大空を見上げて

日頃感じていること

ナビゲ-ション

2008-07-30 | Weblog
 昨日仕事で渋谷の某会社に行った。
決められた時間に到着したが高層ビルばかりで、目的の会社がよく分からない。
アポを取っていたので、あるビルから社員が飛び出して来て案内してくれた。
ナビはとても便利だが目的の近辺で案内が終わり、その後は自分で探さなくてはいけない。
しかしナビのお蔭でこの大東京、何処も苦にならず走れて本当に助かっている。
3年前迄は東京都内は道が分からない、という先入感がありナビがあっても敬遠していた。
ナビも見方があり慣れる事がとても大事である。
帰路会長が東京駅八重洲で降りるとのこと、私は数秒でナビを操作し渋谷~東京駅へ。
本当にナビに感謝している。

でも人生はこうはうまくいかないものだ。
「神のことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と聖書にある。
      
(写真:自宅の近く花見川・花島公園にて)
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朝江物語

2008-07-28 | Weblog
  サクラメントの郊外に住んでいるのは私より8歳年上の長姉です。
姉は生まれたのは韓国のテグ(大邱)です。
先日書いたように、終戦で日本に帰ってきましたが、その時姉は12歳でした。
傷心の父や幼い妹、弟の世話もあり、姉も大変な困難を乗り越えてきました。
その後、別府でバスガイドをしていた時兄と知り合い、結婚してアメリカに行きました。
子供も3人与えられ、長女はラスベガスの郊外に、長男はカリフォルニアの北部で
パークレンジャー、次男はアラスカでポリスマンとして、元気に幸せに暮らしている。
姉も120ページにわたる自分史「Asa-chan story」を書き上げたようで、読むのを
楽しみにしています。
その姉から今朝メールが来ました。
      
    「異国に生まれ 他国に老いし くいし我が運命」と。
  (写真はハワードの最初の作品)
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ハワード(義兄)鉄道模型

2008-07-27 | Weblog
  今朝、アメリカのサクラメントの義兄よりメールが来た。
サクラメントはサンフランシスコより車で3時間位内陸に入った所でカリフォルニア州の州都でとても綺麗な街です。
姉夫婦はその郊外で余生を楽しんでいる。
時々写真つきのメールで様子を知らせてくる。
私のブログも毎日楽しみ見てると連絡があった。
義兄のハワードはとても器用な人で、ガレージで鉄道模型をまるで本物のようにいくつも作って走らせたり、かと思えば小説を書いたり、何をやってもプロ並にやってしまう。
今回は新しく油絵を始めたそうで初めての作品を見せてくれた。
そして今日は油絵教室での作品ではなく、朝早く起きてインストラクターなしで、描いた絵をメールで送ってくれた。
それが「Winter time」 
今日も一日とても暑かったので、冬景色で少しばかり涼しさを感じることができた。        
(写真:義兄の傑作 鉄道模型)
         

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涙の韓国旅行

2008-07-24 | Weblog
 終戦の昭和20年10月までいた韓国に、以前より機会があったらぜひ行って見たいと思っていました。
それが15~6年前実現しました。

金浦空港に到着しソウルに向かって車で1時間走りました。
翌日ソウル市街をいろいろ観光し、ヨイド~イテヨンや豊臣秀吉の朝鮮征伐の時の宮殿等日本と歴史的にも関係のある場所を見学しました。
しかし私にはぜひ行きたい所がありました。
それは終戦時まで過ごしていたインチョン(仁川)です。
妻の知人を通して日本を発つ前ソウル在住の韓国の方に通訳及びガイドをお願いしてありました。その方は朴(パク)さんという40歳前半の男性でした。
私の終戦時の事情を心より理解してくれて一生懸命案内してくれました。

ソウルより海岸に向かって電車で1時間ほどでインチョン駅に着きました。
私はあまり覚えていませんが、亡父母と何度も利用した駅と思い感慨深く見ていました。
駅前からタクシーで私達住んでいた日本人住宅があった場所や、すぐ近くの海岸へ行きました。
姉から聞いたのですが、頑固で人の前で涙を見せなかった父が、母妻子供死亡の連絡を受け葬式の為軍隊より一時帰宅した時、夜父の姿が見えないので探していたら一人海岸で声をあげて泣いていたそうです。

私はその海岸で海を眺めながら、その時の父の心情を思い涙が溢れどうしょうもなく座りこんでしまいました。
妻は私の涙をハンカチ拭きながら自分も泣いていました。
ガイドのパクさんも少し離れた所で涙をためてそっと見守ってくれていました。

帰り、インチョンからソウルの電車の中でパクさんより自分の親族の結婚式があるのでぜひ出席してほしいと言われ、ソウル郊外のあるお宅に案内されました。
皆様からすごい歓迎を受け親族のみしか出られない結婚の儀式の場に特別に出席させて頂きました。
見た事もない結婚式で珍しく、韓国の文化を感じました。
いろいろ美味しいご馳走もあり、お土産まで頂きました。
パクさんの奥様も挨拶に来られ本当にお世話になりました。
普通の観光旅行では体験できない多くのことを経験した素晴らしい韓国旅行でした。
(写真:韓国の結婚式)
      
     
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SLの汽笛

2008-07-22 | Weblog
  いよいよ猛暑の8月目前、例年の通り終戦記念日が近づいて来ました。
私は終戦時、韓国のソウルより少し離れたインチョン(仁川)にいました。
4歳の時ですから、あまりはっきり覚えていませんが所々頭にあります。
又亡き父からその時の事何回か聞かされました。父はテグ(大邱)で公務員を永くやっていましたが、召集令状が来た為インチョンの日本鉄道住宅に引っ越して来ました。
20年の3月にソウルの日本軍駐屯地に軍人として召集されたそうです。
母親と桜が咲く頃面会に行った事を姉から聞き、少し覚えています。
8月15日終戦となり軍隊も解散となるはずでしたが、朝鮮人があっちこっちで暴動を起こす為、部隊長のお願いで、進駐して来た米軍の兵隊と協力して一緒にソウルの街の警備をしたそうです。 
10月暴動はますます酷くなり、父にも日本に引き揚げるよう通達があり、私達家族も亡くなった祖母、母、弟の遺骨と当座の荷物をリュックに詰め、私も小さなリュックを持たされ、真夜中線路づたいに隠れ隠れ、集合地まで逃げてきたそうです。
日本人住宅に火の手が上がり、逃げ遅れた日本人は襲われ何百人も死んだそうです。
それからも危険な事は幾度もありましたが、ソウル~プサン(釜山)港そして何とか引き揚げ船に乗る事が出来ました。

私達(父と姉二人)は無事日本の福岡の門司港に着きました。
私は日本は始めてです。
父から私の国日本だと言われた事覚えています。
皆で安心の笑顔になった事も記憶にあります。
それからSLのポーポーと汽笛を聞きながら、何時間も夜汽車にゆられました。
SLは真っ黒な煙をはき、トンネルにきたらあわてて窓を閉めました。
父や姉は此れからどうしようとおそらく話していたと思うのですが、私も幼心にこれから自分たちはどうなるのだろうと汽笛を聞きながら不安になった事をはっきり覚えています。

現在SLは歴史の乗り物として観光地では凄い人気ですが、私はあの煙とポーポーと言う汽笛を聞くととても寂しく不安な気持ちになります。
残念ながらSLマニアみたいに感動はありません。
これも私の人生の思い出での一コマです。
      
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御巣鷹から23年

2008-07-21 | Weblog
  昨日日曜日、全関東青少年銃剣道大会が練馬駐屯地体育館で行われた。
千葉県連の理事長と副会長と共に8時30分に体育館に行くと、関東六県より24歳(高校、大学含む)までの選手280名が試合前の練習をしていた。
猛暑の中の体育館はクーラーもなく温度は45度をこえていたが、選手は重い防具と面を付けての試合だが機敏に動き、最後まで素晴らしい試合を見せてくれた。
一般の部では国士館大学が優勝、自衛隊の部では大宮の32普通科連隊が優勝した。一人の怪我人や熱中症の人も出さず無事に終了し我々役員及び関係者は安心した。

  今日は祭日なので妻と映画を見に行ってきた。題名は「クライマーズ・ハイ」。
23年前の8月12日、御巣鷹山に日航機が墜落した時の映画だった。
乗員、乗客524名を乗せたジャンボ機が羽田から大阪に向かう途中、群馬県上野村の御巣鷹山山中に墜落し、生存者4名。過去に例のない悲惨な事故を取材した記者たちの映画でした。

私は今銃剣道船橋支部に所属にしていますが、部員に作間優一七段がいます。作間氏は当時空挺レンジャーの隊員で真っ先に派遣命令を受け、ヘリコプターよりロープ降下し3日間懸命従事し生存者の一人の女の子を両足に挟んで、ヘリコプターで吊り上げた自衛隊員でした。
当時は話題の人で日本の新聞だけでなく、世界から取材がすごかったそうです。
その後彼は空挺レンジャー教官を最後に定年で自衛隊を退官し、某大学の職員として働いています。まだまだとても元気ですので、若い現役の空挺隊員や支部の武道指導者として私達と共に汗を流しています。(昨年8月高段者6段以上の部で全日本で優勝しました。今年8/8日に日本武道館で行われる大会に支部代表で又出場する予定です)
あの事故では520名が亡くなり、御巣鷹山はあまりにも悲惨な状況だったので本人もあまり口にしません。
彼の奥様の誕生日が8月11日ですが、あれ以来お祝いはしてないそうです。
    (写真:御巣鷹山にて作間隊員と生存者川上慶子ちゃん)
         
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五十肩?

2008-07-18 | Weblog
 昨日朝早く左肩と腕の痛みで目が覚めた。
とても痛く寝ていられない。前の晩寝る時は何でもなかった。
時計を見たら4時前で何とかもう少し寝ようと努力したが、痛くて我慢できない。妻を起こさないように静かに1階に下りて冷たい水を飲み、TVのニュースを見ながら痛みに耐えていた。
6時頃妻が起きて来て、どうしたの?と。
私が肩の痛みを話すとそれはきっと「五十肩」だと言う。
妻は昨年五十肩で苦しみ、イタイ、イタイと言っている時、気持ちが弛んでいるからだ、とか痛みなんか気にしないで頑張れ、とか時間が経てば治る、と今考えると酷い事を言ったと後悔し、すまない気持ちでいっぱいである。
痛さを堪えて出勤したが夕方頃痛みは収まった。
私のは五十肩なのか何なのか原因はわからない。
なかなか自分が痛みを経験しないと人の痛みはわからないのだなぁーと思った。
これからは妻に限らず他人の痛みを自分の事の様に考えなくてはいけないと改めて思った。 (写真:鹿の子百合:カスケード)

       
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「家が決ったら・・・」?

2008-07-16 | Weblog
  今年ももうすぐ8月の終戦記念日を迎える。

亡き父と姉2人と私の4人は終戦と共に、韓国から引き上げて日本に帰って来た。
父はその年の7月に私の弟を産まれてすぐ失くし、8月は私の母である妻、そして母親と続けて3人の肉親を失くし、傷心の中での帰国であったと思う。
私は4歳だった。当時のことはかすかに記憶にある。
故郷山口県に帰って来たものの、家もなく、職もなく・・・。
引揚者援護会や先に帰国していた弟(恒子叔母さん宅)にお世話になりながら、生きる道を探していた。叔母さん宅は防府市の郊外にあり離れの6畳間を借りて、茶碗からほうきまで借りながら半年近くお世話になったと思う。
父や姉がいろいろ気遣い、遠慮しながら生活しているのを幼いながら感じていた私は、家の前を行き来する人に向かって
 「家が決ったらのし上げてやるッ!」*(山口弁でやっつけてやるの意)と息巻いていたらしい。4歳の時の事とは言え今考えると恥ずかしい。 

私はすっかり忘れていたが、前に恒子おばさんに「Kっちゃん、小さい時そんな事を言ってたのよ。」と教えられた。

その後も父は大変苦労をして私達を一生懸命育ててくれたが、ずーと社宅と借家住まいで最後まで自分の家は持てなかった。
私が現在のこの家を買った時とても喜んでいた。小さな中古の家だがやっと50年たって自分の家が決まった。
いろいろな事があったが自分の家を持てて今は感謝している。
もちろん だれもノシアゲテなどいない。

       



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コンサート

2008-07-15 | Weblog
 若い頃からあまり音楽に縁がなく演歌かダンス音楽ぐらいしか興味がなかった私が今はいろいろな所に本格的な音楽を聞きに行っています。
教会には音楽はなくてはならないもので、プロなみの人も何人かいます。
その関係で昨年は池袋の芸術劇場にも行き3時間ちかく素晴らしい合唱を聞かせて頂きました。
最初は飽きて眠くなる事もありましたが、最近は少しずつその良さが分かってきて心静かにゆったりした気持ちで聴いています。
今週の日曜日夕方、小岩のアーバンブラザでコンサートがあり妻と行って来ました。
ピアノ、バイオリン、チェロ、リコーダー等の楽器の素敵な音色を聞き、またいろいろな方が日本の唱歌もまぜて歌い、3時間でしたがあっと言う間でした。
心癒されるようなコンサートでした。毎年7月にやっています。
最後に妻の韓国語の先生で、その女性は声も素晴らしくプロなみで、三曲歌って下さいました。あまりにその美しい声に聞きほれて終了時は私達立ち上がって拍手しました。
まだまだ音楽の事は良く分かりませんがこれからも機会があれば聞きに行きたいと思っています。(写真:妻の韓国語の先生です)
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愛車プリウス

2008-07-10 | Weblog
  今日代休をとり、午前中愛車のタイヤ交換に行って来ました。
私の現在の車は、ハイブリッドカー「プリウス」です。
4年前に購入しました。
25年前、晴海で世界のモーターショーを見に行った時、未来の夢の電気自動車をはじめて見ました。
将来モーターとバッテリーを組み合わせた自動車(ハイブリッド)の時代がくると説明されましたが、おとぎ話のようで私には関係ない話でした。
また若い頃は自分の車を持てるなんて考えられませんでした。
30代になって初めて中古の自家用車を持った時とても嬉しく喜んだ事を覚えています。
それから中古から中古へ買い換え、53歳の時初めて新車(クラウン2,400 ディーゼル)を買い10年間乗りました。
妻はディーゼル車は環境に良くないといつも気にしていました。
そして62歳でモーターショーで見た夢の車が私の愛車になったのです。
まさか私が自動車ショーで見たハイブリッド車に乗れる時代が来るなんて想像も出来ませんでした。

現在、燃料のガソリンも1L200円になりそうですが、私の愛車は満タンで1,000キロ以上走行します。(1L 24~26Km) 
これも想像できない事でした。
買う時はちょっと高いなと思いましたが、今となってはほんとに良かったなと思っています。 (写真:ハイブリッドカー・プリウス)
         
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