今年もいよいよ晩秋も季節となり日本各地紅葉真っ盛り。
美しき山々を見ると遠い昔の幼い時の想い出がよみがえります。
河口湖より(山梨県)
奥入瀬(青森県)一昨年
昭和21~22年、外地から引き揚げて二番目の姉は(9歳)九州大分の親戚へ。
上の姉(12歳)と父と三人で広島まで一緒にきたが、姉は府中の隣り街に(学校がある為)その家の手伝いをしながら知人の家へ。
5歳の私は父と府中の深い山奥にいた。
父は姉の旦那がやっていた林業の仕事を手伝っていたと思う。
父は外地で長年公務員をしていてこの時40歳位で終戦20年8月妻は死亡。
実姉の縁で広島の府中に来た。
材木を切る仕事で20人位いて朝早くから夜遅くまで仕事をしていた。
私は飯場で一人留守番しながら近くで一人遊んでいた。
ある日、父達は一か月間もっと2山越えた山奥の現場にテントを張って泊まり込みで行くことになり子供は無理との事。
父は私に遠くの山を指しながら「父ちゃん仕事で行くけど、子供は行けないのでここで待つように」と言った。
まだ5歳の子供を残して長期間別れるのは父は辛かったと思う。
私は一人何日も留守番をしていた。
昼間は山の麓からおばあさんが賄いに来てくれていた。
ある日、父の姉の旦那が現場で腰を痛めてこの飯場に戻ってきた。
私は、この人は太っていて顔が大きく声も大きい髭面で怖くて嫌いだった。
ある朝お腹が空いて、飯場の勝手口に行き釜から直接しゃもじのまま口にご飯を一口食べた。
その時ちょうどあの怖いおじさんに見つかり強く怒鳴りつけられた。
私は泣きながら父の名前を呼び飯場を飛び出し父が指差した遥か遠い山に向かって走った。
凄い急な登り急な下りを幾つも越えた記憶がある。
父が指差した山に向って走った。ただ父に会いたくて。
何時間も歩いたり走ったり無我夢中だった。
まだ5歳、方向も山の名前も分からないし、もちろん人一人いない山奥である。
一日中、朝から夕方、そして夜になって真っ暗になり、おそらく怖くて泣きながら行動していたと思う。
二日目の夜その時はるか向こうの山に灯りが見えた。
私はそれをめざしてまた何時間も歩いた。
三日目の早朝山小屋が見えやっと人の声が聞こえた。
私が近づくと「え~っ子供が来た!」「どうやって来た?」「本当に山を越えて来たのか!」と皆ビックリ。
「松田さんの坊やじゃなかろうか!」皆から頭を撫でられた。
呼ばれた父が飛んで来て私は父に抱きついて泣いた。
父も強く抱きしめてくれたのを今でもはっきり思い出す。
おじさんに怒鳴られた事を話したら、父は「よく頑張った。山を無事に乗り越えたのはきっと天国の母ちゃんが守ってくれたんだ。」と言って私の手をしっかり握って次の日一緒に父は私を背中に背負って山ずたい一日半駆けて飯場に帰った。
[私は父の背中の愛のぬくもりが今でも忘れられない]
怖いおじさんは父にとって義理の兄にあたるが、父はものすごく怒って喧嘩し、次の日仕事を辞めて父子姉三人広島を離れた。
戦後の困難時代、私達は放浪の旅を続けながら一年後父は山口県防府のカネボウ紡績(株)就職し家族住宅に落ち着いた。
(その後父は生涯二度とこの義兄とは会うことはなかった)
広島市内は20年8月原爆で何万人の被害があり、翌年府中の山奥で5歳の男の子が遭難しょうが、例え死んだとしてもニュースにもならないし新聞にも載らないと思う。
私自身まだ幼い5歳だったのに何故こんなに覚えているのか不思議でならない。鮮明に記憶にあるのは私にとって強烈な事だったのだと思う。
中国山脈
読者様への返信コメントです。
嬉しいコメント有り難う、御座います。
父が存命中、くわしく聞きました。
時期は六月初旬で半ズボンで足や首筋を虫に刺され顔も木の枝や葉っぱで傷だらけだったとの事。顔も汚れて真っ黒何も食べてなくて皆に身体をぬれたタオルで拭かれ抱っこされ、おにぎりや山のアケビを食べさせてもらったそうです。二日目の山中で水は山の裾野で滝の音を聴き坂を少し下って飲んだような覚えがあります。
延べ三日間山中を彷徨い歩きよく無事と皆に言われたそうです。亡母が天国から見守ってくれたと感謝してます。その他に私は二歳の時お手伝いが、目を離した時、近所の防火用水のドラム缶の中へ落ち仮死状態で発見され、又3歳ではいろりの周りを走り回って転んで火の中に頭から突っ込み後頭部を火傷しました。今でも姉(アメリカ在住)から私に逢うと必ず幼い時火、水、山の災難の事を言われます。
今、私は後期高齢者です昨年80歳まで社会で一員として働き、会社の「健康診断異常なし」で現在もとっても元気です。
本当に何故私が今迄生かされてるのか神様に感謝してます。
A I チャットの感想
父の愛の背中、(大空を見上げて)ブログというのは、fight-mさんという方が書いているブログのタイトルです。このブログでは、日頃感じていることや、青空や自然の写真、家族や旅行の話などを綴っています。fight-mさんは、父親から受け継いだ「大空を見上げて」の言葉を胸に、前向きに生きているようです。