ブータンの国技は国王もたしなむ「弓」(ダーチェ)です。ただ伝統的な2本の竹の棒を結んだ弓は現在では使われることが少なく「洋弓」の使用が普通のようです。この弓の競技にパロで出会いました。数人が2組に分かれて競技をします。
ブータンの国技は国王もたしなむ「弓」(ダーチェ)です。ただ伝統的な2本の竹の棒を結んだ弓は現在では使われることが少なく「洋弓」の使用が普通のようです。この弓の競技にパロで出会いました。数人が2組に分かれて競技をします。
サムドゥプ・ジョンカの町は西の国境の町プンツォリンとはかなり違った雰囲気の町のようでした。インド人が多いようなので、「クズザンポ」と「ナマステ」を乱発して確認をしてみました。「クズザンポ」はブータンの公用語ゾンカ語で「こんにちは」、「ナマステ」はインドのヒンディー語で同じく「こんにちは」を意味します。町うちで店を開いている人の多くはインド人でした。この写真の人もインド人です。
前回紹介したように西の国境の町プンツォリンを出発して東方に向かい11日目に東の国境の町サムドゥプ・ジョンカに到着し、そこからインドに出国しデリーに向い帰国しました。(2011年8月23日地図)このようにブータン東方特にサムドゥプ・ジョンカに向かうのは比較的数少ないツアーコースです。理由はいくつかあるようですが、一つには治安問題があるようです。この地方はインドアッサム地方のインドからの分離、独立運動が盛んなところです。この分離独立派のゲリラたちがブータン側にも潜伏しています。このブータンに潜むゲリラ掃討作戦(2003年)については最近岩波のPR雑誌「図書」(2013年7月号)に元ブータン国立図書館顧問今枝由郎氏が仏教と戦争というテーマで紹介しています。
2009年にほぼ同じコースのブータン旅行の参加を申しこんでいましたが、その年この国最初の国会議員選挙のためこのサムドゥプ・ジョンカの国境が閉鎖されるということで取りやめになったことがありました。
というわけで、この比較的旅行客が訪れることの少ない東の国境の町サムドゥプ・ジョンカを紹介します。左の塀が国境です。
私たちはこの谷間にあるブータン西側の国境の町プンツォリンから1日の高低差2000メートル、直線はあってもせいぜい50メートルくらいというジグザグ道路を東へブータンを横断しました。写真はプンツォリンを山上から見たものです。谷間に市街地が見えて間に国境線があるはずですが分かりません。この山から岩を転がし止まった所までがブータン、向こうをインドにしたという伝説があるそうです。
前回、一つの町が国境線でインドのジャイガオンとブータンのプンツォリンに分かれているようだと紹介しましたが、実際の町の様相は全く違います。ブータンらしくプンツォリンはチベット仏教の寺、それに付随するマニ車などが目立つ町です。その象徴的存在サンドペルリ・ラカンという寺院です。(写真)「地球の歩き方」はブータンでは珍しい「都市型」寺院と書いています。
ここが国境入り口です。向こう側がインドです。写真を恐る恐る撮りましたが、誰も誰何する人はいませんでした。私たちはここを通ってインド側からブータンに入国したのですがほとんどフリーパスだったように記憶しています。