素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

絶滅したナウマンゾウのはなし(5)

2022年01月12日 13時07分08秒 | 絶滅したナウマンゾウのはなし
 絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
        日本列島-(5)


  〈(5)のまえおき〉
  ナウマンゾウは、見たわけではないのですが、化石骨をもとに骨格標本の研究をしている専門家の研究によりますと、現在飼育されているアジアゾウよりも小ぶりだと言わℛています。ナウマンゾウのオスの背丈は2.5m、メスは2m位と推察されています。

  また、ナウマンゾウの場合は、アジアゾウにくらべて、「背中のカーブが肩と腰のところに高まりがあり、それが特徴の一つ」だと見られています。よく指摘されていることなのですが、ナウマンゾウはアジアゾウやアフリカゾウと違って、頭部に特徴があります。ちょうどベレー帽を被った感じだと言うのですが、実際に見たわけではありませんのであくまでも想定に過ぎません。

  2020年に忠類記念館で、忠類ナウマンゾウ発掘50周年記念の催事が開かれました。その際、北海道博物館から全身骨格の復元原標本が50年ぶりに初めて特別展示されました。

  そしてさらに、足寄動物化石博物館で保管されているアジアゾウの全身の化石骨(約260パーツ)と、忠類で発掘されたナウマンゾウの頭骨(レプリカ)などが比較展示されました。
  一つ追加しますと、現在日本で飼育されているゾウは、アジアゾウがほとんどですし、日本で生まれたゾウもアジアゾウが多く、アフリカゾウは少ないと聞いています。多くの人に愛されたゾウのはな子もアジアゾウでした。


  
  (5) アジアゾウよりやや小ぶりだったナウマンゾウ

 1)誰も見たわけではないのですが、ナウマンゾウについて、専門家による化石骨の研究結果から、東京上野動物園で飼育されているアジアゾウと比較しますと、やや小ぶり(小型)だと推測されています。2016(平成28)年5月26日69歳で死んだ井の頭自然文化園の「はな子」(下記の写真)は、1947(昭和22)年タイで生まれたアジアゾウ(写真)でした。

 専門家の先生方によりますと、先史時代に日本列島各地に生息していたナウマンゾウもまたアジアゾウと近縁の仲(種)だったということです。そうはいいましても、生息していた太古の昔のナウマンゾウの本当の姿を見た人がいるわけではありませんから、化石骨を分析した結果から、その体型や大きさを類推してのことに過ぎません。

 いつ頃から日本列島に棲みついたのか、それもまた化石の年代測定からの推測に過ぎません。きわめて大雑把な話になりますが、ごく一般的には、太古のそのまた太古の昔(40万年前頃ないし30万年前頃)からだというしかないようです。

 大変大まかな表現で気が引けますが、ナウマンゾウは40万年前頃ないし30万年前余りも大昔の氷期の時代、海面の水位が低下したとき、東シナ海または対馬海峡に陸橋が出来たことで、日本列島に渡って来て生息するようになったのではないかと考えられています。

 その後は、氷期と間氷期が繰り返される気候変動に耐えながら、約2万年前ないし1万数千年前まで、もちろん同じナウマンゾウではありませんが、何百代否もっと何千代にも亘って日本列島を北に南に寒・暖期を移動しながら、子孫を生息させ続けていたのであろうと考えられます。

 2)また一説では、何十万年も昔のことになりますが、日本列島の西では大陸と一部が地続きになっていましたから、多くの種が大陸から渡来してきて、ナウマンゾウ同様、南から北へと移動していたであろうと推測されています。

 そんなに昔に渡来したゾウが、本当にナウマンゾウだけだったのか、どうかは発掘された化石や漁師の網にかかって引き上げられた化石骨を詳細に分析・検討し、その結果、ナウマンゾウであるかどうかが判断できるわけで、大変気の遠くなるような話なのです。

 ナウマンゾウは、氷期に極寒の地にも生息できるように「皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていた」であろうと、専門家の先生方は化石を研究した結果から推測されていたのですが、最近では全身を覆う体毛は、マンモスほど長くはなく、また多くもなかったのではないかという見方をする専門家も多いようです。

 ナウマンゾウは、アジアでは日本だけでなく、ロシアのシベリア、中国、そして朝鮮半島にも多く生息していたと考えられています。素人考えですが、日本列島には南方系だけでなく、北方系ナウマンゾウがいたのではないかなどと思ったりもしています。

 ところで「ナウマンゾウ」という「ゾウ」の「呼び名」ですが、誰が最初の名付け親だったのでしょうか。

 3)話が少々横道に逸れますが、ナウマンゾウの化石が初めて見つかったのは、1867年のことでした。横須賀湾に面した小高い丘「白仙山」(今は米海軍基地内)を開鑿(かいさく、開削とも書く)した際に、地中から発見されました。

 当時、日本は開国後間もない頃でした。外国船往来の基盤を整える必要に迫られていました。外国船が入る港、大型船を修理できる造船所、近代的な灯台を整備することも、待ったなしの緊急な課題でした。それは、開国に伴い、諸外国からの強い要望、むしろ開国の条件でもありました。
そこで、大型船修理、建造のための施設として起工されたのが、横浜製鉄所でした。

 そのために、日本が地震国であることも勘案して、石造りのドライドックの建設が行われることになりました。とくに、第一号ドライドックでは、耐震性と維持費を検討した結果、海岸を埋め立てて建設する方式が考えられたのです。

 さらに、第二、第三のドライドックを建設するに当たって、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)は港の拡張工事が不可欠でした。そこで、地続きだった「白仙山」を開鑿してドック建設が進められました。その際に開鑿した白仙山の地中から大型獣のものと思われる化石骨が発見されたことがナウマンゾウのドラマの幕開けだったのです。

 その化石が後に、東大の初代地質学教授としてドイツから招聘され、来日したナウマンによる研究の結果、ゾウの化石と分かったのです(『横須賀市史別巻』、1988(昭和63)年、135頁参照)。
この化石骨については、いろいろな経緯がありますので、次章で少し詳しく言及することにします。ただ、『前掲別巻』(1988)135頁では、「泊船山開鑿の際、土中よりナウマン象の臼歯発見」とあります。なお、ここにいう「泊船山」については後述します。

 4)ナウマンゾウの専門家の初期の研究成果によりますと、インドで発見されたゾウの化石と比較研究を行った結果から、ナウマンゾウはその亜種であることがわかったのです。

 関東大震災のあった翌年のことですが、1924(大正13)年に京都大学の古生物学者で、わが国では日本人としてゾウ研究の草分けでもあった槇山次郎(1896-1986)当時助教授が、わが国で発見された大型哺乳類の化石骨研究に初めて取り組んだ地質学者ナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854-1927)の名にちなんで名付けたといわれています。

 槇山次郎は、1924(大正13)年に、ナルバタゾウの新亜種であるとして、正式な名をElephas namadicus naumanniと命名しました。そして日本だけで通用する和名を「ナウマンゾウ」としました。本当は、命名者である槇山の名前も入れて、「ナウマン・マキヤマゾウ」というのが和名の正確な呼び名だそうですが、前述しましたように、ナウマン教授にちなみ、単に、通称は「ナウマンゾウ」と呼んでいます。

 ナウマンゾウは、あくまでもわが国だけで使われる和名です。世界に通用する名前を学名といいますが、今日ナウマンゾウの学名は、パレオロクソドン・ナウマニ(Palaeoloxodon naumanni Makiyama)と付けられています。

 また、英名は,ナウマンズ・エレハント(Naumann‘s elephant)といいます。なぜ、ナウマンゾウの学名に「パレオロクソドン」と付けられたかは、正確なことはわからないのですが、槇山が命名した同じ年の1924年に、東北大学教授だった松本彦七郎(1887-1975)が『地質学雑誌』(第31巻第371、372号合冊)に発表した論文「日本産化石象の種類(略報)」(269頁)の中で、次のような1行を記しています。

  Loxodonta(Palaeoloxdon)namadicus naumanni(Maki.)
松本は、ロクソドンタ(Loxodonta)属の新亜属としてパレオロクソドン(Palaeoloxodon)を提唱しました。わが国で松本は、槇山とともにナウマンゾウの化石を研究した先駆者の一人であったことには間違いないと思います。

 ちなみに、アフリカゾウの属名はロクソドンタ(Loxodonta)といいますから、その仲間という意味でパレオロクソドンとしたのではないかと推察しています。なお、野尻湖ナウマンゾウ博物館の近藤洋一館長は、「日本を代表するゾウ化石 ナウマンゾウ」『化石』(79・2006、81-87頁)において、ナウマンゾウの〔分類と系統の問題〕を丁寧に論じています。大変役立ちます。

 わたしも本当のところ、ナウマンゾウが長鼻目、ゾウ科、ゾウ(パレオロクソドン)属として分類されているくらいしか覚えていません。



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