(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(8)
(初出:2015・8・19ー2016・4・19)
(3)ナウマンゾウが生息していたころの忠類の地層と古気象
1)ゾウのいたころの地層
旧忠類村については、記述のように、1949(昭和24)年8月、旧大樹(たいき)村(現在は「大樹町」から分村して独立し、開村してスタート間もない村でしたからいろいろ難しい内実をはらんでいたと思います。
ナウマンゾウの化石が発掘された地域は「忠類村字晩成地区」と呼ばれており、それは大樹村との村境(現在は、忠類村が幕別町に、大樹村が大樹町になっているので「村境」ではなく、「町境」)に近く、大樹村の広大な「晩成」地区に東部から南部にかけてぐるりと囲まれた格好になっているのです。
また、大樹村とは、卑俗な言い方ですが、忠類村は「喧嘩別れ」のようなものでしたから、当時の大樹村の人々の中には、「忠類のせいで晩成は飛び地同然になってしまった」と思っている人もいたようです。したがって、地質調査でいうところの「晩成面」とは、行政的には、大樹町の晩成地区を指しています。現在、幕別町忠類地区の「晩成」を地図上で見ますと「忠類晩成」と記載してあります。
ところで、一般に言われている忠類産ナウマンゾウの化石は、ホロカヤントウ層第三泥炭層から産出されたのですが、この泥炭層は、大樹町晩成にあるホロカヤントウと呼ばれている沼と地層的には繋がっているのです。ホロカヤントウとはアイヌ語で、ホロカ・ヤン・トウ(または〔ホロカヤントー〕とも言うようです)とは、「後戻りして・掲げる・沼」*)の意味だそうです。「満潮時には海水が沼まで入り込む」と言うのが、どうやら「ホロカ・ヤン・トウ」と言う言葉の意味のようです。
ナウマンゾウの化石が発掘された「忠類晩成」地区は、大樹町晩成地区にあるホロカヤントウ沼とはそう遠くない位置にあります。また、地層的には同じホロカヤントウ地層なのです。 考えられることは、ナウマンゾウがこの地域に生息していた頃、「忠類晩成」一帯は、おそらく湿原の亜泥炭質の古土壌だったと推察できます。
2) 気温はどうだったか
最近では、ナウマンゾウが生息していた時代の十勝平野の古気温について、植物化石から推測する研究も進んでいるようです。たとえば、十勝平野に分布していた植物で、日本特産の樹木の一つにブナノキがあります。
北海道南部から本州中部の山地では、標高が1000~1500mのところにもかなり繁茂し、瑞々しい山地を形成しているブナ帯の落葉広葉樹木だと言われています。今日では大変貴重な山林資源、落葉高木ブナノキ(学名:Fagus Crenata)、別名を「ソバクリ」とも言います。生育の北限は北海道渡島(おしま)半島、寿都(すっつ)町辺りと考えられています。
この他、エゴノキ(学名:Styrax japonicas)が生育する地域、日本では北海道十勝平野から本州、九州まで広範囲に植生を持つ落葉小高木樹です。葉は単葉で互生しており、卵形をなし、芳香のある白い花をつけるのが特徴です。春から初夏にかけて山歩きをしているとよく見かける親しみのある広葉樹です。ナウマンゾウにもご馳走だったと考えられます。
十勝平野にナウマンゾウが生息していた頃は、おそらく現在と比較すると、これらの植物はもっと北上していたのではないか(十勝団研、『ナウマン象化石発掘調査報告書』、22頁)、と言う説も存在します。また、十勝団研は、ブナノキにしてもエゴノキにしても北緯42度を超えて北地には分布していないと指摘しています。
以上のように、森林帯と気温とは密接な関係があると考えられますから、植物の植生にしてもナウマンゾウの生息地にしましても、その基礎的な気候因子は気温であると言えます。間氷期において、ナウマンゾウが生息していた時代の十勝平野の気温は、現在よりも高温だったと推測されているのです。
ナウマンゾウ生息時の忠類地域、北東に30kmの大津(中川郡豊頃町)では年平均気温が3.3℃、江差では9.3℃、また函館から南、渡島半島では8℃、だったと言われており、忠類付近で現在よりも平均気温で3℃から4℃は高かったと推測されているのです。
基礎的気候因子から考えて、忠類を含む十勝平野はナウマンゾウが生息するに足る「生息環境」だったと言えるように推察できるのです。しかしながら、日本列島にどのようにして南方系と見られるナウマンゾウが渡来したのか、或いは彼らは北方系ナウマンゾウなのか、難しい問題が本稿の行く手に立ちはだかっているのです。
(文献)
(1)文中の*印:山田秀三(やまだ ひでぞう:1899-1992)『北海道の地名』(アイヌ語地名の研究―山田秀三著作集・別巻・1984年)復刻訂正版・草風館、2000年4月。
(2)十勝団体研究会「ナウマン象化石産出地点付近の地質概要および化石包含層の特性」(北海道開拓記念館編『ナウマン象化石発掘調査報告書』)・1971年3月、⒗-26頁。
(3)十勝団体研究会「十勝平野の第四系(第Ⅱ報)-とくに地形面と層序についてー」(『第四紀研究』・第7巻第1号・1968(昭和43)年6月、1-5頁。
(4)松井愈(まついまさる:1923-1996)・佐藤博之・小坂利幸「ナウマンゾウの包含層の時代」(地学団体研究会『(地団研専報/22)十勝平野』(第Ⅳ編 忠類産ナウマンゾウとそれにかかわる諸問題)・1978年、399-408頁。
(初出:2015・8・19ー2016・4・19)
(3)ナウマンゾウが生息していたころの忠類の地層と古気象
1)ゾウのいたころの地層
旧忠類村については、記述のように、1949(昭和24)年8月、旧大樹(たいき)村(現在は「大樹町」から分村して独立し、開村してスタート間もない村でしたからいろいろ難しい内実をはらんでいたと思います。
ナウマンゾウの化石が発掘された地域は「忠類村字晩成地区」と呼ばれており、それは大樹村との村境(現在は、忠類村が幕別町に、大樹村が大樹町になっているので「村境」ではなく、「町境」)に近く、大樹村の広大な「晩成」地区に東部から南部にかけてぐるりと囲まれた格好になっているのです。
また、大樹村とは、卑俗な言い方ですが、忠類村は「喧嘩別れ」のようなものでしたから、当時の大樹村の人々の中には、「忠類のせいで晩成は飛び地同然になってしまった」と思っている人もいたようです。したがって、地質調査でいうところの「晩成面」とは、行政的には、大樹町の晩成地区を指しています。現在、幕別町忠類地区の「晩成」を地図上で見ますと「忠類晩成」と記載してあります。
ところで、一般に言われている忠類産ナウマンゾウの化石は、ホロカヤントウ層第三泥炭層から産出されたのですが、この泥炭層は、大樹町晩成にあるホロカヤントウと呼ばれている沼と地層的には繋がっているのです。ホロカヤントウとはアイヌ語で、ホロカ・ヤン・トウ(または〔ホロカヤントー〕とも言うようです)とは、「後戻りして・掲げる・沼」*)の意味だそうです。「満潮時には海水が沼まで入り込む」と言うのが、どうやら「ホロカ・ヤン・トウ」と言う言葉の意味のようです。
ナウマンゾウの化石が発掘された「忠類晩成」地区は、大樹町晩成地区にあるホロカヤントウ沼とはそう遠くない位置にあります。また、地層的には同じホロカヤントウ地層なのです。 考えられることは、ナウマンゾウがこの地域に生息していた頃、「忠類晩成」一帯は、おそらく湿原の亜泥炭質の古土壌だったと推察できます。
2) 気温はどうだったか
最近では、ナウマンゾウが生息していた時代の十勝平野の古気温について、植物化石から推測する研究も進んでいるようです。たとえば、十勝平野に分布していた植物で、日本特産の樹木の一つにブナノキがあります。
北海道南部から本州中部の山地では、標高が1000~1500mのところにもかなり繁茂し、瑞々しい山地を形成しているブナ帯の落葉広葉樹木だと言われています。今日では大変貴重な山林資源、落葉高木ブナノキ(学名:Fagus Crenata)、別名を「ソバクリ」とも言います。生育の北限は北海道渡島(おしま)半島、寿都(すっつ)町辺りと考えられています。
この他、エゴノキ(学名:Styrax japonicas)が生育する地域、日本では北海道十勝平野から本州、九州まで広範囲に植生を持つ落葉小高木樹です。葉は単葉で互生しており、卵形をなし、芳香のある白い花をつけるのが特徴です。春から初夏にかけて山歩きをしているとよく見かける親しみのある広葉樹です。ナウマンゾウにもご馳走だったと考えられます。
十勝平野にナウマンゾウが生息していた頃は、おそらく現在と比較すると、これらの植物はもっと北上していたのではないか(十勝団研、『ナウマン象化石発掘調査報告書』、22頁)、と言う説も存在します。また、十勝団研は、ブナノキにしてもエゴノキにしても北緯42度を超えて北地には分布していないと指摘しています。
以上のように、森林帯と気温とは密接な関係があると考えられますから、植物の植生にしてもナウマンゾウの生息地にしましても、その基礎的な気候因子は気温であると言えます。間氷期において、ナウマンゾウが生息していた時代の十勝平野の気温は、現在よりも高温だったと推測されているのです。
ナウマンゾウ生息時の忠類地域、北東に30kmの大津(中川郡豊頃町)では年平均気温が3.3℃、江差では9.3℃、また函館から南、渡島半島では8℃、だったと言われており、忠類付近で現在よりも平均気温で3℃から4℃は高かったと推測されているのです。
基礎的気候因子から考えて、忠類を含む十勝平野はナウマンゾウが生息するに足る「生息環境」だったと言えるように推察できるのです。しかしながら、日本列島にどのようにして南方系と見られるナウマンゾウが渡来したのか、或いは彼らは北方系ナウマンゾウなのか、難しい問題が本稿の行く手に立ちはだかっているのです。
(文献)
(1)文中の*印:山田秀三(やまだ ひでぞう:1899-1992)『北海道の地名』(アイヌ語地名の研究―山田秀三著作集・別巻・1984年)復刻訂正版・草風館、2000年4月。
(2)十勝団体研究会「ナウマン象化石産出地点付近の地質概要および化石包含層の特性」(北海道開拓記念館編『ナウマン象化石発掘調査報告書』)・1971年3月、⒗-26頁。
(3)十勝団体研究会「十勝平野の第四系(第Ⅱ報)-とくに地形面と層序についてー」(『第四紀研究』・第7巻第1号・1968(昭和43)年6月、1-5頁。
(4)松井愈(まついまさる:1923-1996)・佐藤博之・小坂利幸「ナウマンゾウの包含層の時代」(地学団体研究会『(地団研専報/22)十勝平野』(第Ⅳ編 忠類産ナウマンゾウとそれにかかわる諸問題)・1978年、399-408頁。