大空を見上げて

日頃感じていること

「家が決ったら・・・」?

2008-07-16 | Weblog
  今年ももうすぐ8月の終戦記念日を迎える。

亡き父と姉2人と私の4人は終戦と共に、韓国から引き上げて日本に帰って来た。
父はその年の7月に私の弟を産まれてすぐ失くし、8月は私の母である妻、そして母親と続けて3人の肉親を失くし、傷心の中での帰国であったと思う。
私は4歳だった。当時のことはかすかに記憶にある。
故郷山口県に帰って来たものの、家もなく、職もなく・・・。
引揚者援護会や先に帰国していた弟(恒子叔母さん宅)にお世話になりながら、生きる道を探していた。叔母さん宅は防府市の郊外にあり離れの6畳間を借りて、茶碗からほうきまで借りながら半年近くお世話になったと思う。
父や姉がいろいろ気遣い、遠慮しながら生活しているのを幼いながら感じていた私は、家の前を行き来する人に向かって
 「家が決ったらのし上げてやるッ!」*(山口弁でやっつけてやるの意)と息巻いていたらしい。4歳の時の事とは言え今考えると恥ずかしい。 

私はすっかり忘れていたが、前に恒子おばさんに「Kっちゃん、小さい時そんな事を言ってたのよ。」と教えられた。

その後も父は大変苦労をして私達を一生懸命育ててくれたが、ずーと社宅と借家住まいで最後まで自分の家は持てなかった。
私が現在のこの家を買った時とても喜んでいた。小さな中古の家だがやっと50年たって自分の家が決まった。
いろいろな事があったが自分の家を持てて今は感謝している。
もちろん だれもノシアゲテなどいない。

       



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2 コメント

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Unknown (post)
2008-07-19 11:34:25
 終戦時は皆さんご苦労なさって、今日という日を迎えているようです。
私も5才まで母の実家に疎開をしていました。村はずれの小さな廃屋に近い家で雨露をしのいだ経験があります。
 実家から夜の田舎道を塩を貰っての帰り道転んで塩を道路にこぼしてしまった事の思い出があるます。戦争中ですから貴重なお塩だったと思います。しかし母に怒られた記憶はありません。
21年小学校入学は布とボール紙で造られたランドセルを叔父たちからプレゼントされて喜ん学校に通った事を思い出します。
 雨の日はお休み。男子組と女子組の分かれていたことも思い出しました。

ブリーフケアについては別の時メールを差し上げます

2008/7/19          松下信雄

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Unknown (fight-m)
2008-07-19 16:50:36
コメントありがとうございます。

その頃は、皆私達の年代は苦労したんですね。
 
アメリカ在住の姉からもパソコンにコメントがきました。

お互いに懐かしい思い出ですね。
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