素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(11)

2021年10月17日 10時57分52秒 | ナウマン象と日本列島
   (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(11)
     (初出:2015・8・19ー2016・4・19)

  〔大分、間が空いてしまいました。北海道十勝平野ナウマンゾウの里,旧忠類村に出かけていました。〕


 
(3)忠類村ナウマンゾウの復元標本(その3)

  
 1)忠類ナウマンゾウの復元標本
 化石骨の復元:発掘されたナウマンゾウの化石骨を使って、ナウマンゾウが生息していた時代の骨格を作り上げることは容易な技術ではとてもできるとは思えません。現在、忠類ナウマンゾウ記念館に展示されているナウマンゾウの骨格標本も、旧忠類村の晩成地区で発掘された化石を手掛かりに、象研究の第一人者京都大学教授亀井節夫(1925-2014:大正14-平成26)の指導で「復元」がなされた。

 ところで、亀井は自著『象にきた道』(中公新書514、1978(昭和53)年刊.)119頁において「ナウマンゾウの復原」と題して精細に言及されています。また、旧・北海道開拓記念館(現在は、北海道道立アイヌ民族文化研究センターを統合し、2013年「北海道博物館」となりました.)発行の資料解説シリーズNo.1、『忠類産ナウマン象―その発見から復原まで―』においても、「復原」という用語が使用されています。

 「復原」は自然科学系の学術文献では散見されることがよくあります。本稿では、「復元」を用いることにしましたが、いろいろ調べてみましたが古生物学では、発掘された化石から、かつて生息していたであろう生物の姿を若干の推測を含めて制作されるため「復元」という用語が使用されますが、亀井が敢えて「復元」ではなく「ナウマンゾウの復原」とされたのは何故か、いろいろ考えることはできますが、ここでは議論の意味がそれほど大きくはないように思われますので避けることにしましょう。

 旧忠類村晩成地区で発掘されたナウマンゾウの化石骨は、忠類村から亀井の研究の拠点であった京都へと10日間の長旅は、はるばる海を渡ったのです。発掘されたばかりの化石骨はとても脆く、こわれ易いので手で触れるには細心の注意が必要だったので、現地では、「保護のために石膏がかぶせてあった」そうです。

 また、「発掘現場では、骨の表面の泥は刷毛を使ってだいたいとりのぞき、その上に水で濡らした和紙を数枚重ねてのせ、粘土でうすくカバーをした。さらに、ゆるく水に溶かした石膏を数回にわたって流して固化させ、石膏が十分固まった後に、骨の仮面を掘り、ひっくり返しにして、同様の方法で下面も石膏でおおったのである。石膏には、藁くず麻布をまぜて割れにくくし、牙、肋骨、肢骨のような長骨の場合には、竹や細い鉄パイプなどを心材として通しておいた」(亀井:1978)、だそうです。これらの作業は学生・院生など若手研究者の献身的な協力があって可能だったと言えることでしょう。

 発掘した化石骨は、手入れをしないと劣化することになりますから、常に手入れが大切です。10数個の木箱に詰められた化石骨は、京都大学で待ち構えておられた亀井ら研究者によって、動かないように布や古綿などでパッキングし、また輸送中の揺れで破損を避けるために石膏で固められてもいました。発掘されたときに付着した泥などにまみれている化石骨については、一つ一つ丁寧に取り出し、手に取って、刷毛などを使ってクリーニングします。手間がかかりますが、復元作業では決して珍しい作業ではありません。

 また、北海道の冷たい地中に何万年も埋まっていた骨ですから、それが外気に触れることで、さらに高温多湿の京都に移されたことで骨が変形することもあったと思います。その場合は、それらを補正する必要があります。つまり、整形が施されるのです。それらの処置も、ゾウの化石骨ですから大腿骨など大きいですから大変です。

 たとえば、後ろ足について見ますと、腰の寛骨、大腿骨、膝の機能に欠かせない膝蓋骨、頸骨、腓骨、そして踵から指先にかけて足根骨、中足骨、指骨といった骨の化石を見分けながら骨格復元が行われたものと理解しています。ゾウなど大型哺乳類の骨格復元は、大変高度な技術が必要であることが解ります。

 われわれが一般に背骨などと簡単に呼んでいますが、それらも実は大変なんです。たとえば胸骨、腰椎、仙骨、尾椎などがあります。しかも何万年も土の中に埋まっていたものですから、それらの固化作業と同時に整形が必要なわけです。運ばれてきた化石骨をつかって、すぐに一頭のナウマンゾウの骨格復元が出来るなど有り得ないことなんです。しかも忠類で発掘された頭蓋骨はジグソーパズルのピースのように破損片を組み合わせなくてはならなかったようです。

 頭蓋骨の復元:亀井は忠類ナウマンゾウの頭蓋骨について次のように述べています。「頭骨はこなごなにくだけていて、もとの形を復原することは不可能であった。幸いにも、発掘の翌年の三月には、千葉県の猿山で、ほとんど完全なナウマン象の頭骨が発見されたので、これを参考に、現生のアジア象やアフリカ象の頭骨と比較しながら、臼歯の大きさや他の骨の大きさの比例からえがかれた設計図をもとに、忠類村のナウマン象の頭骨の型がつくられたのである」(亀井『前掲書』121-122頁)と。ここで、頭蓋骨(とうがいこつ)とは、顔の構造を支持し、脳を外傷から保護する機能を持つとされています。

 また、亀井がいう「頭骨」とは、学問的に用いられているもので、ゾウについては定かでないが、形質人類学では「頭蓋骨:とうがいこつ」を「頭骨」と称していることは確かなことです。
      
  ナウマンゾウの頭部について見ますと、正面(前面)から見ますとベレー帽をかぶった感じに見えます。そこに頭頂骨があります。前面のおでこのところにある骨が前頭骨、後ろ側に後頭骨、その下に鼻骨、側頭骨、側面から見ますと頬っぺたの部分がありますが、そこに頬骨、ほっぺを支えるように上顎骨、そして切歯(牙)は切歯骨に保護されて成長しています。

 ナウマンゾウの完全な頭蓋骨 亀井が『前掲書』(1978)で明らかにしているように、ナウマンゾウの完全な頭蓋骨はなかなか発見できなかったのですが、千葉県香取郡多古町の周辺の化石床の形態解析を行っていた大森昌衛ら「成田層の古環境団研グループ」は、古生態学の研究方法を確立するため成田層の化石床を対象として、実際に化石床が形成される環境解析を目的として、団体研究法による調査を実施しているが(大森昌衛:43「成田層の化石床の形態解析―成田層の古環境の研究(1)」)、1971年3月16日から19日までの4日間に千葉県香取郡下総町滑河字猿山(現・成田市猿山)の化石床についての予備的調査を行った際、たまたま日本では唯一のナウマンゾウの完全な形で頭部の化石骨を発見できたのだそうです。
 
 忠類で発掘されたナウマンゾウの頭部化石骨はこなごなであった(亀井、1978)ことから、京都では全体骨格を復元するのに思案されていたようですが、幸運なことに千葉県の猿山地区で大森らに発掘された頭蓋骨(とうがいこつ)は、発掘に携わった専門家の勤務先であった東京教育大学(現・筑波大学)理学部地質学鉱物学教室に一時的に保管されて、専門家らによる研究が進められていました。

 そこで、亀井ら(骨格復元を委託されていた工場)はそれを借用して精査した上で、その猿山産頭蓋骨を参考に、新たにナウマンゾウの頭蓋の標本の作製に挑んだわけです。もちろんその(頭蓋)標本の複製も作られて、その複製(頭蓋)の一つが、千葉県立中央博物館1階フロア正面に展示されています。なお、猿山で発掘された実物は現在、国立科学博物館に保蔵されています。


 (文献)

(1)亀井節夫『象のきた道』・中公新書514、1978年。
(2)北海道開拓記念館『忠類産ナウマン象―その発見から復原まで―』(資料解説シリーズNo.1)・北海道博物館協会,1972年。
(3)大森昌衛・磯辺大暢・真野勝友・犬塚則久「千葉県香取郡下総町猿山から産出したいわゆる“ナウマンぞう”の頭骨化石について(予報)」・『第四紀研究』第10巻   第3号・1971(昭和46)年10月、92-95頁。
(4)犬塚則久「千葉県下総町猿山産ナウマンゾウ(Palaeoloxodon naumanni)の頭蓋について」・『地質学雑誌』・第83巻第8号1977(昭和52)8月、523-536頁。
(5)犬塚則久「ナウマンゾウ(Palaeoloxodon naumanni)の切歯の計測」・『地球科学』31巻6号・1977年11月、237-242頁。