素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

一日一日大切に生きることー素人、考古学及び古生物学を学ぶー(5)

2015年09月04日 15時02分04秒 | ナウマンゾウについて

 

抄録・日本にいたナウマンゾウ(5)




 (2)ナウマンゾウの化石が発見された忠類地区晩成の地形・地質


 2)晩成地区の由来及び忠類ナウマンゾウ化石発掘場所の地形と地質

 既に述べたので若干重複するが、忠類ナウマンゾウの(臼歯)化石は、1969年7月に「忠類村」の晩成地区の農道工事現場でたまたま見つかったのだが、これは大変なことだったようです。その直後から1969年8月の緊急発掘調査、同年10月予備発掘(第1次発掘調査)そして1970年6月本発掘(第2次発掘調査)が相次いで開始されました。

 これら発見から3度の発掘でナウマンゾウ1頭分の凡そ80%分の化石の発掘に成功したと言われています。その結果、復元された化石骨格は22体のナウマンゾウの複製模型が作られたと言われています。ナウマンゾウの化石が発見された晩成地区は、太平洋に近い丘陵地で、十勝平野南部地域の一角に位置しています。ここには、この地を開拓した入植第1号となった依田勉三の「勉成社」農場も近くにあったと言われています(忠類村史)。

  この地区名「晩成」も依田勉三の「晩成社」に由来すると言われています。なお、ナウマンゾウ「発掘跡地」の正式な現在の地名は「幕別町忠類中当360-1」です。村史に依ると、依田勉三は、「嘉永六年(1853)伊豆国那賀郡(静岡県加茂郡)の豪農で資産家の三男として生まれ、青年時代を「慶應義塾に学び、福沢諭吉の開明思想や二宮尊徳の報徳思想などに影響を受けたそうです。未開の北海道の開拓こそが自分に託された使命であるとして明治14年、29歳の時、単身渡道し道内の開拓地の調査にあたった」、とあります。

 その開拓地の一つが忠類村の「先祖」とでも言おうか、村の遠源に当たる当縁(トプイ、またはトブイ)村だったのです。旧忠類村が行政上の「村」として発足したのは、すでに述べたように、第二次大戦後の1949年のことだった。広尾郡大樹村から上当縁と下当縁を分村して「旧忠類村」が発足したのです。

  1969(昭和44)年に初の村史『忠類村20年』が刊行されましたが、その村史によると、ナウマンゾウの化石が発見された場所の近辺は、十勝平野の南東部「豊頃町」に近く、丘陵地帯に位置し、それは標高300m程度の段丘面の丘陵が起伏を成しています。豊頃町の東端を十勝川が東南に流れており、その流域は比較的緩やかで平坦、茂岩市街では標高約10m程度で、比較的高いと言われる丘陵地でも最高が大樹町との境で331.2mに過ぎないのです。

  この一帯の土地は、浅い海底が隆起してできたものと分析されています。「十勝団体研究会」注1の報告に依拠すると、ナウマンゾウの化石が発掘された豊頃丘陵の南端、その西には新第三紀中新生の晩成生花苗層および大樹層の南北に延びる背斜東翼にあたる160~180mの丘陵地で、東は新第三紀層を剥ぎ取って形成された数段の段丘が海岸線に迫って発達している、とみなされている。また、亀井節夫及び樽野博幸の共同執筆によるメモ「109:北海道忠類村産のナウマン象について」(152頁)では、「化石骨の産状は、4m×7mの区画内に集中しており、右前肢および後肢が関節状態に近い状況であったことなどから、現地性のものと推察される。産出層準は、新第三紀層を不整合におおい、淘汰不良の礫層におおわれる古ホロカンヤトウ層にある(十勝団研による)。また、その地質時代は、C14年代によれば、43,200yr以前とされ、ミンデル/リス間氷期の末葉(湊、秋山)とされている」、と記しています(The Geological Society of Japan NII-Electronic Library Service )。



(注1)「十勝団体研究会」:研究会の構成メンバーは大学の先生から小・中・高校の先生方で十勝地方の地質、地形を集団で調査し、学術的な研究活動を展開している地域性の高い研究グループである。ナウマン象の化石の発掘では、化石情報を得て即刻現場に駆け付け、産出場所が工事現場であったことで、その確認と保存に適切な対応をするために支庁、村の協力で緊急発掘を行い、その後も北海道庁から委託されて予備発掘、本発掘を成し遂げて一躍全国に知られる研究グループとなった。



 ところで、ナウマンゾウの化石の発掘作業では、何もナウマンゾウの化石発掘だけが目的ではなく、ナウマンゾウが生息していた環境、その地層に含まれている植物や花粉の化石が発掘されることでナウマンゾウを伴う自然群、すなわち動物群、食物群を知ることができるわけです。忠類村に晩成地区の発掘調査でも直径20㎝、長さ1.5mくらいのハンノキと思われる丸太が掘り出されましたし、ナウマンゾウが生息していた時代は数万年単位の太古の昔だから、化石骨や丸太が発掘される地層は、泥炭層(注2)と呼ばれる地層で、太古の昔そこが湖沼であったか、または川であったかを推察することも可能なのです。



 (注2) 泥炭層:沼や沢そして湖沼などでは湿原植物も多いので、繁茂した植物が広く湿地に集積し、枯れても十分に分解できずに、不完全な植物遺体の堆積物となっていることが多く、酸素不足で分解できずに炭化したものが一種の地層を形成している状態を泥炭層と呼ぶ。人類の時代になると、この泥炭を燃料にするようになった。

 

    泥炭は、ピートとも呼ばれる。したがって、湖沼の周辺には、いろいろな樹木や水草などが生い茂っていたであろうと推察できる。そのためそれを食糧とする大型の草食動物が寄って来たと考えられる。泥炭層もまたそれら動植物が朽ちて万年単位の時間の経過の過程で、この周辺では3万2000年前に大噴火したと言われている支笏火山の火山灰なども降り積もり、専門家などの研究によると、数メートルの火山灰層の地層になったものと考えられている。

  実は、北海道のナウマンゾウの多くが支笏火山の噴火の前に絶滅していたのではないかと推測されている。ナウマンゾウの化石の発掘は、それだけではなく泥炭層の中から既述のハンノキだけでなく、エゴノキ、スギ、ブナなどの大植物の流木などの朽ちた丸太の他にも湿地帯に繁茂するカキツバタやアヤメなどの湿原植物の実や花粉、そしてコガネムシなどの昆虫の化石も発掘されています。それらの植物群の繁茂とナウマンゾウの生息とは深いかかわりがあったと考えられる。その地が氷期ではなく、間氷期で温暖化していた時代ではなかったかを推測することが出来るのである。

 十勝団体研究会の札幌支部北大教養部地学松井愈(まさる)研究室が忠類村晩成のナウマンゾウ化石の産出地点における泥炭層から採取した木片を試料に、14C年代測定(測定者:(注3)木越邦彦氏)を行った。その結果、>42,000年B.P.とまで測定されたことが分っていますが、そこまででスケールアウトしてしまい、地層的には12万年以上経ているのではないか、という見方を証明するにはいたらなかったようです。
 忠類におけるナウマンゾウの化石骨の包含層は、砂礫層の泥炭質泥炭層で、粘土化が進んでいた。化石泥炭層の上には、二層の泥炭層があって、上から第一泥炭層、第二泥炭層、そしてナウマン象の化石骨を包含していた層は第三泥炭層だったことが、発掘過程で解っています。いまだに、明確な年代はなされていないように思います。

 見方を変えれば、木越教授によって明らかにされた14C年代 測定(注4)で、ナウマンゾウの化石骨が包含されていた第三泥炭層が43,200年以上前のものであることも判明したわけです。そのことから、ナウマン象の化石骨の年代も4万年以上の時を刻んでいることだけは推測に難くないのです。



 (注3)木越邦彦氏(1919-2014)は、東大の木村研で化学を学び、その後理研の仁科研究室へ、さらに気象研を経て、1954年に学習院大学理学部教授、のち同大名誉教授、2014年7月6日没、享年94歳。専門は、放射化学。とくに、屋久島(鹿児島県)の縄文杉の樹齢の測定等、考古学上の地層の14C(炭素14)年代測定に大きな貢献をされた。
 

     (3)加速器質量分析計によるC14年代測定法

  1)C14の概念について

  本稿でいう「C14年代測定」とは、「放射性炭素(C14)年代測定法」のことです。死んだり枯れたりした動植物の遺体に含まれる放射性炭素(C14)を調べることによって死んだ年代、枯れた年代を突き止める方法として用いられます14Cは、C14と書いても、またCの左肩に14とおいても構いません。C14のCは炭素の元素記号であり、14は原子の原子核を構成している陽子と中性子の個数を合わせたもので、「質量数」です。C14 は陽子6個と中性子8個からなっています。天然の炭素の98.89%はC12で、残りはC13で1.11%であるといわれてます。C14 は、安定的なC12 とは違って、不安定な状態にあり、わずかな放射線(放射能)を出す性質があります。このような同位体を放射性同位体と言います。そしてC14 は、放射性炭素の一つなのです。C14は、時間とともにチッソに変化し、減少します。しかし、宇宙線の働きにより、ほぼ同じだけ生成されると考えられています。生物が死んだ場合、新たな炭素の取り込みがないので、C14は減少します。その遺骸のC14が半分になる時間を半減期といって通常5730年かかります。ですから、C14 の濃度を測定することで、遺骸の死んだ年代を測定できます。

  2)放射性炭素14(⒕C)年代測定法とウイラード・フランク・リビー

  放射性炭素年代測定は、今日では最も有効性の高い年代測定法であり、『Beta Analytic社の解説日本語版』に依拠しますと、米国では勿論、世界的にも「生物由来の炭素系物質が存在した客観的な年代を推定のための方法として使われている」ようです。その「年代」は、ごく微量な試料の放射性炭素(C14)の量を測定し、「国際的に使用されている標準物質と比較することによって推定」(Beta Analytic社の解説日本語版から引用)が可能なのです。この炭素年代測定の発明は20世紀の人類の発明の中でも最も重要なもののひとつと言っても過言ではないと思います。太古の大昔、過去数万年から現代までの地球史、そして人類の歩んだ人類史をひも解くためにも、今日では「放射性炭素年代測定」が不可欠なのです。20世紀の人類の発明の中でも「炭素年代測定」を考え出したことは極めて輝かしい発明の一つと言えます。その発明者は米国コロラド州グランドバレー出身の科学者ウイラード・フランク・リビー(Willard Frank Libby)博士であり、それは1947年のことでした。1931年、カリフォニア大学バークレー校卒、1933年博士号を得て、母校の講師を経て1941年、グッゲンハイム奨学金を得てプリンストン大学で研究、第二次世界大戦中はコロンビア大学に在任し、マンハッタン計画に参加、とくにウラン238を濃縮するための期待拡散法の開発に従事しました。

  1945年、シカゴ大学教授に就任。1946年、中性子線(注5)が水の中の水素原子と反応して三重水素がごく微量生成することを発見、これを年代測定に用いることが可能であることを明らかにしました。さらに、ビリーは1947年、放射性炭素年代測定(14C)法を発見、炭素14(C14 or 14C)はわずかに放射能を放出する炭素同位体です。また、「放射性炭素」とも呼ばれており、同位体クロノメーターでもあります。放射性炭素年代測定法は有機物や一部の無機物で測定が可能です(金属は測定できません)。本稿「抄録 日本にもいたナウマンゾウ」(19)におても重複しますが、「放射性炭素年代測定法」およびウイラード・フランク・リビーについて扱う予定でいますので、ビリーが1959年、UCLAの教授に就任したことや1960年にノーベル化学賞を受賞に輝いたことに触れたいと考えています。

  (注5)中性子線:一般には、中性子の粒子線を言う。粒子線とは、同一方向に進行する多数の粒子の流れのこと。また、『原子力防災基礎用語集』によると、「中性子は、原子核を構成する素粒子の一つで、電荷を持たず、質量が水素の原子核(陽子)の質量とほぼ等しい。中性子線は、水やパラフィン、厚いコンクリートで止めることができる。中性子線は、ガンマ線のように透過力が強いので、人体の外部から中性子線を受けるとガンマ線の場合と同様に組織や臓器に影響を与える。吸収された線量が同じであれば、ガンマ線よりも中性子線の方が人体に与える影響は大きい」、と説明されている。

 

 (文献)
 (1) 十勝団体研究会札幌支部北大教養部地学松井研究室「十勝国忠類村字晩成におけるナウマン象産出地点の泥炭層の14C年代―日本の第四紀層の14C年代(67)―」・『地球科學』25 (4), 187~188ページ, 1971年07月.


 (2) 十勝団体研究会(連絡責任者:北大教養部地学松井研究室)「十勝平野の第四系(第Ⅱ報)―とくに地形面と層序について」『第四紀研究』・第7巻 第1号、1968(昭和43)年6月.
 

 (3)大江フサ・小坂利幸「北海道十勝国忠類村におけるナウマン象化石包含層の花粉分析」・『地質学雑誌』・第78巻第3号219-274ページ、1972年5月。

 (4)亀井節夫『象の来た道』(「象の来た道をさぐる:忠類村のナウマン象」)・中公新書(514)、1978(昭和53)年8月.

 (5) たかしよいち『ナウマン象を掘る―象の来た道』・偕成社文庫(3096)、1981年8月.

 (6)木越邦彦「放射線炭素14Cによる年代測定」・『地学雑誌』94-7(1985)、126-130頁.



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