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再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える(20)

2018年01月08日 09時57分03秒 | 島嶼諸国

     再論・南太平洋島嶼国「フィジー」について考える

 (20)     

 

      第2章 フィジーに移住した日本人(4)  

    (2)インド人年季契約移民の場合

    以上、フィジー移民に関する史料は、広島県立文書館で保管されている『フィヂ島移民関係書類第一回』1、『移民雑件』2など相当量存在する。それらは、広島県移民代理人(世話人)土肥積の死後、代理人を引き継ぎ関連する書類を所蔵していた平賀家から広島県に寄託されたもので、いまではきわめて貴重な史料となっている3)

    さて、土肥積代理人が、仲介役の移民会社(日本吉佐移民合名会社)に対して要求していた契約の内容は、ハワイやクィーンズランドの日本人移民のケースとほぼ同じ内容の契約条件を求めていたと言われている。それは、土肥積と移民会社の間でやりとりした書簡からも明らかである。

   すなわち、1)給金は月26シリングを下がらないこと、2)出稼ぎ年限は3年であること、3)移民の年齢は22歳以上、33歳以下であること、4)労働時間、移民の扱い方、衣食住、そして往復の船賃等に関しては、クィーンズランドのケースに準じた契約内容を求めていた。
  これに対して、吉佐移民会社の土肥代理人に対する回答は、契約年限3年を除いては受け入れると言うものだった。給金は月27シリング、衣食住等、船賃いずれも雇主負担で了解したとの回答だった。
 

    契約期間については、何度か交渉を重ねたにも拘わらず、土肥代理人が主張した期間3年契約は受け入れられず、吉佐移民会社の強い要望によって、契約証の文脈から推察して4年契約(実際には3年9か月)で折り合ったものと推察できる。

   しかし、英領フィジーには、同じ英領だったインドから多くのインド人移民がすでに1879年以来導入されており、彼らに対する移民の契約条件として、賃金は1日9時間労働で1シリングだった。インド人移民を長時間働かせるのは、彼らの生活習慣等を勘案して大変難しかったようだ。

   これに対して、日本人には、その勤勉さを考慮して1日、2区を10時間労働で行い、給金は2シリングを支払っても採算が合うとの計算だったようだ4。1シリングは、当時のレートを日本通貨に換算すると36銭(0.36円)だった。したがって、月27シリングの日本人移民の給金も邦貨に換算すると10円程度だった。

   インド人の場合、1契約期間が5年で、それを2期10年間就業することが半ば義務付けられた雇用契約となっていたから、契約期間では日本人のケース(3~4年の契約期間)とは比較にならないタイトな雇用契約だった5。なぜ、5年間にも及ぶインド人の年季契約移民制が行われたのか、それは英国の奴隷制の廃止と大きく関わっている。

   すなわち、1833年(8月23日)、英国で奴隷制度廃止法が成立したことで、英国の植民地においても奴隷制は廃止された。したがって大英帝国のすべてにおいて奴隷は解放された。しかし、とくに一時的な措置として、労働力の確保を目的に年季奉公の形式で、それまで仕えていた雇主のもとで働ける方法を取り入れた。しかし、この制度も本質的は奴隷制と変わらなかった。

   英国は1838年にこの制度も廃止した。奴隷制度の廃止で、英国の植民地におけるさとうきび栽培農場(プランテーション)では人手不足は避けられなくなった。そこで、奴隷制度の代替策として、年季契約制度が考えだされたのである。

    この制度は、労働者が雇主と労働条件に関する協約書を交わして働く制度であるが、船賃など渡航費や支度金などの名目で資金を雇主からの「前貸し」を受けて移民として移住し、通常5年を期限として働き、賃金から返済する、その意味は「年季奉公」であるが、協約書が作成されている点が単なる恩返しを要求する「年季奉公労働」とは異なると考えられる。

   例えば、1879年から1916年まで、インドから英国の植民地だったフィジー島のさとうきび栽培のプランテーションにやってきた移民たちも年季契約協定による労働移民だった。

   5年の年季契約であったが、2期10年を働けば帰国の船賃を支給する協約も行われていた。なお、年季契約制度は、1835年のモーリシヤスに渡ったインド人移民が最初だった。この制度によって、奴隷制廃止による労働力不足は解消したと言われている。それにも拘わらず、インド人移民に対するその待遇は酷かった。

   次の写真は、Fiji girmit .org Girmit era photos から引用したものだが、原本はフィジー国立公文書館に所蔵されている。インドからフィジーに移住した年季労働契約移民Girmitiyasのために用意された共同住居Coolie Linesと呼ばれていた住まい。

   かつて、日本にも在った炭鉱夫の「炭住長屋」に似た印象を受ける。一戸のラインは8-10室(パート)に分けられていて、1室の大きさは10フィート×7フィートで、約3m×2.1mになるから6.3m2である。そこに独身男性なら3人が、夫婦または夫婦と子どもが暮らしていた。

   プライバシーなど考える余地さえなかった。そこで6か月を過ごした。その後は、自分たち住まいを持ったが、ラインに暮らしていた印度人移民たちの生活は、Narak(地獄)同様だったと語られている。彼らは、プランテーション(さとうきび栽培耕区)で働く以外は、ラインの外でゲームをして時間を過ごするのが日課だった。

 

     写真は、スヴァ近辺のCoolie Lines(人夫部屋)( 注)写真は、割愛しました。

   また、印度人移民の中には永住してしまうケースが多かった。その理由は、実は5年契約を2期10年に亘る長期間契約のため自然を含む周囲の生活環境にも馴染み印度に帰っても仕事、住む場所があるわけではないから、むしろフィジーに在住する方が彼らにとっては生き易くなっていたのではないかと推察される。

  しかし一方、日本人移住者の場合は、出稼ぎの意識が強かった。例外もあったがほとんどの日本人移民は出稼労働者として契約期間内に稼いだ金素をもって故郷に戻り、生活の立て直しをする意識をもって移民に応募したものが多かった。

  少なくともクィーンズランドやフィジーのケースはそうだった。そのため、応募者の続柄について平賀家文書『フィヂ島移民関係書類(明治二十七年二月)第一回』(後の章で掲示する「本書類」の写真を参照。)に収載されている広島県世話人土肥積の筆記による「フィヂ島移民第一回募集人名」では、戸主が広島県移民108人中29人、長男が29人、二男19人と多い。

 「稼いで帰ってくるんだ」、そう言う出稼ぎ意識の強い応募者が多かったのではないかと考えられるのである。6割強が戸主であったり、長男で占められていたものと思われる。

(注)   

    1)下記の写真「明治ニ十七年二月 フィヂ島移民関係書類(第一回)」は、2012年7月25日広島県立文書館で閲覧・撮影(筆者)し使用した。写真は割愛しました。 

    2)下記の写真「移民雑件」は、広島県立文書館所蔵の『平賀家文書』に収められている。写真は、2012年7月25日筆者撮影。写真は割愛しました。

    3) 1902(明治35)年広島県移民代理人だった土肥積の死後は、彼の縁戚に当たる平賀迅夫が代理人の業務を引き継いだ。そのため関係書類等諸資料一切(『平賀家文書』)も平賀家の保存するところとなった。広島県立文書館に寄託したのは『平賀家文書』を管理所蔵していた平賀睦雄氏(広島県賀茂郡黒瀬町)である。なお『広島県立文書館だより:No.31』(2008・1)を合わせて参照した。

   4)広島県『前掲書』、512ページ。

   5)広島県『前掲書』、511-512ページ。