日本には陸続きの国境はありません。そこで陸続きの国境は私の好奇心はそそります。国境線も色々です。全く自由に通過できるEU間、北アイルランド⇔アイルランドでは標識もなく何時国境を通過したのが分かりませんでした。それに反して国境越えに数時間かかり周辺の写真撮影が禁止され、怖い顔をした入国審査官のパスポート審査ということもたびたびあります。
すでに紹介したようにブータンはごく最近まで鎖国状態だったのですが1960年代になって首都ティンプ~インド国境のプンツォリンまで道路が開通して事実上開国となりました。そこでインドそして世界への道の拠点になったのがプンツォリンでした。全くの山村であったプンツォリンは今ではブータン第二の人口2万人を擁する町になりました。ちなみに首都ティンプは人口5万人です。
写真を見てください。この金網が国境なのです。金網の向こうがインドで手前がブータンのプンツォリンです。インド側の町がジャイガオンですが、この町とプンツォリンと隣接しているというよりは一つの町がインドとブータンに分かれている感じです。
グローバル化はインフラだけではありません。伝染病もグローバル化しています。エイズがそうです。2009年10月22日に南アフリカとレソトでのエイズ予防のポスターを紹介しました。ブータンではエイズの患者が沢山いるとは聞いていませんが、エイズ予防の掲示板がありそれがなかなか面白いので紹介します。インド国境に近いサムドゥプ・ジョンカン(2011年8月23日地図)で見ました。国境の町ということに何か意味があると感じました。ゾンカ語と準公用語の英語で書かれていました。私の下手な日本語訳を付けておきます。
「私はコンドームです。あなたの友達です。決してあなたを裏切りません。あなたは私を常に信頼できます。あなたをエイズから守ります。あなたの人生に幸せをもたらすことができます。あなたに役立ちます。セックスの時に私を使用することで後悔することのないことを請け負います」
今まではパロにだけに空港があったのですが、今月(2011年9月)開港するというタシガン空港を訪れました。霧の中にあり最初は何も見えませんでした。写真はその後、霧がかなり晴れたときに撮ったのですが周りには何もなく本当に2011年9月に開港したのかな。
付録
一昨日NHKTVで外国人の日本観光について放映されました。そこで、外国人の日本観光のトップの観光スポットは「広島原爆記念館」と紹介されていました。私が海外で日本から来たと話すとかならずと言っていいほど「東京」に続いて「広島」という反応が返ってきます。「京都」より「広島」の方が認知度が高いようです。
写真は1990年に作られたパロ空港です。標高2200mの山間部にあり滑走路2kmです。山間部にあるため電波が利用不能のため有視界飛行です。世界で一番着陸が難しい空港だそうです。(画面中央部が滑走路です)
私たちの旅行はこの空港からでなくインド経由の陸路で国境の町プンツォリオンに入り東に向かいました。(2011年8月13日地図)
ブータンの外貨収入で最も重要なのはインドへの水力発電での売電です。水力発電と言っても大規模なダムを作っての発電ではありません、小規模な発電所です。写真は分かりにくいですがブータンで最初に作られた(1986年)チェカ発電所です。
ブータンの道路事情を説明するに最も理解しやすい数字をあげると以下のようになります。パロ~タシガン(2011年8月23日地図)の直線距離は190kmですが道のりは590kmです。3倍以上ですね。日本では林道でも直線距離の1・6倍以内だそうです。(「現代ブータンを知るための60章」p56)これはヒマラヤ山中にあるという地形上やむをえない側面があります。アップダウン、カーブで直線道路はありません。手の届くような地点まで3,4時間かかることも稀ではありませんでした。しかし、パキスタンの道路のように恐怖を感じるような道路事情ではなく安心してのドライブでした。ちなみにブータンには鉄道はありません。
前回紹介したように道路整備はインドの援助で始まりましたが、現在もインドの援助で舗装化と2車線化(片道1車線)による拡張化が進んでいます。写真のようにインドからの労働者によるほとんど手作業での道路整備が行われています。
2011年8月23日、2021年9月13日~11月30日で 中断していた「ブータン」編を再開します。
ブータンは最近まで事実上鎖国状態でしたが、現在は開国?して近代化、グローバル化の波に襲われています。
2011年10月7日に紹介した「登山禁令」、2011年11月30日紹介のプラスチックの使用販売の禁止、2011年9月19日紹介の森林伐採許可制などその対応の例でしょう。
今回は主にインフラの側面から近代化、グローバル化のいくつかを紹介します。
ブータンでは1960年までは車が通れる道路はありませんでした。したがって勿論車も一台もありませんでした。
1954年生まれの後に先代国王の后妃(国王の家族関係については2011年9月16日をご覧ください)になるドルジェ・ワンモ・ワンチュックが1963年生まれ故郷ブナカ(2011年8月23日地図)からブータン国境近くのインドの学校へ留学することになり、まず首都ティンプへ馬で3日、そこからインドからの援助によるこの年開通した自動車道路をジープでのインド国境近くのプンツォリオンの行程をその著「幸福大国ブータン」(p107)で次のように述べています。
「この旅はティンプまではゆっくりとして楽しかった旅と対照的に、自動車旅行への入門としての火の洗礼であり、悪夢の旅でした。と同時に***未知の世界のへの入門**新しい惑星への旅立ちでした」
さて写真は首都ティンプのメインストリートです。車も見えますね。御堂のような建物がありますが、ここに警察官がいて交通整理をします。以前ここに信号機がありましたが国王の「景観上似合わない」との一言で廃止になり、現在ブータン国内には信号機はありません。私の知っている範囲では信号機のない国はここ以外にマダガスカルがあります。
この写真は走行中の車からです。逃げようとしません。しかし車の少ないせいもあってか轢かれた死体は見ませんでした。帰りにインド領内を3時間ぐらい走行しましたが2頭の死体を見ました。
余談噺ですが、日本でもワンちゃん天国の時代があったのです。そう徳川綱吉の「生類憐れみの令」の時です。東京ドームの20倍の広さの土地に10万匹の犬が囲われていました。その土地には最近まで犬を囲っていたということから「囲い町」(東京都中野区)という町名が残っていたそうです。(「NHKブラタモリ」より)
もうひとつ。フランス旅行ではたびたび犬の糞をフン付けてフン慨した思い出があります。なぜかブータンではこれほど犬がいたにもかかわらず、被害には会いませんでした。犬のトイレでもあるのですかね。
2007年5月5日にギリシャのワンちゃん天国を紹介しましたが、ここブータンはもっと天国でした。写真のような風景は珍しくありません。毛並みもよく健康そうでほとんど寝転がっています。ほえもせず、餌をねだって近寄ってくることもありません。
ブータンでは殺生を嫌います。それがワンちゃん天国になったようです。このように昼間は平和ですが、夜になると一変します。私たちは毎晩のように犬の鳴き声で安眠を妨害されました。そう毎晩でした。
先代の国王の妃は「仏教の生きとし生けるものを敬うという教えは、ブータン人の信仰、風習に深く浸透し****問題が起こっていることも事実です。たとえば都市部での野良犬の増加***」(「幸福大国ブータン」p142)と述べています。
魚釣りも許可制で制限されています。現地ガイドのブタさんが世界地図を見て私にどこに住んでいるのかと尋ねたので鹿児島を指さすと「魚釣りができますね」とうらやましげにつぶやきました。
タシヤ・ツエという小さな村で見かけたゴミ収集車です。感動しました。こんな小さな村に!
普通のごみは土にかえりますが、プラスチックなどは腐敗しません。日本でもプラスチックのごみは至る所で見かけます。ブータンではプラスチックの袋などの使用・販売を法律で禁止したそうです。(「ブータンと幸福論」p77)
例を二つだけあげましたが、とにかくブータンはcleanです。そういえば私たちが旅行中お世話になったおんぼろ車を運転手さんは毎朝きれいに清掃していました。当たり前?そうですが掃除をしない国の人も今までたくさん経験しましたよ。