3月4日(土)の最後の目的は久留米市美術館で開催されている「生誕140年 吉田博展」を見ることでした。1月に日曜美術館の放送を見てからどうしても見たくなり、3つの目的が重なった今日になりました。
吉田博は1876年(明治9年)に久留米市京町に旧有馬藩士上田束の次男として生まれています。
少年時代について「生来運動や遠足が好きで、紙と鉛筆とを携えて山川を跋渉して、至る処で写生をした。山川の跋渉を好むのも、風景画家として身を立つるに至ったのも、此地の天然の感化に由るものが多いであろう」と紹介されている(美術新報)
14歳の時図画教師の吉田嘉三郎に非凡なる画才を見込まれて、吉田家の養子になる。その後東京に出て不同舎で洋画を学び、東京近郊に日の出から日没まで写生をする日々を送り、21才の夏、奥飛騨への2か月にわたる山籠もりの決死的写生旅行を行い、当時前人未到だった日本アルプスでは熊や狼に遭遇しながら、約150キロを難関辛苦の上踏破している。
前人未到の深山幽谷の経験で、単に自然を見たままで描けばよいというのではなく、自然に溶け込み、自然と一体になってこそ、人を感動させる風景画が描けるのだとする不動の信念を持つようになる。
日本の近代洋画界の流れが黒田清輝率いる派が「新派」と呼ばれ、不同舎は「旧派」と呼ばれるようになる。反骨精神旺盛な吉田博は片道旅費のみで決死の覚悟で渡米する。アメリカではデトロイト美術館を訪れ館長に水彩画を見てもらう機会を得、館長はその素晴らしさに驚嘆し、デトロイト美術館での展覧会開催を依頼、作品も売れ多額の収入を得る。ボストン美術館、ワシントンでも大成功を収め、ヨーロッパへ向かっている。
日本に戻ってからも活躍し、弱冠34歳で洋画家の重鎮の座に列している。
50才から木版画を製作するようになり、独自の新しい木版画に取り組んでいる。彫と摺りも自ら行い「大版」と呼ばれる大作も摺りのズレなど微塵もない見事な出来上りで感嘆する出来栄えで、他に例を見ない独自の創造として高く評価され、いまも世界的な人気を博している。版は平均30版以上、「陽明門」では96版重ねててあり、「とても木版画とは思えない」ような写実性は、薄い絵具を何度も摺り重ねたり、細かい版を重ね合わせてするという独特の技法から生み出されている。
帆船の木版画はダイアナ妃が書斎に飾っていたものと同じ絵で、心理学者フロイトも吉田博の木版画を所有していた。終戦後占領軍としてマッカーサーが来た時に「吉田は何処にいる」と尋ねている。(吉田博作品集 安永幸一著がら引用)
前置きが長くなってしまいました。展覧会では280点ほど展示してあり、その点数の多さは驚愕です。アメリカでも多数の作品が買われ、日本で買って持ち帰った作品も多数あるとの事ですので、吉田博は生涯の大半の時間を作品制作に注ぎ込んだのだと思います。
展示の一作、一作見ても全力を注いでいると感じます。そこには吉田博が言うように風景画に「感動」を感じます。風景の中に人の営みを感じさせ、吹く風や寒気、湿り気などの空気感も伝わってきます。
すごい人が居るんだなぁと思うと同時に高島野十郎の事も最近知り、自分の知識不足に呆れながらも見れて良かったと心から思いました。