昨日、TV東京で「世界で働くお父さんに会いたい」を見た。
海外に単身赴任のパパを子供が成田空港でママと別れ、単独で父親を訪問するという番組。(もちろん、番組スタッフは一緒)
カナダで寿司職人やっている36歳のお父さんに九州は大分在住の9歳の息子が訪問。
またインドに赴任している父に小学校3年の双子のヤンチャな男の子が訪問。
ベトナムで現地建設現場監督をしている父に、北海道在住の11歳の少女が現地まで空港から200kmをバスや馬車を乗り継いで父と対面。
ほかにタイやフィリピンの父を訪ねた子供たちの番組だった。
予告なしにいきなり目の前に現れた息子や娘を前に、父は唖然!ビックリ!「えっ?ーどうして?」と言葉も出ず…。
やっとお父さんに会えた子供も涙、又父も子供を抱きしめ嬉しさと懐かしさで涙いっぱい。
私達夫婦もこの父子の愛に感動して何回も目頭を抑えた。
私はこの番組見ながら私自身の幼い体験を思い出していた。
昭和21~22年、外地から引き揚げて二番目の姉は(9歳)九州大分の親戚へ。
上の姉(12歳)と父と三人で広島まで一緒にきたが、姉は府中の隣り街に(学校がある為)その家の手伝いをしながら知人の家へ。
5歳の私は父と府中の深い山奥にいた。
父は姉の旦那がやっていた林業の仕事を手伝っていたと思う。
材木を切る仕事で20人位いて朝早くから夜遅くまで仕事をしていた。
私は飯場で一人留守番しながら近くで一人遊んでいた。
ある日、父達は一か月間もっと2山越えた山奥の現場にテントを張って泊まり込みで行くことになり子供は無理との事。
父は私に遠くの山を指しながら「父ちゃん仕事で行くけど、子供は行けないのでここで待つように」と言った。
まだ5歳の子供を残して長期間別れるのは父は辛かったと思う。
私は一人何日も留守番をしていた。
昼間は山の麓からおばあさんが賄いに来てくれていた。
ある日、父の姉の旦那が現場で腰を痛めてこの飯場に戻ってきた。
私は、この人は太っていて顔が大きく声も大きい髭面で怖くて嫌いだった。
ある朝お腹が空いて、飯場の勝手口に行き釜から直接しゃもじのまま口にご飯を一口食べた。
その時ちょうどあの怖いおじさんに見つかり強く怒鳴りつけられた。
私は泣きながら父の名前を呼び飯場を飛び出し父が指差した遥か遠い山に向かって走った。
凄い急な登り急な下りを幾つも越えた記憶がある。
父が指差した山に向って走った。ただ父に会いたくて。
何時間も歩いたり走ったり無我夢中だった。
まだ5歳、方向も山の名前も分からないし、もちろん人一人いない山奥である。
一日中、朝から夕方、そして夜になって真っ暗になり、おそらく怖くて泣きながら行動していたと思う。
その時はるか向こうの山に灯りが見えた。
私はそれをめざしてまた何時間も歩いた。
やっと人の声が聞こえた。
私が近づくと「え~っ子供が来た!」「どうやって来た?」「本当に山を越えて来たのか!」と皆ビックリ。
「松田さんの坊やじゃなかろうか!」皆から頭を撫でられた。
呼ばれた父が飛んで来て私は父に抱きついて泣いた。
父も強く抱きしめてくれたのを今でもはっきり思い出す。
おじさんに怒鳴られた事を話したら、父は「よく頑張った。山を無事に乗り越えたのはきっと天国の母ちゃんが守ってくれたんだ。」と言って私の手をしっかり握って次の日一緒に飯場に帰った。
怖いおじさんは父にとって義理の兄にあたるが、父はものすごく怒って喧嘩し、次の日仕事を辞めて父子姉三人広島を離れた。
戦後の困難時代、私達は放浪の旅を続けながら一年後父は山口県防府のカネボウ紡績(株)就職し家族住宅に落ち着いた。
(その後父は生涯二度とこの義兄とは会うことはなかった)
私自身まだ幼い5歳だったのに何故こんなに覚えているのか不思議でならない。鮮明に記憶にあるのは私にとって強烈な事だったのだと思う。