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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(19)

2018年01月04日 10時03分38秒 | 島嶼諸国

    再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える

 (19)     

 

      第2章 フィジーに移住した日本人(4)  

 (2)日本人移民の契約内容と実態

  3)衣食住給付の内容

  ところで、給付される「衣」、「食」、「住」の契約の内容は次の①~③のようなものだった。①「衣」は、毎年「衣服(仕事着)」2組(ここで2組とは「上衣1枚、下衣或いは胴衣1枚」のことである。)、それに股引1足、わら帽2個、雨衣1枚、それに加えて毛布1枚が与えられた。

  ②「食」は朝(仕事に出る前1食)、昼(午後に1食)、夜(夕に1食)の3食、食材は一通り品目(表4【資料①】(終章で説明の予定)参照。)が示されていた。食材は雇い主が提供し、調理は自分で行う。③「住」もまた、契約証では、オーストラリアのクィーンズランド耕区で日本人移民が居住している家屋と同程度のものとなっていた。

  クィーンズランドのケースでは、契約証の第二条[ハ]において、「適当ナル家屋ノ準備六尺ニ三尺ノ臥眠場、及ビ日本流ノ浴場」となっていた。日本式の浴場は付いていたが、肝心な体を休める場所「臥眠場」は6フィート(6尺=約180センチ)×3フィート(3尺=約90センチ)の畳1枚分の広さに過ぎなかった。

  臥眠場とは、1日10時間労働を強いられているから、耕区内に設置された「一時的な休憩所」を意味するものと解釈できるが、条文では「適当ナル家屋ノ準備」と次の「六尺ニ三尺ノ臥眠場」の間にカンマがないので理解し難いが、おそらく住居は「適当ナル家屋ノ準備」をする。

  そして他に「六尺ニ三尺ノ臥眠場」を用意する。加えて「日本流ノ浴場」も付いている。善意に受け止めれば、そう解釈出来るのではなかろか。

  確かに、「適当ナル家屋」が一人ひとりに準備されるのではなく、割り当てられた耕区の移民全体に「適当ナル家屋ノ準備」がなされ、一人が使えるスペースが「六尺ニ三尺ノ臥眠場」であっても不思議ではないかも知れないのである。

  年季契約インド人移民の「住まい」の酷さを考えたとき、日本人移民一人が「六尺ニ三尺ノ臥眠場」が貸し与えられていたと考えられなくはないのである。

  しかし、もしクィーンズランドに送った移民のケースと同じとする契約証に沿うならば、フィジーの日本人移民たちの集合居住地についてもイメージとしては下記の図のように描けなくはない。

  クィーンズランド州はオーストラリア全体の四分の一の面積を占め、陸地面積は約1,700,000km2、それに対してフィジーの最も大きな面積を有するヴィチ・レヴ島の面積は約百分の一で10,429km2であることを考えれば、フィジーの場合1反歩の菜園場のあるクィーンズランドのようなわけにはいかないことは明らかだ。

  それとともにフィジー住民の保護政策との一体をなす土地所有制度の改革が行われたことで、外国人が自由に入手可能な土地はなくなったのである。

  日本人移民は、広島県賀茂郡組の50人と推察される。賀茂郡組の責任者畑田丈之助から、広島県移民代理人(世話人)土肥積宛に出された明治26年8月4日付書面において、賀茂郡組は、同年6月18日(日曜日)、クィーンズランドのマカイ港に上陸、アッシュバトン耕区に着く。

  船旅の疲れを癒すため19日は休養し、20日から作業に入った。賀茂郡組の耕区では砂糖製造が行われていたため、30名がその手伝いに、賄いに2名がそして18名が耕区の草取り作業に就いた、と記されていた。このことから、アッシュバトン耕区には50人が配属されたと考えられるのである。

  さて、彼らの住まいについて、クィーンズランドに移民した畑田丈之助は、当該書面(土肥積代理人宛)に、略図を描いていた。その略図には、①厠、②賄い場、③賄い場の向かって右側に湯屋、④その右に、1反歩の菜園場があり、⑤その南側に、縦4間、横7間半の長方形型人夫室2棟が左右に並んで建てられていた。

  1棟の面積は(1.8m×4)×(1.8m×7.5)=97.2平方メートルであるから約30坪、2棟で約60坪に賀茂郡組50人が生活していたと推察できる。もし、フィジー島においても「雇用条件」通り、クィーンズランドの場合に同じ条件であったとすれば、「1反歩の菜園場」は別としても、移民たちが暮らす住居及び関連施設については、以上に記した内容と同じだったのではないか、と考えられるのである。

  しかし、本当にそうだったか、どうか、筆者は不勉強のためフィジーに関する日本人移民の住環境に関する具体例を示した資料はいまだみていない。

  フィジー諸島全体の面積は、現在、フィジー統計局によると18、333km2であるが、ゴードン総督(知事)の改革では、当時(1880年)フィジー人の土地に対する権利を守るための条例”National Land Ordinannce”が制定された。

  その結果、フィジーの土地は3種類に分類注)された。そのうち、フィジー人の伝統的共同組織マタンガリ(Matagari)が所有している土地、すなわちネイティブランド(Native Land)が、全体の約83%に当たる15,216平方km2を占めている。

  この他、売買が自由な1,796.6平方km2がある。この土地がフリーホールランド(Freehold Land)と呼ばれている土地である。

  さらに英国王室が購入した土地クラウンランド(Crown Lond)が、約7%1,320平方km2相当ある。ネイティブランドの他は、さとうきび栽培耕区(プランテーション)等農業耕作用地として使える土地ではないと見られている。

  したがって、1893年頃にフィジーにおいて、クィーンズランド州のような、1反歩(300坪、900平方m)の菜園付きの移民集合住宅地を準備することが出来たかどうかは定かではない。その点についてはフィジーに関する平賀文書(『明治二十七年二月フヰヂ島移民関係書類 第一回』)にも残されてはいない。

  なお、1か月当たりの日本人移民が受け取る給金27シリングは、当時、円レートで凡そ10円から10円15銭1)だったから、その半分は3カ月まとめて日本に送金するか、又は半分を会社(移民会社)に預け、残り半分を家族に送金することになっていた。

  さらに渡航後18か月間は、上述のように、給金の四分の一を「信認保証金」として会社に預けておくことになっていたので、移民本人の日常のゆとりはほとんどなかったと思われる。

 

 (注)

  1) 外貨で受ける給金は、円レートに換算していくらになるかは、「相場の変動に依りて高低あるべしと雖も十円を下ることなかるべし」とある。広島県『前掲書(資料編)』515ページに収載されている広島県立文書館寄託『平賀家文書』「フィヂ島移民事業関係書類」(明治27年2月)の「『フィヂ』島移住民応募者心得」より引用。