再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える
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第3章 失敗だったフィジー移住
(3) 現地調査は十分だったのか
日本吉佐移民合名会社が英領フィジー諸島に契約移民を送り出す事業をいつから始めたかは、豪州のバーンズ、フィリップ社から、日本人移民派遣依頼が同社に出された時点、すなわち1893(明治26)年からスタートしたものと考えられる。
入江寅次はその著『明治南進史稿』(井田書店・昭和18年刊、136ページ)において、「二十二年(おそらく年号は「明治」であろう。:筆者補筆)軍艦金剛によってフィジー島に上陸した田代安定(1857(安政4)年-1928(昭和3)年)も、この島が邦人の移住地として好適なることを地学雑誌に発表(二十四年中)した由で、これがまた移民会社(ここでは、吉佐移民会社を指すものと思われる:筆者補筆)の判断の資料であったといはれる」1)(筆者補筆の部分を除いて、原文のまま)、とある。
移民事業を目的にした企業が、移民を送り込む先である国情、すなわち自然環境、社会環境について十分な調査を行わないまま、ただ相手側の需要に応えて移民を募集して送り込むという手法は、当時の移民会社に共通するものだったと思われる。それが英領フィジー諸島で発生した日本人契約移民の悲劇につながったものと考えられる。
吉佐移民会社がバーンズ・フィリプ社から日本人移民の派遣依頼があった際に、田代安定のフィジー諸島に関する「報告」を参考資料にしていたとしても、同社が会社独自の責任をもてるデータは持ち合わせていたとは考えられない。
鹿児島市教育委員会の『鹿児島市の史跡めぐり人物編』(平成2年2月発行)によると、田代安定は「南方植物の学者研究家として知られ、鹿児島市加治屋町に生まれた。東京へ行って勉強し、国の役所である内務省に勤めたが一時、鹿児島に帰り県庁に入った。
次いで、農商務省に移り、南方諸島の熱帯植物研究に打ちこんだ。特に、沖縄県八重山諸島の動植物・民族の調査に力を入れ、政府に八重山を開発するよう申し入れた。
しかし、政府がこの申し入れを断わったことに腹をたて、職を辞めた。その後、東大調査員として、沖縄県の石垣島や西表島の植物と民俗や習慣を調べあげた。また、台湾でキナなどの有用植物の研究と栽培に努力した。『東京人類学』という雑誌に発表した『薩南諸島の風俗余事について』という論文は大変価値のある資料といわれている。わが国の熱帯植物研究の第一人者といわれるとともに、八重山諸島開発の先駆者となった。
晩年、鹿児島高等農林学校に勤めて、南方の有用植物の指導にあたった」2)、と記されている。しかし、田代とフィジー諸島を始め南太平洋島嶼についての関わりに言及した記述はない。
フィジー島への日本人移民派遣の失敗は、移民の多くが脚気に罹り、現地において死亡する者が多出して、各耕区の雇主が、手がつけられなくなって、フィジー諸島への移民の受け入れを仲介した業者バーンズ・フィリップ社に相談の結果、同社が一時の猶予もない早急に帰還させる旨、吉佐移民会社に打電したことで同社の最高経営責任者佐久間が決断したものと推察できる。
フィジー諸島に渡った日本人の契約移民305人が4年弱の年季契約でフィジーに渡り、半年後にはその三分の一に相当する106人(内25人が帰途の船中で死亡)が脚気等の病で亡くなり、契約を打ち切って日本に送還されるという異常な結末となったことで、フィジーへの第二回目の日本人移民の募集がすでに行われていたにも拘らず日の目を見ることはなかったし、フィジーへの日本人移民事業は第一回目も含めて中途で頓挫することになったのである
(注)
1)入江寅次『前掲書』(上)、134-135ページ。
2)田代安定(1857-1928)鹿児島市加治屋町生まれ。南洋植物の研究家として知られ、東大調査員の任にもあった。フィジー諸島も訪問して、その「報告書」を公にしていたことから、日本移民合名会社がフィジーに移民を送るに当たって、会社とし調査をせず田代安定の「報告書」に依拠していたのではないかとみられている。田代安定を紹介する資料として、本文中にも記したが鹿児島市教育委員会編『鹿児島市の史跡めぐり人物編』(平成2年2月)がある。