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100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代2 トルヒーリョ2

2009年08月08日 08時24分55秒 | スペイン・ポルトガル

 このトルヒーリョ(現在の人口9700人)からは600人がアメリカ大陸にコンキスタドールとして出掛けました。このマヨール広場に面してアメリカ大陸で財を成した多くのコンキスタドールの館が建ち並んでいます。その一つがピサロの異母弟のエルナンドが建てたコンキスタ侯爵邸です。エルナンドの息子が国王からコンキスタ(征服)侯爵という貴族の称号をもらったことでこの名前がつけられています。

 この写真(実物も)は見難いですが、ピサロとその妻のイネスの浮き彫りがあります。イネスは滅ぼされたインカ王国の国王アタワルパの先代の国王の娘です。二人の間には子供が出来ますが、まもなくイネスを捨て部下にやります。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代1 トルヒーリョ1

2009年08月06日 08時17分15秒 | スペイン・ポルトガル

 日本で戦国時代が終わり余ったエネルギーを海外に向けた秀吉の朝鮮侵略があります。スペインでも同じことが起きます。1592年グラナダの無血開城でレコンキスタ(戦国時代)が終わり、その年コロンブスのアメリカ大陸到達します。その後スペインの荒くれ者たちが一攫千金を求めてアメリカ大陸に出かけます。(スペインのカテドラルや美術館などで金ぴかのものを見れば大体アメリカ大陸からの略奪品だと見て間違いないようです)そこで略奪、殺戮のきわみを尽くします。その人たちをコンキスタドールといいます。レコンキスタのレ(再)という字がないが無い征服者というわけです。(コンキスタドールについては2008年1月13日にも少し触れています)

 このコンキスタドールの多くを生んだ地方がトルヒーリヨ、グアダルーペ、カセレス(2009年3月29日地図)などのエストレマドゥラ地方です。 このコンキスタドールの代表的人物がインカ帝国を滅ぼした(1532年)トルヒーリョ出身のフランシスコ・ピサロです。トルヒーリョのマヨール広場(スペインでは街には必ず広場がありその大きい広場を言います)に彼の銅像がありました。

 堀田善衛の「スペイン断章」(p123)は次のように描写しています。

 「鉄の鎧兜に身をかため、細身の長い剣を斜め下に突き出した馬上像である。この馬までが兜様のものをかぶっている。インディオたちはそれまで馬を見たことはなかったそうで、馬それ自体が素肌の彼らにとって今日の市民対戦車のようなものとして見えたのであるらしい。****この馬上像は、異様なことに、あるアメリカ人の女性彫刻家が作ったか、作らせかしたものであった。」


「スペイン・ポルトガル」編 レコンキスタと城塞17 アビラ3

2009年08月04日 08時31分46秒 | スペイン・ポルトガル

 アビラは聖女テレサ(1515~582)が生まれ育った町としても有名です。写真は彼女が生まれたところに建てられた修道院です。カトリックの世界では著名な人物です。先祖はユダヤ教からの改宗者と言われています。 

 また、この地のゆかりの人物としてはユダヤ教徒からの改宗者で悪名高い異端審問裁判所の大審問官(裁判長?)トルケマーダ(1420~1498)がいます。この裁判所は国家権力と協力し、ユダヤ教やイスラームからの偽装改宗者摘発、プロテスタントの排除の機関です。その裁判長でもっとも悪名高いのがこのトルケマーダで2000人以上を死刑台に送ったとされています。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に登場する大審問官のモデルになりました。彼はアビラの近くバリャドリッドに生まれアビラで幸せ?に眠りについたそうです。


「スペイン・ポルトガル」編 レコンキスタと城塞12 クエンカ1

2009年08月02日 08時22分23秒 | スペイン・ポルトガル

ここクエンカ(3月29日地図)も典型的な城塞都市です。11世紀にイスラーム勢力が城塞を築き、1177年キリスト教勢力にレコンキスタされました。かなりの坂道をオッチラ・オッチラと登りました。途中で脱落した人もいました。スペイン人は今日でもこのような高地に住む人がいるのですね。


「スペイン・ポルトガル」編 レコンキスタと城塞11 トレド2

2009年07月31日 08時26分03秒 | スペイン・ポルトガル

 トレドは写真で見るように高い岩場にある城塞都市なので水の確保が古来より問題でした。16世紀にイタリアの時計技師、機械技師ファネロ(スペイン名)なるものが水揚機を作り宮廷内部の貯水槽に満々とした水を溜めることに成功しました。そこで「コロンブスの卵」という諺は古くスペインでは「ファネロの卵」に由来するそうです。


「スペイン・ポルトガル」編 レコンキスタと城塞10 トレド1

2009年07月31日 08時20分40秒 | スペイン・ポルトガル

 トレド(3月29日地図)はローマ時代交通の要所として栄え、560年以後はゲルマンの一派西ゴート王国の首都になり711年にイスラーム勢力に滅ぼされ、その後ウマイヤ朝が崩壊した後にイスラームの小国家(タイファ)の首都になり1085年にカトリックカスティーリヤ王国にレコンキスタされました。この1085年は長いレコンキスタ運動の中でもっとも重要な年とされています。このように古来より政治的に重要な都市であったので写真で見るように典型的なスペインの城塞都市の面影を良く遺しています。写真の中央がアルカサス(城)です。 

 少し余談噺を。1085年よりカトリック教国に支配されましたが1942年まではカトリック、ユダヤ、イスラームは平和的に共存していました。12世紀から13世紀、「トレドの翻訳グループ」と呼ばれる学者が活躍しました。イスラーム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の共同作業によって、古代ギリシア・ローマの哲学・神学・科学の文献がアラビア語からラテン語に翻訳されました。この成果が中世西ヨーロッパに大きな刺激を与えました。すなわちギリシア・ローマの古典文化はここトレドからアラビア語からの翻訳により西ヨーロッパに伝えられたのです。


「スペイン・ポルトガル」編 レコンキスタと城塞8 ロンダ3

2009年07月29日 08時31分26秒 | スペイン・ポルトガル

 スペインは諸王国の分裂抗争時代が長かったのでロンダのみならずこのように外敵に簡単に攻められないような日本で言う山城の要塞が多く現在もそこを中心に街が発展しています。添乗員の堤さんがスペイン人は高いところが好きなようですという話をされていました。

余談噺 

 日本では山城も戦国時代最盛期にはたくさん作られますが後期ごろから平城が多くなり山城を中心とした町は形成されませんでした。現在残されている天守閣をもつ山城は岡山県高梁市の備中松山城だけです。勿論現在の高梁市の街は城から歩いて20分ぐらい下りたところにあります。


「スペイン・ポルトガル」編 レコンキスタと城塞6 ロンダ1

2009年07月27日 08時34分11秒 | スペイン・ポルトガル

ロンダ(3月29日地図)は1485年フェルナンドレコンキスタ軍によって攻略された断崖絶壁の城塞都市です。フェルナンドは堅固なつくりに正面からの攻撃をあきらめ水の供給を止めるという戦略で1週間で攻略したという話が残っています。

 以下断崖絶壁の街の写真を3枚。