日 09時00分16秒 | マリ共和国

 マリ共和国は1960年フランスから独立しました。そのとき奴隷制廃止が決まりました。世界最後の奴隷制廃止?

 トンブクトゥの街中を観光している時、添乗員の本橋さんはここが昔奴隷だったベラ人の居住地だと案内してくれました。ところが帰国してまもなく「環境と文明の世界史」(p155)という本を見てびっくりしました。「今でも奴隷制度が残っているのは北アフリカのトゥアレグ族ですよ。アムネスティ・インターナショナルが再三非難していますが、周辺の黒人種族を奴隷にして今もこき使っています」

 (余談ですがこの本p164には「インカはまれに見るやさしい文明です。少なくとも古代文明のなかで、ほぼ唯一といっていいほど、奴隷をもたなかった文明でしょう」と書いてありました)

 ウイキペディア(英語版)でも奴隷のいう名前は別として現実はそのまま奴隷が存続しているとしています。 

 トンブクトゥの自由時間でぶらぶらしている時1人の少年に出会いました。前述のトゥアレグ人の少年以上に片言の英語(というよりは殆ど通じない)でなんとなく会話をしていると物をねだる様子もなく家に来いというのでついていきました。何人かと尋ねても返事はありませんでした。家の中には何もなくなぜかヒチリンに火がありお湯が沸いていました。母親は病気らしく寝ていました。別れるときポツリと「ベラ人」だといいました。要求されませんでしたが、幾ばくかのお金を別れる時に渡しました。何人か?と聞いたこと、お金を渡したことが、良かったことかどうか、いまだに良く判りません。

 写真はこの少年の家です。


「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人5

2007年06月28日 09時13分06秒 | マリ共和国

 地中海⇔サハラ砂漠⇔トンブクトゥ⇔ギニア湾沿岸という交易中継地としてトンブクトゥは栄えたと前述しました。ところでその交易品はギニア湾沿岸からは「象牙」(ご存知の通り今でも象牙海岸という名前が残っています)、「金」(同じく黄金海岸)、「奴隷」(同じく奴隷海岸)がもたらされます。トンブクトゥを中継してそれをトゥアレグ人などの交易遊牧民がラクダ(注1)でサハラ砂漠を越え地中海交易に載せます。アラブとヨーロッパからの「ぜいたく品(luxury goods )」と途中のサハラ砂漠の岩塩を持ち帰ります。その塩はギニア湾沿岸地域へもたらされます。 

 (注1)ラクダは1500年または2000年以前(2説)にこの地にもらされ、サハラ交易が可能になりました。 

 この「金交易」について意外に知られていないことを紹介しておきます。エジプト、ギリシア、ローマなどでは昔から金は珍重されましたが、アフリカではそれほどのことはなく外部からの刺激により金採掘が行われるようになりました。そしてサハラ砂漠を中継してのこの西アフリカは11世紀~16世紀の国際経済で最も主要な金供給地(注2)になりました。中世後期ボヘミアで金鉱山が発見されるまで世界の生産量の3分の2を占めていました。

 (注2) 黄金国ジャパンを目指したコロンブスに対してポルトガルはこの金を目指してアフリカ西部海岸を南下したのです。しかしこの地に到達した頃はすでに枯渇寸前だったようです。

 「塩交易」は今に至るまで細々とトゥアレグ人によってサハラ砂漠からラクダに乗せられ運ばれています。その模様の同行取材がNHK?で最近放映されました。(今ではトゥアレグ人の大部分は定住生活をしています)

 写真はトンブクトゥの市場での塩です。厚さ5センチ、30センチ角の岩塩は日本円に換算して20円くらいでした。買って帰り食べて?見ましたが美味でした。しかし怠け者の私はそのたびにハンマーで粉砕することが面倒で5年たった今でも半分残っています。そこでグルメ嗜好の皆さんに無料で提供することにしました。先着一名様ということでお譲りします。コメントなどで最初に連絡いただいた方にお譲りします。トゥアレグ人によって運ばれてきたサハラ砂漠の塩、大変貴重ですよ。 

 次回は伊藤さんの「中東のコーヒーと結婚」の予定です。乞う、ご期待。


「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人3

2007年06月26日 08時52分57秒 | マリ共和国

 トンブクトゥにはかの有名な大旅行家イブン・バトゥータが1353年に訪れ半年間滞在しています。

 1588年~1853年に少なくとも43人のヨーロッパ人がここを目指しましたが成功したのはたった4人だけでした。最初に到達したのは1828年のスコットランド人のGordon Laing でしたがここで殺されます。次にやってきたのはおなじ1828年フランス人のRene Caillieでした。彼はアラビア語とイスラーム教を勉強してイスラーム教徒と偽ってここに滞在しました。ここを訪れ生きて帰りヨーロッパに情報をもたらした最初のヨーロッパ人が彼でした。写真は彼が滞在したヤヒアモスクの壁にある彼の銘碑です。

 寺島さんコメントありがとうございました。チョボひげを思い出しました。「ギリシア」編は今後断続的に掲載予定です。間違いを書く可能性もあるのでそのときはぜひこの欄でご注意をお願いします。また寺島さんのギリシアに限らず世界各地での面白い話があればこのブログに投稿してください。今後ともよろしくお願いします。


「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人2

2007年06月24日 09時09分10秒 | マリ共和国

 トンブクトゥと聞いて何かわかる日本人は数少ないでしょう。

 しかし、ヨーロッパではすこし意味合いが違うようです。「ウイキペディア英語版」に「この町は神秘的、神話的なイメージを今日まで残している。イギリスの若者に尋ねた2006年のBBCの調査によれば34%がその存在を信じていないが、残りの66%が神話的場所(mythical place)との回答があった」と書かれています。 

 また同じウイキペディアは遠い場所を「ここからトンボクトゥまで(from here to Timbuktu)と表現すると書いています。というわけで、この町はヨーロッパ人にはかなり以前から神秘的、神話的な存在として知られていたようです。 

 このトンブクトゥ(Tombouctouは旧宗主国のフランス語で現在のマリ共和国の公用語でもあります。Timbuktuは英語)はトゥアレグ人の季節的なキャンプ地として10世紀ごろ始まります。その後地中海⇔サハラ砂漠⇔トンブクトゥ⇔ギニア湾沿岸の交易中継地点として栄えます。(交易内容については次回に紹介予定)そしてイスラーム文化、教育の中心地となり、最盛期にはコーラン学校180、人口100万人といわれました。この地を中心にいくつかの国家の興亡がありますが、対外的にこの地を有名にしたのはマリ王国(マンデ人の国家 現在のマリ共和国名はこの国名に由来します)のマンサ・ムーサ王(在位1312~37)でした。彼はメッカ巡礼に1万人(うち奴隷500人)の隊列を率い40頭のロバに大量の金を運びました。道中のカイロで気前良く金を喜捨しカイロの金相場が下落したという有名なエピソードがあります。

 これがヨーロッパの人々にこの地を神秘的なものにしました。 しかし、その後、対外戦争や、ポルトガルが直接にギニア湾沿岸に到達するなどでサハラ越えの交易が廃れ衰亡の一途をたどります。その上に最近では乾燥化が進みこの町全体がサハラ砂漠の砂に埋もれる危機に瀕しています。現在人口は2万人と推定されています。この地は世界文化遺産に1988年に指定されましたが、1990年~2005年には危機状態にあるとされました。

 写真は町のメインストリートです。


西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人1

2007年06月22日 08時55分45秒 | マリ共和国

 西アフリカ訪問(マリ共和国、ガーナ共和国、ベナン共和国)は2002年のことなのでフイルム写真も記憶も劣化しつつあります。そこで「中国シルクロード」「中米」「ギリシア」に続いて「西アフリカ」編を時々入れることにしました。今後4編を順番に紹介していきます。旅程図は6月16日をご覧ください。 

 最初にサハラ砂漠の周辺諸国(ニジェール、マリ、ブルキナ・ファソンなど)に100万人~350万人と推定されるトゥアレグ人を紹介します。

 トンブクトゥの空港で飛行機待ちをしていた時1人の少年に出会いました。片言の英語で話をしました。勿論マリ共和国は多民族国家なので君は何人か?と尋ねました。彼の答えは「トゥアレグ人」との答えだったので、私「ラクダドライバーだな」。彼「イエス、そしてベラはロバドライバーだ(注1)」。私(ちょとからかい気味に)「日本人は?」。彼「ヤマハ(注2)ドライバーでアメリカ人は飛行機ドライバー」という答えが返ってきました。お見事!

 (注1) ベラ人はトゥアレグ人に隷属する奴隷。これについては後述の予定。

 (注2) この地方での単車は日本のヤマハのようです。誇らしげにヤマハの自動二輪を乗り回している青年に出会いました。

  写真を見てください。(アフリカ編の写真はすべてフイルム写真なのでこの6月16日にお願いした方法でご覧ください)どうです、誇り高く、威厳のある民族でしょう。トンブクトゥでのトゥアレグ人ガイド、モハメッドさんです。それに対して隣にいる日本人(私)の頼りなさ。背景の土のモスクに突き出た棒のようなものは修理の時の足場だそうです。

 この服装から彼らは「青い民、藍の民」とも呼ばれます。彼らの宗教は民族伝統の宗教色を遺しながらのスンニ派のイスラム教徒ですが、面白いことに女性はヴェールを被りません。成年男子だけです。この服装は砂漠の風と砂から身を守るためと、悪霊から身を守る(ウイキペディア英語版説)、厳格な階層社会なので目上の人を直視しない(lonely planet 説)ためなどの説があります。

 宮崎駿の「風の谷」のナウシカのイメージのモデルはこのトゥアレグ人だそうです。

 彼らは誇り高い民族ですが、各々の国々では少数民族です。そのため自前の国家または自治権を要求してそれぞれの国と対立してきました。ここマリでも1990年~1996年にかけて内戦がありました。今は一応収まっていますが、各国ともまだ火種は残っているようです。


「世界の砂漠」編 マリ共和国 サハラ砂漠7

2007年06月20日 09時09分09秒 | マリ共和国

  ラクダドライブしていた時、砂漠の井戸に出会いました。 

 次回から「アフリカ」編としてこのトゥアレグ人とその奴隷ベラ人を紹介します。 

 (附録)  先日NHKで「新シルクロード ウズベキスタン、キルギス編」が放映されました。そこでブハラのユダヤ人が紹介されていました。このブログでも2005年12月9日、11日で紹介しているので参考にしていただければ幸いです。そこでは当時600人のユダヤ人が居住していると書きましたが、今回のテレビでは150人にまで減少しているとのことでした。画面にかってのアメリカの国務長官オルブライトさんが登場しましたが、彼女はキリスト教徒(カトリック?)のユダヤ系アメリカ人です。

 なおここはツアー観光コースに入っていません。


「世界の砂漠」マリ共和国 サハラ砂漠6

2007年06月20日 09時04分24秒 | マリ共和国

 やはり砂漠といえばここもラクダです。(こちらが本場?)このラクダに乗ってサハラ砂漠をドライブしました。ドライバーはトゥアレグ人です。

 世界各地でラクダに乗りましたが、普通、ラクダに乗るときはラクダが急激に頭を持ち上げ、降りる時は急激に頭を下げるので、特に私のように手に障害があるものには危険です。しかしここのラクダは地面に平行に行動してくれるので助かりました。さすがラクダの名ドライバー・トアレグ人です。