goo blog サービス終了のお知らせ 

100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

89
歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「スペイン・ポルトガル」編 ナポレオン時代1 忠誠広場1

2009年08月22日 08時26分46秒 | スペイン・ポルトガル

 ゲリラというカタカナ言葉は誰でも知っていますが、スペイン語起源であることは比較的知られていないかもしれません。スペインは一時ナポレオンに支配されていたことがあります。ナポレオンの兄がホセ1世としてスペイン王になりました。(1808~1813)そのときスペイン各地で抵抗運動がありました。その抵抗の戦いがスペイン語のゲリラ(小戦争)でした。これ以後ゲリラという言葉が世界に広まりました。

  そのゲリラの象徴的戦いがゴヤの「5月3日」(ただし一方的にスペイン人が射殺される場面)に描かれている1808年のマドリードでの蜂起です。この蜂起を顕彰して1840年に建立されたのが写真の忠誠広場のオベリスクです。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代13 リスボン3 発見のモニュメント2

2009年08月18日 08時25分16秒 | スペイン・ポルトガル

 こちら側の先頭はアフリカ王という異名のあるアフォンソ5世(1432~1481)です。次が誰でも知っている喜望峰を回ってインドに到達したヴァスコ・ダ・ガマ(1460~1524)です。彼はアフリカ東海岸からインドにかけてはアラブ人水先案内人を雇いました。この海域は古くから季節風モンスーン(モンスーンはアラビア語起源)を利用しての交易が盛んでした。

 この水先案内人について遠藤晴男はその著「オマーン見聞録」(p63)で以下のように書いています。「ヴァスコ・ダ・ガマの水先案内人を務めたのはオマーン人の有名な船乗りのアハメッド・ビン・マジッドで*****。筆者は、日本に最初にやってきたポルトガル船にもオマーン人が乗っていなかったと調べてみたが、その痕跡は全く見当たらない」


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代12 リスボン2 発見のモニュメント1

2009年08月18日 08時18分06秒 | スペイン・ポルトガル

 ポルトガルのレコンキスタ完了はスペインより早く1249年でした。したがって海外侵攻も早く具体的には1415年の北アフリカのセウタ(現在スペイン領土で北アフリカにある飛び地)侵略に始まります。このようにポルトガルの海外侵攻は最初アフリカから始まります。それはコロンブスが黄金郷ジャパンを目指したのと同じくアフリカの金でした。アフリカの「金」とヨーロッパの関係ついてはこのブログの2007年6月28日に紹介しているので参考にしてください。

 この海外侵略に重要な役割を果たした人物がセウタ侵略にも参加したエンリケ航海王子(1394~1460)です。その没後500年を記念して1960年に作られたのが「発見のモニュメント」です。先頭が彼です。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代11 リスボン1 1541とアリガトウの怪?

2009年08月16日 08時16分22秒 | スペイン・ポルトガル

 日本がヨーロッパ人と最初に接触したのはポルトガル人であることは誰でも良く知っています。それは1543年種子島に漂着した船にポルトガル人がいてそれが鉄砲伝来にもなります。ところが、ポルトガルの首都リスボンにエンリケ航海王子(後記予定)の500年忌を記念して作られた発見のモニュメントの広場のモザイク世界地図にはポルトガル(にとっての)の日本「発見」年号が1541年になっています。写真をご覧ください。

 「地球の歩き方」には「これはポルトガル船が豊後に漂着した年だ」とありました。釈然としない私は大分県の教育委員会に電話をしてみました。電話に出ていただいた田中裕助さんはきっぱりとその「1541年豊後漂着説」を否定されました。1545年、46年には豊後に居住していたが、それ以前については何らそれを証明するものはないとのことでした。

 さて困りました。鹿児島県の教育委員会、種子島の「鉄砲伝来記念館」にも問い合わせても良く判りません。そこで「日本の歴史14鎖国」(岩生成一著)(p11~13)に以下のことが書かれているのを見つけました。「ヨーロッパ人の日本島発見の年代については***1543年と信じられているが、***じつは***これまでヨーロッパ人の日本島発見の年代については、まだ決め手になるような、決定的な明確な資料は発見されていないのである」として1541年~44年までの諸説が紹介されています。1541年説については「1536年から数年間、フィリッピン群島の南にあるモルッカ諸島の司令官であったアントイオ・ガルバノの『世界探検史』には1541年のこととしている」と書かれています。というわけで私はこのガルバノの1541年説を「発見のモニュメントの広場」は採用したのではないかと今は思っています。

 なおこのことについては「地球の歩き方」の編集部の小坂さんには伝えておきました。 

 ガイドブック”lonely planet”ではどのようになっているかと調べてみると1543年となっていました。ところがその後に”Portuguese brought new words to the language , including pan (bread ) and arrigato(thank you)”(p31)とあるのにはビックリしました。パンのポルトガル語起源はこれまた良く知られていますが、アリガトウがポルトガル語起源とは全く初耳です。「地球の歩き方」編集部の小阪さんにこのことを話したところ彼はそのことをポルトガル人から聞いたことがありますと話してくれました。これまた困りました。 ところがウィキペディアの英語版のJapanese words of Portuguese origin の項目には以下のことが書かれていました。

 「ポルトガル語の“obri gado”が日本語の「アリガトウ」の語源だという説が良く言われているが、これは全くの間違いである。ポルトガルとの接触以前の万葉集にすでにアリガトウの言葉がある」 というわけでポルトガルではこの間違った「オブリガド→アリガトウ」説がかなり広まっているようです。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代7 グアダルーペ

2009年08月12日 08時27分59秒 | スペイン・ポルトガル

 グアダルーペはレコンキスタ、コンキスタドールの「守護聖母」が祀られている修道院があります。 1300年頃羊飼いがこの地で木彫りの聖母像を見つけたのがこの修道院の始まりとされています。これに祈願したカトリック勢力がイスラーム勢力に勝利したことからレコンキスタの守護聖人になります。その後コロンブスがアメリカから帰国しここにお参りをしてカリブ海の島を奉納してからはコンキスタドールの守護聖人になりました。またコロンブスはインディオをここに連れてきて洗礼を受けさした話は有名です。

 中世から近世にかけては以前紹介したコンポステーラ(2009年5月22日、24日)よりは巡礼の人が多かったようです。現在も南アメリカのカトリック教会の本山的な地位にあります。 

 メキシコのグアダルーペにカトリック教公認の聖母出現譚があります。ここの出店?ですかね。

 なお、このグアルダルーペという名前もファティマ(2009年5月10日、12日)と同じくアラビア語起源(隠された河)というのも面白いですね。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代4 トルヒーリョ4

2009年08月10日 08時23分02秒 | スペイン・ポルトガル

 このトルヒーリョの街もやはり城塞都市でマヨール広場から少し小山(丘)に登ったところに10世紀にイスラーム教徒の作ったアラブ城がありました。写真はこの城の入口で城門のアーチ形はアラブの名残を残し上部の窓には町のキリスト教の守護聖人「勝利の聖女」が祀られています。


「スペイン・ポルトガル」編 海外侵攻時代3 トルヒーリョ3

2009年08月08日 08時30分57秒 | スペイン・ポルトガル

 こちら側にはエルナンドとその妻のフランシスカの浮き彫りがあります。フランシスカは前述のピサロとイネスの間に生まれた娘です。ということは叔父、姪の結婚というわけです。

 ピサロにはこのエルナンドを含めたくさんの兄弟がいますが、すべてコンキスタドールになります。しかしピサロを筆頭に仲間内の争いが絶えず、無事にトルヒーリョに帰りついたのはこのエルナンドだけでした。 

 なお、インカ滅亡後のインカ女性についは近著「インカとスペイン帝国の交錯」(網野徹哉著、講談社)の「女たちのアンデス史」という章に興味深い記述があります。またこの本は「帝国の内なる敵 ユダヤ人とインディオ」という章もあり大変勉強になりました。